敵を恐怖と混乱に陥れる心理戦9選! 戦争で勝敗を決する残忍な古代文明の戦術
2022年11月12日(土)11時30分 tocana
戦争で勝利するのに重要なのは物理的な武力だけではない。敵軍を威嚇し、恐怖と混乱に陥れ、戦意を喪失させる心理戦が勝敗を決することも少なくない。こうした心理戦は人類の誕生以来存在していたとされる。その中でも、古代文明で実際に行われていた残忍な心理戦を9例紹介しよう。
心理戦1
占拠
紀元前3世紀のマケドニア王国を統治したアレクサンドロス大王(アレクサンドロス3世)は、当時としては非常に斬新な心理戦を採用し、遠征を成功させて版図を拡大した。このときの心理戦は、ローマ人が後に強力な軍事力を獲得した際にも採用されたものである。
アレクサンドロスの心理戦は「融合政策」として知られる。マケドニア軍の将校は都市に侵攻し、略奪や焼き討ちを行い、男性を処刑する一方で女性を確保した。アレクサンドロスは軍を都市に配置したまま、征服した文化の社会的エリートと有効的な関係を築き、かつての敵対勢力がギリシア文化を取り入れてマケドニア王国に同化しやすいようにした。
この戦術は、表面的には友好的に見える一方で、敵対する軍の兵士が街角に立って住民を監視して脅迫していた。占拠された地域の住民は、マケドニア王国への同化を実質的に強制されたと考えられる。
心理戦2
タイミング
紀元前5世紀のアケメネス朝ペルシアの国王キュロス2世は、心理戦を利用して、メソポタミア南部を支配していた新バビロニアの征服を成功させた。心理戦が適切なタイミングで行われれば、最小限の戦いで敵の都市を陥落させられることを示している。
新バビロニアの最後の王ナボニドゥスは月神シンを崇拝し、バビロニアの国家神マルドゥクを蔑ろにした。マルドゥクの司祭たちはこのことを重大な違反とみなした。さらに、ナボニドゥスは11年にわたって遠征を行い、皇太子ベルシャザルに統治を委ねて本国を留守にしていた。そのため、民衆はナボニドゥスを嫌うようになった。
キュロスはこうした事情を利用した。また、プロパガンダを広めるために代表者を街に送り、民衆の間で王への反感を大きくしていった。これには何年もかかったという。その後、機が熟したと判断したキュロスは、マルドゥクの司祭たちを取り込んでナボニドゥスから離反させ、新バビロニアと同盟を結ぶ予定だった軍をも取り込み、紀元前539年のオピスの戦いで新バビロニア軍を破った。
心理戦3
政治的影響力
ガイウス・ユリウス・カエサルは共和政ローマで紀元前1世紀に活躍した政務官である。紀元前58年にガリア・キサルピナなどの属州総督に就任し、同地域のガリア諸族と友好関係を築いていった。その結果、部族の間では好意的に受け入れられ、歓迎された。しかし、カエサルの真の目的はガリア全土を完全にローマの属州とすることだった。カエサルは政治的影響力を駆使して、何年もかけてこの目的を実現するための準備をしていた。
紀元前58年、ガリア人ヘルウェティイ族がローマの属州ガリア・ナルボネンシスの通過許可を要求した。カエサルはこれを拒否し、ヘルウェティイ族に戦争を仕掛け、これをきっかけにガリア遠征を開始した。紀元前52年のアレシアの戦いにおいて、カエサルは大規模な包囲戦を行い、アレシアを陥落させてガリア軍を破った。この後も抵抗を続けるガリア人部族があったが、ローマ軍はこれを鎮圧して、紀元前51年にはガリア全土がローマの属州となった。
ガリア戦争後、カエサルは実績を評価されて権威を高め、莫大な戦利品を獲得した。戦争に参加した将校はカエサルに忠誠を誓い、私兵軍団を形成した。こうしてカエサルは自らの野心を実現することに成功した。
心理戦4
串刺し
串刺しにされた大量の死体が並んでいれば、侵略軍は怖れをなして、攻撃を思いとどまる可能性が高まる。紀元前9〜6世紀にかけてメソポタミア地方に存在した新アッシリア帝国は、敵軍の兵士の死体を串刺しにしてさらしたことで有名である。
時代は下って15世紀のワラキア公国の君主ヴラド3世は「串刺し公」として有名である。ヴラドは敵対するオスマン帝国軍の兵士だけでなく、自国の貴族や民であっても反逆者は容赦なく串刺しにして処刑したといわれる。特に貴族を串刺しにするのはその尊厳を奪う一方で、ウラド自らの権威を示す役割を担ったと考えられる。ウラドはブラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』に登場するドラキュラ伯爵のモデルだが、「串刺し公」のイメージもあって、歴史だけでなく文学にも名を残すこととなった。
心理戦5
皮剥ぎと杭打ち
新アッシリア帝国の残忍な心理戦の中でも、串刺しと並んで有名なのが「皮剥ぎと杭打ち」である。皮剥ぎと杭打ちは聖書でも言及され、他の記録でも恐ろしい処刑法として描かれてきた。アッシリアの支配を拒否した地域の統治者は、生きたまま皮を剥ぎ取られ、徹底的に苦痛を与えられた。皮は敵の軍を恐怖させて逃走させるため、壁の周りに貼り付けられたとされる。
一方、杭打ちは串刺しに似ている。杭打ちにおいて、死刑執行人は犠牲者を殺さないように重要な器官を脇に移動させながら、細心の注意を払って犠牲者の肛門からゆっくりと杭を押し上げていった。その後、串刺しと同様に、杭を地面に突き立てて犠牲者を持ち上げ、都市の真ん中にさらした。犠牲者は数日間生き長らえることもあったとされる。
心理戦6
磔刑
磔刑は、ペルシャ人やカルタゴ人、その他の多くの古代文明で、軍事目的と犯罪抑止を目的として行われてきた。敵対者や犯罪者を恐怖させるための磔刑にはさまざまなバリエーションがあり、文化によっては時代によって異なる方法が採用されてきた。
古代ローマでは、出血による死を避け、苦しみを長引かせるため、犠牲者に釘を刺すとは限らなかった。犠牲者は、木製の十字架に縛られるだけでも、骨は曲がって形が崩れていき、骨折によって苦痛が増した。さらに、何日もかけて鳥に肉を食べられ、ゆっくりと死に至ったという。
犠牲者の体に釘を打つ方法もさまざまだった。犠牲者は不自然な位置に足を固定された上で腕などに釘を撃ち込まれ、体の重さで肩などの骨が折れたり脱臼したりした。これは犠牲者の痛みを増すのに最適な方法だった。磔刑の噂は他国へと広まってその国の軍をひるませ、占領後の地域では暴動を思いとどまらせる効果があった。
心理戦7
包囲戦
包囲戦は、敵を服従させる効果が非常に高い。資源の多い側が意図的に戦争を長引かせ、敵の物資を消耗させることで、敵をゆっくりと確実に崩壊させる戦術だからである。
都市を包囲する場合、自軍で都市を封鎖し、出入りするすべての物資を遮断し、ひたすら待つことが多かった。都市内にいる敵は、食料や水などの利用可能なすべての資源を使い果たし、飢えて骨と皮ばかりの姿になると、平和的に戦争を終わらせることを積極的に交渉し始める。最後まで戦うことを選択した敵も、飢餓で弱体化しているので大した脅威にはならない。敵の指導者が投降を拒否して、最終的にカニバリズムを行うこともあった。
包囲戦を数多く成功させてきたのは古代ローマ人である。紀元前396年、共和制ローマに軍人マルクス・フリウス・カミッルスは、エトルリア人の都市ウェイイを包囲戦で陥落させた。ローマ軍は何年にもわたってウェイイを包囲し、都市の城壁の下に穴を掘って侵入し、都市内で略奪を行ってじわじわと追いつめていったとされる。ウェイイとの戦いは包囲戦の始まりと考えられている。
心理戦8
攻城塔
攻城塔は木造の移動式やぐらで、城壁に板を渡して兵士を城内に乗り込ませたり、最上階から射手が城壁上の敵を攻撃したりするのに利用された。車輪が付いた巨大なやぐらは、兵士たちによって敵の拠点へと移動させられた。
初めて攻城塔が戦場に投入したのは、紀元前9世紀の新アッシリア帝国であるとされる。その後、地中海を伝わって広まっていた攻城塔は、紀元前305〜304年のロドス包囲戦で巨大な「ヘレポリス」へと進化した。ロドス包囲戦では、アンティゴノス朝第2代のマケドニア王デメトリオス1世とロドス島が戦った。デメトリオス1世は、高さ40メートル、幅20メートルのヘレポリスを戦場に投入したが、途中で移動させられなくなり、最終的には放棄してしまった。古代で最大とされる攻城塔は、敵に恐怖を与える心理戦では成功したものの、実践では役に立たなかった。
心理戦9
ファラリスの雄牛
ファラリスの雄牛は、古代ギリシャで使用された拷問器具である。紀元前6世紀、シチリア島アグリジェントの僭主ファラリスは、犯罪者を処刑するための斬新な方法を採用したいと考えていた。アテナイの真鍮鋳物師がファラリスの要望に応えて作ったのは、内側が空洞で、側面に開口部があり、外側から鍵をかけられる真鍮製の雄牛の像だった。像の鼻孔と口は通気口となっていた。
有罪判決を受けた者は、ファラリスの雄牛の中に閉じ込められ、雄牛の腹の下で火が焚かれた。真鍮が加熱されることで、閉じ込められた犯罪者は生きたまま蒸し焼きにされた。犯罪者の悲鳴がまるで本物の牛の鳴き声のように聞こえたという。
さらに怖ろしい逸話として、ファラリスの雄牛の最初の犠牲者はペリロス自身だった。ペリロスは雄牛の中に閉じ込められ、蒸し焼きにされた。このときは絶命前に救出されたが、後にファラリスによって丘から突き落とされて死亡したとされる。一方、ファラリスもまた反乱によって僭主の座を追われ、自らがファラリスの雄牛の最後の犠牲者になったという。
動画は、「YouTube」より
参考:「Listverse」、ほか