薩英戦争の始まり、生麦事件の重要性とは?イギリスの要求と薩摩藩の思惑

2023年9月20日(水)6時0分 JBpress

(町田 明広:歴史学者)


薩英戦争の原因・生麦事件

 今から160年前、文久3年(1863)7月2日、鹿児島湾で薩英戦争が勃発した。そもそも、なぜ薩摩藩とイギリスは戦争に至ったのだろうか。その導火線となったのは、前年の文久2年(1862)8月21日に起こった生麦事件であった。

 生麦事件とは、江戸から京都に向かう薩摩藩主の実父であり、かつ最高権力者である島津久光の行列に騎馬で遭遇した英国商人リチャードソンを奈良原喜左衛門らが無礼打ちした事件である。リチャードソンは肩から腹へ斬り下げられ、臓腑が出るほどの深手を負い、200メートルほど戻り落馬した。そこに、追いかけてきた海江田信義によって止めを刺された。

 ちなみに、リチャードソンと同行していた男性2人も負傷し、また、女性で唯一同行していたボロデール夫人も一撃を受けていたが、帽子と髪の一部が飛ばされただけの無傷であった。薩摩藩士はリチャードソンを首謀者と判断し、女性には手加減を加えたのだ。

 発生直後からイギリスと幕府、そして薩摩藩との間で大きな紛争の火種となったのが、この生麦事件である。今回は、生麦事件から薩英戦争に至る経緯から戦後の和平交渉まで、その実相を追いながら、3回にわたって、薩英戦争の真実を解き明したい。


イギリスの要求と事件の重要性

 イギリスのラッセル外相は、幕府に対しては事件の発生を許したことに対する公式の謝罪、犯罪に対する罰として10万ポンド(40万ドル)の支払いを、薩摩藩に対しては、1名ないし数名のイギリス海軍士官の立会いの下にリチャードソンを殺害し、その他の者に危害を加えた犯人を裁判に付し処刑すること、被害に会った4名のイギリス人関係者に分配するため、2万5千ポンド(10万ドル)を支払うことを要求した。

 しかし、この要求にはいささか首をかしげざるを得ない。と言うのは、日本を代表し、通商条約を締結した幕府のみならず、薩摩藩に対してまで要求をしているのだ。これは何を意味しているのだろうか。

 実は、ラッセル外相が「日本の異常な政治状況」を考慮せざるを得ないとして、幕府と薩摩藩の双方に賠償金等を要求している。「日本の異常な政治状況」とは、幕府の権威が地方諸侯、つまり薩摩藩に及ばない実態を指している。この事実は、幕府の全国統治能力を否定しており、さらなる幕府の権威の低下を招来したことに他ならない。

 なお、英国通訳官のアーネスト・サトウは、『英国策論』(慶応2年、1866)の中で、外国が将軍と条約を結んだことが大きな間違いであったことに気づいたのは、生麦事件からであり、将軍は諸侯を統制できないことが明白となった。しかも、諸侯が割拠を始めた契機であると指摘していることは極めて重要である。そして、外国は今の通商条約を破棄して、新条約を結ぶべきであると結論付けている。生麦事件は、まさに外国勢力が幕府を見る目を一変させた重大事件であったのだ。


通商を望んでいた薩摩藩の思惑

 ここで、生麦事件直前の薩英関係について、言及しておこう。文久2年8月5日、家老島津登と家老吟味(見習い)小松帯刀が横浜において、イギリスのジャーディン・マセソン商会と永平丸(ファイアリ・クロス号)購入の商談を行い、試乗まで行った。

 その後、島津久光も横浜に向かい、直に売却・支払方法について商談を行い、日時は未詳ながら契約を完了している。この後、生麦事件が勃発しているが、1週間後の28日に引き渡している。イギリスのビジネスライクな対応には、舌を巻く思いである。

 ところで、商談の際に小松がイギリス商人に語った内容をカヴァー書簡(ヴァイス宛、1862年9月5日、ラッセル外相宛ニール報告〈9月14日付〉に同封)で確認しておこう。

小松は、主君(久光)は外国人の最大の敵の1人であると絶えず言い触らされているが、それは全く嘘であり、外国人との友好と通商関係の樹立を切に臨んでおり、薩摩藩の物産の一覧表をカヴァーに渡し、藩の御用を務める商人を打合せのため、江戸からカヴァーの許に寄こしてもよいと述べた。また、小松は幾つかの鹿児島の港の名前を挙げ、そこで一緒に商売をしようではないかと提案した。カヴァーがそれは現行の条約に違反すると答えると、小松は非常にがっかりした様子であった。しかし、それならば大君(将軍)とだけではなく、我が藩が外国人とも通商関係を持てるように、条約を結びたいと要望した。そして、小松は何も恐れることはない、大君の役人は1人たりとも自分の主君の領地に足を踏み入れさせはしないからと断言した。

 これを見ると、小松は執拗にイギリスとの貿易開始を求めており、そのための通商条約の締結すら辞さない態度には驚きを禁じ得ない。薩摩藩が、いかに貿易をしたがっていたかが分かる貴重な史料である。さらに、文久2年のこの段階で、薩摩藩が幕府を驚くほど軽視していることは注目に値しよう。幕薩対立の萌芽が、ここに見て取れる。

 ところで、こうした事実は、日本側の史料からは、なかなか見えてこない。最近の、外国の外交文書などを使用した研究による大きな成果である。

 次回は、イギリスが生麦事件後の薩摩藩をどのように見ていたのか、追うことにしよう。

筆者:町田 明広

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