太宰治の思う「正しい愛情」とは?名家に生まれ道化を演じるしかなかった不幸

2023年9月27日(水)12時0分 JBpress

太宰は生と死の岐路に何度か立ちました。最終的に死に至ってしまった背景には、何があったのでしょうか?

文=山口 謠司 取材協力=春燈社(小西眞由美)


名家に生まれた不幸

 太宰治といえば津軽の名家出身というイメージが強いと思いますが、戦前、地方の地主の次男、三男に産まれた人は、とっても不幸でした。当時は長男だけにありったけの愛情も財産も注ぎ込んで、父親の死後も全財産を継がせます。次男以下は服も文房具も全部長男のお下がりを使い、財産を譲渡されることも一切ありません。愛情も注いでもらえず、もし、長男が死んだら兄弟のうちでいちばん家を継ぐのに相応しい者を選んでやる、くらいの存在だったのです。

 太宰治(本名・津島修治)は、11人兄姉妹の10番目、上に5人も兄がいる六男として生まれました。父親・源右衛門は豪農の家からとった婿養子でした。津島家の職業は庄屋でしたが源右衛門は銀行を設立して頭取になり、県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員などもしていました。

 母親の夕子は病弱で、子どもたちは皆、乳母によって育てられます。もちろん、六男である修治のことなどまったく関心がありません。

 太宰は、つねに母親の「愛情」に飢えているのです。このことが作家太宰に大きな影響を与えます。

 1945年(昭和20)10月から翌年1月にかけて、仙台の新聞「河北新報」に連載した『パンドラの匣』に、こんな文章があります。

 君、正直な人っていいものだね。単純な人って、尊いものだね。僕はいままで、竹さんの気のよさを少し軽蔑(けいべつ)していたが、あれは間違いだった。さすがに君は眼が高い。とてもマア坊なんかとは較(くら)べものにも何も、なるもんじゃない。竹さんの愛情は、人を堕落させない。これは、たいしたものだ。僕もあんな、正しい愛情の人になるつもりだ。僕は一日一日高く飛ぶ。周囲の空気が次第に冷たく澄んでくる。

太宰治『パンドラの匣』(新潮文庫)

 この文章からすれば、「正しい愛情」とは、すなわち「心情の美しさ」と重なるもの、あるいは「心情の美しさ」を、さらにもっと突き詰めたものだと考えられます。母親であるなら、そういう気持ちで自分にも愛情を注いで欲しいのだ、「僕」はそれを求めているのだ、とこの小説で太宰は訴えます。でも、母は決して「正しい愛情」を太宰に注ぐことはありませんでした。『パンドラの匣』に登場する「正しい愛情の人」である「竹さん」は、母親への当て付けなのです。

 だから、『パンドラの匣』に書かれるように、「僕」は堕落してしまうのでした。

 太宰は、この「正しい愛情の人」という言葉を、1947年(昭和22)に発表した『斜陽』でも使っています。こんな表現は、同時代の作家に見つけることができません。太宰ならではの表現です。

 僕がその洋画家のところに遊びに行ったのは、それは、さいしょはその洋画家の作品の特異なタッチと、その底に秘められた熱狂的なパッションに、酔わされたせいでありましたが、しかし、附合いの深くなるにつれて、そのひとの無教養、出鱈目(でたらめ)、きたならしさに興覚めて、そうして、それに反比例して、その人の奥さんの心情の美しさにひかれ、いいえ、正しい愛情のひとがこいしくて、したわしくて、奥さんの姿を一目見たくて、あの洋画家の家へ遊びに行くようになりました。

太宰治『斜陽』(新潮文庫)

 第2回で紹介した、川端康成が『伊豆の踊子』で書いた「いい人っていいね」という言葉に共通する部分もあるのではないかと思います。川端も父母の愛情をまったく知らずに生きた人でした。しかし、ひどい言い方になってしまうかもしれませんが、川端の場合は2歳で父を、3歳で母を亡くしていて、父母を知らずに育った分だけサバサバとしていられたのだと思います。太宰の場合、母親は長兄だけを可愛がって自分を無視しました。愛情の渇望から、母親以外の女性にそれを求めるしかなくなってしまうのです。

 母親の「愛情」がどれだけ子どもに必要なのかということが、心理学や脳科学などでわかってくると、太宰がテーマとした「正しい愛情」不足から人は「堕落」するということは、文学のテーマとして成り立たなくなってしまうのです。

 言い替えれば、太宰の文学は、もはや「古典」であって、現代的な文学のテーマではなくなっているのではないでしょうか。


「道化」は文学といえるのか?

 母親から愛されず、無視されて育った太宰は、自分の存在を示すために学校でも道化を演じます。尋常小学校、小学校では首席、高等小学校でも成績は良かったものの、「お前は面白い」「変なやつだね」「普通じゃない」と思われたいがために人の目を引こうと悪戯をしたため、修身と操行という道徳的な評価は低かったのでした。

 1923年(大正12)3月に父親を喪い、太宰は県立青森中学校(現・青森高等学校)に入学します。そして、ここでも道化者を演じてクラスの人気者になり、この頃、小説にも興味を持ちはじめました。

 小説家としてある程度評価されてからも、自分が子どもの頃から親に無視されて育った厄介者ということが心から離れず、道化者であり続けて生きていかないといけなかったのでしょう。

 自分をさらけ出すことが純文学だと思っていたのだとしたら、それは違うと思います。さらけ出したあと、そこには何もないのですから。

 福沢諭吉の「独立自尊」のように、芯となるものを持っていないと自己評価も低くなります。面白い道化話を伝えることができればよかったのですが、自分を曝け出すことしかできなかった太宰は、真っ裸になって人を笑わせているだけの道化者でした。そして自分がやっていることは嘘だと思いながら、道化をやればやるほどなお虚しくなって、生きていくことの意味が消え去っていったのではないでしょうか。

 太宰は戦後、坂口安吾、石川淳、織田作之助らとともに無頼派作家と呼ばれました。

 無頼派というのは文字通り、誰にも頼らないという意味です。坂口安吾のように食べたいだけ食べて、がむしゃらに書いている作家であればいいと思います。なんでもかんでも謎だと言って、自分の私感で歴史観を語って、ガンガンガンガンやれる強い人間であれば本当の無頼派なのでしょうが、太宰は無頼派になれなかった無頼派でした。


2人の子どもが生まれたことが死を早めた?

 太宰の人生の分岐点を考えると、まず小説家になろうと思った24、5歳の時、芥川賞を獲れなかった時、そして剽窃事件でしょう。しかし、人間としても作家としても最終的な分岐点は、同じ歳に妻と愛人に女の子が生まれたことではないかと思います。

 太宰は2番目の妻・美知子と30歳で新世帯を持った後、しばらく安定した執筆活動をしていました。32歳の時に長女・園子、35歳の時に長男・正樹が誕生しています。

 そして1927年、38歳で死ぬ前年、3月に正妻の美知子との間に次女・里子が生まれ、12月に大田静子との間の子・治子が生まれます。のちに津島祐子、大田治子という作家になったふたりです。

 このことが、「これでは自分はダメだ」という最後のボタンを押したのかもしれません。

 経済的にも精神的にも「自立」できていない人として、仲間の作家や編集者、出版社の人たちからも冷たい目で見られるようになってしまうのです。

 そうした「文学」、つまり自分をさらけ出すだけの「文学」は、昇華しきれないただの雑文になってしまうところまで来てしまっていたのです。

 太宰は、官立弘前高等学校(現・弘前大学)に入学した1927年(昭和2)5月21日、青森市で開催された芥川龍之介の「夏目漱石」と題した講演を聴きに行きます。その2カ月後の7月24日、芥川が睡眠薬自殺したことは太宰にとってたいへんショックな出来事でした。

 太宰は芥川を敬愛し、芥川のようになりたいと思っていました。その芥川は天才だと言われながら、なかなか小説が書けずに苦しみます。その気持ちをいろいろな人に訴えていて、親しくしていた野上弥生子にも相談しました。すると野上弥生子は「だったら死んだらどう? そうしたらいっぱい印税が入ってくるから家族は暮らしていける」と言ったそうです。それが原因かどうかわかりませんが、半年後に芥川は自ら死を選びます。

 芥川が書いている時にさほどお金は入ってこないけれど、死んだら家族にお金が入ることを見越して死んだように、太宰も自分がもしも死んだら家族はうまくいくのではないかと思ったのでしょう。

 太宰が35歳の時に書いた、戦争中に帰郷した故郷を題材にした『津軽』は、初めて自分が生まれたところを客観的に見ていく作品で、ものすごく良い作品だと僕は思います。自分が生まれたところはどういうところなのか、自分の人格はどうやって作られて行ったか、これから津軽はどうあるべきか。自分自身も生まれ変わろうとしていることがわかる作品です。

 人間としてどうあるべきか。社会を変えていくために自分はどうあるべきか。そこがなければ文学には意味がないのではないでしょうか。川端のように日本の美を守っていくというような強さが太宰にあったならば、おそらく死ぬことはなかったでしょう。

 また、太宰と同時代に生きた文学者、埴谷雄高、高橋和巳、荒正人などは、非常に強い意志で「文学」と立ち向かっています。

 私生活をさらけ出すことだけでは、世界の文学に肩を並べることはできません。太宰の文学は、残念ながら、そこまで行き着く力がないのです。それを太宰自身、気が付いていたのではなかったのでしょうか。

「子どもより親が大事と思いたい」(『桜桃』)という言葉は、そうした無責任さに苛まれた人の言葉ではないかと思うのです。

筆者:山口 謠司

JBpress

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