「三国志」世代交代ものがたり、武神・関羽を破った呉の朱然とリーダーの存在

2024年11月28日(木)5時35分 JBpress

 約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?


関羽の敗死と、3人の英雄記としての三国志の終焉

 多くの三国志ファンにとって、三国志の終わりとは、恐らく劉備配下の武将だった関羽の敗死でしょう。220年の樊城包囲戦で魏と呉の連携によって敗れ、呉の武将朱然に関羽は捕えられて斬首されました。1万の兵士に匹敵すると敵から恐れられた猛将、関羽の敗死は一つの時代が終わる合図となっていきます。

 2か月後の同年3月には曹操が死去、翌年の221年には張飛が部下に暗殺され世を去ります。関羽の仇討ちのために呉に攻め入った劉備と蜀軍は、呉の陸遜の火計によって222年に大敗、翌年223年に劉備は白帝城で病死。英雄たちは次々退場していったのです。

 後漢の崩壊後、最大勢力だった袁紹と曹操が雌雄を決した官渡の戦いは200年。この200年から関羽の死である220年までの20年間こそ、曹操、劉備、孫権の3人のリーダーが英知を尽くして争った時間、『三国志演義』が躍動感を持って私たちに語る英雄たちの時代だったのです。

 今回の記事では、関羽が敗死した220年から、次の区切りである孔明の死去(234年)までの期間について、関羽、曹操、劉備たち英雄の退場後に活躍したリーダーを分析し、次世代の育成について考察をしていきます。


関羽死後、孫権を中心とした第2世代リーダーと若き武将たち

 正史では、関羽の生年は不明であり敗死したときの年齢もはっきりしていません。劉備は161年の生まれのため、関羽死去の220年には59歳です。もし劉備よりも関羽が若いとしても、50代半ばあるいは少なくとも50代前半の年齢で世を去ったと推測できます。

 関羽を生け捕った呉の朱然は182年生まれ(孫権と同じ年)であり、関羽と対峙したときの朱然は38歳でした。朱然は孫権より3年早く、249年に亡くなりますが、その期間ほぼ呉の武力の中心人物として活躍します。

 孫権と朱然(共に182年生まれ)の同世代は、蜀であれば諸葛亮(181年生まれ)、魏であれば司馬懿(179年生まれ)郭淮(生年不詳だが同年代と推定)、呉では朱桓(177年生まれ)、陸遜(183年生まれ)となるでしょう。関羽死後は、孫権を基準とした第2世代のリーダーと同年代配下の戦いだったといえるのです。

 ちなみに、魏で初代皇帝となる曹丕は187年生まれです。魏の初代皇帝の曹丕は、父の曹操が死去した220年の暮れに帝位につきます。彼はそのとき33歳ですが、以後死去する226年まで呉への大軍での侵攻を何度も行います。

 しかし、曹丕の大規模な軍事進攻は、呉の孫権の巧みな用兵と人材活用、人材配置の前に連敗。220年に関羽を敗死させたときから、諸葛亮の死去の234年前後までは、実は呉の孫権がリーダーとして最高の力を発揮したまさに絶頂期でした。


魏の2代目曹丕に勝利し続けた、呉の孫権

 孫権は200年に兄が死去したとき、わずか19歳でしたが、父と兄が拡大した呉軍団のリーダーとなって意思決定する立場となっています。そして208年には、曹丕の父であり乱世の英雄だった曹操を撃退する、赤壁の戦いの意思決定の中心にいました。

 一方、父である曹操の存命時はなにかと曹操に批評、指図され、父が採用した優秀なブレーンに囲まれて後継者争いにあけくれた曹丕は、33歳で初めて自分ですべてを決める立場となれた。

 そのとき、魏の軍勢や勢力はほぼ出来上がっており、曹丕は真の意味で矢面に立つことなく帝位を得た人間だといえます。これが曹丕の最大の不幸であったともいえます。

 19歳から戦国の狼たちと肩を並べる必要があった呉の孫権からすれば、曹丕のような人物は経験不足の坊やに見えたでしょう。曹丕による魏の大攻勢を、孫権は見事に防ぎきって、勝利を続けました。曹丕は呉に撃退され続けて帝位についてわずか6年で死を迎えます。

 ちなみに蜀の劉禅(劉備の子)は、207年の生まれであり、年齢的には第3世代のリーダーと考えることもできます。曹丕から20年後、孫権から15年後に生まれているからです。その意味で劉禅は、孫権の次の世代(孫亮)、曹丕の次世代(曹叡)と比較すべきでしょう。

 現実とはもちろん違いますが、劉備の子を諸葛亮、劉備の孫を劉禅と考えると、蜀の統治の世代交代が分かりやすくなるという側面があります。


父ができなかったことにこだわった魏の曹丕の不幸

 33歳(220年)で魏の皇帝となった2代目の曹丕。彼の内面は、皇帝になってから在位の6年間の行動で観ることができます。シンプルにいえば、ずっと自分を他の兄弟と比較し続けた天才的な父の曹操を超えること。呉への無謀な進軍を繰り返したのは、父へのコンプレックスの裏返しだったと推測できるのです。

 司馬懿の重用も、同じことが考えられます。父の曹操は、司馬懿の人物を見て「将来、必ず曹家を裏切る危険な可能性を持つ男」と曹丕になんども警告をしていますが、曹丕はそれを無視しました。おそらく、父に使いこなせなかった人材である司馬懿を「自分は使いこなせるのだ」という、父親越えの材料の一つだと考えていたのではないでしょうか。

 コンプレックスによって「父を超えてやる」と考えること自体が悪いことではありません。問題は、自分の適性を無視した目標を立てて、それを父親への腹いせのために達成しようとすることです。事実、曹丕には父である曹操ほどの軍事的判断力も、人材活用力もなかった。

 一方の孫権は、兄の孫策ほど軍人としての力量がないことを自ら認め、兄の遺言にそって「戦場指揮ではなく、人心掌握による統治」の技術を極めようとしています。実際、孫権は若いころ、若さにまかせて最前線に出たことがありましたが、呉の重臣たちにたしなめられて行動を変えています。

 父(そして兄)を超えるのではなく、自分にしかできないことを極めて、それを呉の統治に徹底的に活用する。孫権のこの割り切りと自らに適した目標を抱いたことは、第2世代のリーダーの戦いにおいて、曹丕にたいして孫権の圧勝を生み出したのです。


呉の朱然という武将の存在と2代目リーダーの孫権

 呉の武将朱然は、曹丕が率いてきた魏の大軍に江陵城を囲まれて、防衛する立場となりました。手勢わずか5千ほどの兵力で、魏の名将たちの包囲に6カ月以上耐えて、魏軍の食糧がなくなったことで相手の撤退を導いています。朱然はその後も、豪胆かつ冷静な武将として、その実力を呉軍でいかんなく発揮していきます。

 この朱然は、若いリーダーである孫権が、自分の同世代の中から見出した逸材でした。つまり、2代目リーダーが見出し、育ててきた武将だったのです。これは、曹丕や劉禅と孫権が大きく異なる点でもあります。2代目リーダーとして、自分で若い人材を育て上げた。

 一方の曹丕は、劉備が敗退した直後の呉への侵攻で、30万近い兵力で3方向から呉に侵略していますが、ほとんどの武将は父曹操の時代に活躍した者たちでした。3国に名を轟かした武将である曹仁、徐晃なども、220年の侵攻の数年後には天寿をまっとうするような形で世を去っています。人材層が厚かっただけに、高齢化をしていたのです。

 しかも、曹丕は皇帝になった以降、父の時代の重臣やブレーンたちの助言や反対をたびたび押し切って自分の意思を実行しました。これらの行動や意思決定は、父へのコンプレックスと、父を超える自分を実現するという欲求の表れであるとすると理解しやすいのです。

 しかし、そのコンプレックスゆえに曹丕は無謀に突き進む、自分が見えていないことで、自分と同世代の新たな人材を見出すことも、育成することもできなかったのではないでしょうか。

 呉の若き朱然が関羽を捕縛したこと、その後に呉の武力の中心として活躍したことは、孫権が2代目リーダーとして、呉の組織を正常に進化させていたことの証だということもできます。呉の武将として、新たな世代を台頭させたことが、孫権の手腕と方向性の正しさを教えてくれるのです


次世代リーダーには、自ら意思決定する訓練を積ませるべき

 曹操は、後継者を吟味するのに兄弟を競わせ、比較を続けました。結果として、曹操の息子たちは常に、父曹操とそのブレーンたちの顔色をうかがい続ける人生を送ってしまったのです。それは、真の意味で自ら意思決定をできない人間になることを意味します。

 一方の孫権は、19歳から自ら意思決定をしなければいけない立場になり、しかも兄と同じ武力がない自分を自覚することで、自らの持ち味を最大限生かしたリーダーを目指すことができました。孫権の絶頂期は、それが見事に開花した時期だったのです。

 後継者を育成する立場の人たちが気を付けるべきは、次の世代に「意思決定の自由と責任」を完全な形で経験させることです。ごく一部であっても、自ら意思決定し、自らのその成功と失敗を引き受ける体験を続けさせるのです。自ら意思決定することが、リーダーが行うべき最大かつ唯一の役割だからです。

 もしかしたら、曹操は配下の武将を選別するのと同じ基準を、自分の息子たちに当てはめたのかもしれません。しかしそれは大失敗でした。それは家臣の操縦術であっても、息子の育成術ではなかったのです。

 次のリーダーは自ら責任をもって決断できず、父の顔色をうかがい続け、しかも兄弟間で争うようにしむけられた。これらが曹操の血筋が没落した、最大の理由となっていったのです。

筆者:鈴木 博毅

JBpress

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