システィーナ礼拝堂の壮大な天井画と《最後の審判》、最高傑作の裏にあるもの

2023年7月12日(水)12時0分 JBpress

「絵画は自分の本分ではない」といって憚らなかったミケランジェロでしたが、ユリウス2世の命でシスティーナ礼拝堂の1000平方メートルに及ぶ天井画を4年の歳月をかけて完成させます。

文=田中久美子 取材協力=春燈社(小西眞由美)


システィーナ礼拝堂天井画への挑戦

 1508年、33歳のミケランジェロは教皇ユリウス2世からヴァチカンのシスティーナ礼拝堂天井画の制作を命じられます。ラファエロらのほうが適任と主張したそうですが却下され、いやいやながらも請け負います。

 かつての工房の兄弟弟子6人が助手として参加して、制作は始まりました。彫刻家として活躍していたミケランジェロはフレスコ画制作の経験に乏しかったのですが、彫刻にとってもデッサンが基本と考えていたため、その訓練も重ねていました。また、解剖学も勉強していたことから、彫刻で表そうとした躍動感や肉体表現をここでも目指しました。

 4年間、毎日毎日上を向いてひたすら描いたミケランジェロは制作中、絵の具が垂れてくることや無理な姿勢で首が痛いこと、お金を払ってもらえないことなど、あらゆることが不満だということを詩にして、知人に送ったりしています。

 また、下でミサが行われているときは、その邪魔をしないように足場を組むようにいわれたため、天井のカーブに合わせて足場を作り、描きながら移動させて描いていったのですが、この足場自体がそれまでにない、極めて創意的な創作物だったと伝わっています。

 制作工程はどんなものだったかというと、まず完璧な下絵を書き、その日に描く予定の天井のスペースにだけ漆喰を塗ります。そこに下絵を貼り付けて穴を開け、上から炭を塗って下書きを写し、漆喰が乾かないうちに顔料を塗っていきます。

 1日に進む工程を、「1日の仕事」という意味の「ジョルナータ」といいますが、ミケランジェロが1日に描いた境目の跡が残っていて、どれだけ日数がかかっているのかがわかります。途中で弟子もお払い箱にして、毎日毎日、決めた分をひとりで律儀に描いていった努力がこれを見ると伝わります。中央の1枚は3日で描き上げるくらいのスピードだったそうです。

 ミケランジェロが手がける前の天井には青空が描かれていて、当初は十二使徒が描かれる予定でした。あえて旧約の世界に変更したことには諸説ありますが、おそらくミケランジェロだけの意思ではなく、神学者らが参加して、プログラムされたのではないかと考えられています。

 この天井画で特筆すべきは、平らな面であるにもかかわらず、柱などの建築モチーフを描いて、それらが飛び出ているような立体感があるところです。柱の所には台座のようなものが描いてあるのですが、本当に隆起したり陥没したりしているように見えます。

 また、両脇はスパンドレルという三角の形状の建築モチーフで完全に画面を整理していて、絵画でこのような試みが成功しているところが、ミケランジェロの凄さだと思います。凹凸があって影と光の当たる部分があるかのように見えるという、イリュージョンを実現しているのです。


卓越した場面構成と人物描写

 場面を整理してみましょう。天井の中央の9つの場面が旧約聖書の世界です。礼拝堂の入り口からみて、奥から順に神がこの世を生み出していく『創世記』の場面から、ノアの方舟で有名なノアの物語までが描かれています。その両脇には旧約聖書に出てくる預言者や巫女が座っている様子が大きく描かれています。

 さらに細々した旧約の場面が枠に合わせてメリハリをつけながら描かれ、関連している世界が完結するという構想は見事で、驚くべきものです。

 また9場面は、神が世界をつくっている場面が3つ、アダムとエヴァという初めての人間の場面が3つ、ノアの物語が3つ、というように3場面ずつで構成されています。

 最初の神が光と闇とを分離する場面では、周囲に4人の裸体の人物が座っていて、この意味は色々な解釈がされています。4人の人物描写を見ると、皆、体が捻くり返っていますが、それぞれが違うポーズをしています。

 4人が覗き込む枠の中では、神が斜めに体を捻らせ、その両側を明るい色と暗い色で表現していることから、神が光と闇を分けているということが伝わります。極めて省略的な表現であるにもかかわらず、神が旋回しながら光と闇を分けているダイナミズムを感じさせます。

 次の場面では画面いっぱいに両手を広げている姿と後ろ姿という、神を2回登場させることにより、太陽と月の創造を表現しています。

 次の場面はまた4人の人物が枠を取り巻いていて、枠の中では極端な短縮法を用い、神が奥からパーっと前に飛び出してきそうな動作で、空気と水を分離している様子が表現されています。枠があって4人が取り巻いているもの、そうでないもの、また枠があって4人が取り巻いているもの、そうでないもの、と交互にリズムを作ることで、全体の構成の妙があります。

 天井画は聖書の順ではなく、入り口に近いところから描いていきました。6人の弟子といっしょに描き始めますが、出来が不満だったため全員お払い箱にして、ひとりで描きました。ですから、ノアの場面はやけに説明的で細かい部分がありますが、だんだん大胆な構図になっていき、明らかに様式が違います。

 ミケランジェロがひとりで描いた世界の創造の場面は、神の肉体とその動きだけでダイナミックに表現されているのもそのためです。

 天井画には300人以上の人物が描かれています。どの肉体を見ても素晴らしく、《ラオコーン》などから学んだ、まさに古代の古典的な肉体美を表現しながら、それぞれを自由に躍動的に描いています。ひとりとして同じものがなく、それぞれの肉体で個性を表現している、まさに息をのむような天井画です。その中から、何人か取り上げてみましょう。

 なんと言っても有名なのは、《アダムの創造》(1ページ参照)の場面です。神が息を吹き込んでアダムが誕生したと聖書にある場面を、人差し指と人差し指を触れようする動作にして描きました。アダムの肉体の美と動きだけでこれだけの緊張感を出せるのも、ミケランジェロの卓越した才能でしょう。

《リビアの巫女》も有名です。旧約の世界の巫女ですが、後ろの本を開くのに無理して腰を捻り、足の指先まで力がこもっています。背中や腕の筋肉もムキムキという、まさに彫刻的な描き方です。外側の建築枠組みの中に描かれている人物のひとりですが、このような形でそれぞれが違う動作をしている男女が描かれていて、中央の場面との対比、構造の複雑さを、メリハリを持って伝えてくれる作例です。

《預言者ヨナ》は30年以上後に完成する壁画《最後の審判》(3ページ参照)の上部にあります。巨大な魚の腹の中に飲み込まれた話が有名で、この人物がヨナだということを知らせるために、魚も描かれています。ヨナも美しい隆々とした肉体を捻じ曲げて表現されています。このように女と男の多様な肉体の動きと、エネルギーを感じさせる肉体が中央の場面を取り巻いているのです。

 天井画はまさに、神のごときミケランジェロの最高傑作といえるでしょう。


批判を受けた奇妙な《最後の審判》

 1512年のシスティーナ礼拝堂の完成から20年以上経った1534年、ミケランジェロは同じ礼拝堂内の壁画の依頼を受けます。

 教皇クレメンス7世はシスティーナ礼拝堂の壁画をミケランジェロに任せることが念願でした。この時期はイタリア戦争でローマが攻撃され、破壊された「ローマの劫掠」の後の混乱の時期を経て、プロテスタントとの覇権争いなどもあり、カトリック自体が大変な時期でした。

 システィーナ礼拝堂は法王庁であり、カトリックの総本山であるヴァチカンの教皇のプライベートな礼拝堂でしたが、教皇は「最後の審判」というキリスト教の帰結のテーマで完結させようとする強い意志がありました。

 ミケランジェロは渋々これを承知し、フィレンツェからローマにやってきますが、その2日後にクレメンス7世は亡くなってしまいます。後継のパウルス3世は、宗教改革の混乱を収束させカトリック教会の体制の立て直しを図るために、1545年、キリスト教世界の最高会議トレント公会議を招集したことで知られる人物です。

 パウルス3世も壁画の続行を望み、すでに60歳を過ぎていたミケランジェロに絵を描かせました。教皇は矢継ぎ早の催促をしてミケランジェロを苦しめましたが、教皇庁の主任建築家・彫刻家・画家に任命し優遇もしました。

 与えられた壁にはペルジーノの《聖母被昇天》があり、ミケランジェロも元の絵を残すことを考えましたが、絵は消され、ふたつあった窓も埋められ、壁一面に「最後の審判」の場面を描くことになります。

 6年の制作期間を経て1541年、壁画は完成します。絵には遠近法はなく、「テリビリタ(凄まじさ)」と表現される圧倒的な迫力がありました。

「最後の審判」というテーマは昔からある伝統的なテーマで、中央に審判者であるキリストが描かれます。壁画にも中央にキリストがいるのですが、こんなマッチョのキリストは前代未聞です。キリストは蘇って審判を行うために現れると、自分が再臨したキリストであることを示すために磔にされた時にできた手の平と肉体の傷を見せます。この絵のキリストにも傷がありますが、筋肉質でなんともエネルギッシュです。

 キリスト教のシンボリックな意味に、キリストの右側が良き側、左側が悪しき側というものがあります。この絵の左側にいる人は川を渡って地獄に落とされ、右側は死んでいた人が蘇って審判を受ける、という旋回を繰り返すような、ダイナミックな構図です。キリストの周囲にいる人は聖母マリアのほか、パウロやペテロなど、聖人たちだとされています。

 裸体の競演ともいうべき本作には、ミケランジェロが関心を持った人体のプロポーションが集まり、それぞれの肉体の動きと、前を向いている人物の隣は後ろを向いている人物といったような、ポーズの対比も見られます。プロポーションもどんどん引き伸ばされたり、捻れたり、デフォルメされていたりと、彫刻で表現されたセルペンティナータ(蛇のような螺旋状)も取り入れています。次の世代を予期し、その橋渡しをする先駆者がミケランジェロであることをこの壁画はよく示しています。

 しかし、これについて賛否両論が巻き起こります。「最後の審判」の中に裸体や性器を晒している人物がいることがふしだらだという非難が集まり、儀典長ビアジオ・デ・チェナーゼは風呂屋か売春宿にふさわしい絵だと強烈な批判をしました。芸術ということで何でも受け入れられる訳ではなく、見られる場所も考えなければいけないという、現在の検閲に関わるような問題です。

 壊してしまおうという意見も出ましたが、解決策としてふんどしを描き足して、男性の性器を隠します。その画家は「ふんどし画家」と呼ばれますが、彼のおかげで今日この傑作を見ることができるのです。壁画は芸術界に大きな問題を投げかけた作品でもありました。

 描かれている人物で面白いエピソードがあります。画面右下にいる性器を蛇に噛まれている死者の国の判官ミノスは、大反対した儀典長に怒ったミケランジェロが彼をモデルにして描いたものです。

 また、ミケランジェロ自身は、聖バルトロマイが手にしている生きたまま剥がされた皮の顔を自画像として描きました。

 芸術の適正という大きな問題がありながら、個人的な恨み辛みの感情をこんな形で晴らしているのもミケランジェロらしいところです。

 ミケランジェロの一生の流れを見ると素晴らしい作品を残しながら、その影で一生懸命動き、苦悩している姿が浮かび上がります。とくに絵画に関しては創作の喜びもあったのかもしれませんが、ミケランジェロは嫌な思いをしてきました。もの凄く過剰なエネルギーがありながらも、いつも苦悩しています。それが世界にその名を轟かせる名作を産んだという矛盾が面白く、興味がつきない画家です。極めて人間的な神のごときミケランジェロの大傑作を、機会があればぜひ見ていただきたいと思います。

参考文献:『神のごときミケランジェロ』池上英洋/著(新潮社)、アート・ビギナーズ・コレクション『もっと知りたいミケランジェロ 生涯と作品』池上英洋/著(東京美術)『システィーナ礼拝堂を読む』越川倫明・松浦弘明・甲斐教行・深田麻里亜/著、『ルネサンス 天才の素顔 ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエッロ 三巨匠の生涯』池上英洋/著(美術出版)、『レオナルド・ダ・ヴィンチ 生涯と芸術のすべて』(筑摩書房) 他

筆者:田中 久美子

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