「地味」でもすごい、北条義時の人間性とリーダーシップから学べること
2024年11月19日(火)5時50分 JBpress
歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。その
2代目は地味キャラが多い?
北条義時は鎌倉時代初期の武将であり、その後半生は幕府の重鎮として権力を持った人です。そんな彼のことを私は拙著『北条義時』(星海社新書、2021年)において「地味キャラ」と評しました。すると(義時は地味キャラなんかではない)との声も聞かれたが、それでもやはり私は彼のことを地味キャラだと思っています。
これまで講義の時に「義時という名前聞いたことある人?」と聞いても、年配の方1人が自信なさげに手を挙げるか挙げないか程度。歴史に関心を持たない一般の人にとっては、遠い過去の学生時代に一度か二度、その名前を聞いたかどうかというところ。源頼朝・織田信長や豊臣秀吉・徳川家康と比べたら、格段に地味といえるでしょう。
義時の親族と比べてもそうです。義時の父は北条時政。頼朝の挙兵に付き従い、次第に権力への階段を昇っていった人ですが、時政のほうを「知っている」という人が多いのではないでしょうか。大河ドラマでも、「ちょい役」ではあるとしても、よく出演しているからです。そして、時政の娘は北条政子。義時の姉であり、言わずと知れた頼朝の妻、「尼将軍」としても有名です。
義時の子、後継者は北条泰時。「御成敗式目」(1232年制定)という法令を制定したとして、学校などでもよくセットで名前を覚えさせられた人物です。義時の生涯のなかでの見せ場と言えば、後鳥羽上皇が挙兵した承久の乱(1221年)でしょうが、教科書では、この緊迫した場面も、姉の政子の頼朝の御恩を訴える「演説」のインパクトにより、義時の存在は薄いと言えましょう。地味か否かというのは、個々人の感覚や状況によって異なる面があるにしても、客観的に見て、義時はやはり、地味だと思うのです。
義時は、鎌倉幕府二代執権と言われます。執権とは、鎌倉将軍を助け、政務を統轄する重要役職。1代目は、父・時政。3代目は子の泰時。こうして見ると、私には思い出される武将がいます。徳川秀忠です。
江戸幕府の2代将軍ではありますが、父の家康(初代将軍)、子の家光(3代将軍)に挟まれて「地味」というのは、昔から言われてきたこと。室町幕府にしても、初代将軍の足利尊氏、3代将軍の足利義満に挟まれた2代将軍・足利義詮は「地味」でしょう。歴史好きは別にして、義詮という名前、聞いたことないという人も多いはず。幕府の歴史上、2代目というのは、地味キャラとし て扱われる運命にあるのでしょうか。
しかし、現代において地味だからといって、その人が生きた当時に重要なことを成し遂げなかったか、その歴史人物から学ぶことがないかと言えばそうではありません。義時から学べることもあるのです。彼の生涯については拙著『北条義時』をご覧頂ければ幸いですが、ここでは、義時の人間性やリーダーシップから学べることに触れていきたいと思います。
権力闘争の場においては「鬼」それ以外は「仏」
権力闘争の末、義時が父・時政を追放した翌月、元久2年(1205)8月のこと。時政方として見られていた下野国の御家人・宇都宮頼綱が一族郎党を率いて鎌倉に攻め込んでくるとの噂が立ちます。義時は直ちにこれを討とうしたが、頼綱は数日後には「陰謀などない」旨を表明し、頭を丸めて出家。蓮生と名乗るのです。そればかりか、鎌倉の義時の邸にまで出向くのです。義時の邸に直接出向き、叛意などなかったことを改めて訴えようとしたのでしょう。
しかし、義時は蓮生と対面しなかったのです。蓮生が出家する時に生じた髻を見ただけでした。義時の対応は、かなり厳格。(会うくらい、会ってやっても良いのでは)と思います。ではなぜ、義時はそれをしなかったのか。
頼綱が出家した裏には、下野国、最大の豪族・小山朝政がいたと言われます。頼綱討伐は、 最初、この小山朝政に命じられたが、朝政は、頼綱と縁戚関係にあることを理由にこれを拒否。叛逆に与しないことや防戦に力を尽くすべきことを誓うだけにとどまりました。頼綱は、朝政の説得により、出家したと言われています。義時がそれにもかかわらず、強硬姿勢を貫き、頼綱を討伐したら、どうなるか。小山氏は頼綱に付き、一大争乱に発展する可能性もあったでしょう。義時はそれを望まなかったということです。
父・時政を追放したばかりの政情が不安的な時に、大きな争乱を起こすには得策ではないと判断したのでしょう。とは言え、「謝罪」に来た頼綱に簡単に会ったのでは、これからも甘く見られることになる。謀反の疑いをかけられても、出家し謝罪すれば、義時殿は会ってくれる、許してくれると思われては舐められてしまうと思ったのでしょう。だから、義時は頼綱に会わなかったのだと私は感じます。
それにしても、大前提として、頼綱に叛意はあったのでしょうか。結論から言うと、私は「なかったのでは」と考えます。謀反の疑いを流して、敵を葬るということは、北条氏が度々行っていることというのが理由の1つ。2つ目は、頼綱と親密な関係にあった時政は既に伊豆に籠居していたし、頼綱だけで鎌倉を攻めるなど無謀と言えば余りにも無謀であるからです。
謀反の情報を流させたのは、義時の謀略ではなかったか。義時は頼綱を時政方と看做していた。よって、圧力をかけて、恭順しないから潰してしまおうとしたのだと思うのです。しかも、頼綱討伐を縁戚関係にある小山朝政に命じたのも陰険と言えば、余りに陰険。あわよくば、小山と宇都宮が潰し合いをしてくれたらそれが良いと思っていたはずだからです。
義時という人物は、なかなかの「政治家」だったように思います。本稿では、義時の峻烈な側面を紹介しましたが、彼は峻烈のみの人物ではありません。人が泣きついてきたら、その人の頼みを何とか聞いて叶えてやろうとする人物でもありました。もちろん、それは厳しい権力闘争や合戦の現場での話ではありません。権力闘争の場においては「鬼」の顔を見せ、それ以外では「仏」の顔を見せる。義時とはそうした武将ではなかったかと私は思うのです。
筆者:濱田 浩一郎