「鬼は、少し他者とは違うもの」誰もが知る『桃太郎』をアレンジ、新鋭の演出家が物語に込めた“多様性”とは

2024年12月24日(火)8時0分 JBpress

文=松原孝臣 撮影=積紫乃


桃太郎一行が鬼ヶ島で鬼を討伐した後の物語

 それは祝祭の空間のようでもあった。

 11月7日から10日にかけて行われた、東京パノラマシアターの公演『MoMo de la Paris 〜パリから来た桃太郎〜』(渋谷区文化総合センター大和田 伝承ホール)。その千秋楽は、まさにそう言ってさしつかえない、観る人々の高揚に満ちていた。それを呼び起こしたのは、舞台に繰り広げられた、従来のジャンルにとらわれない、独自性にあふれた表現にほかならなかった。

 東京パノラマシアターは、ダンスと芝居を融合した新たなエンターテインメント集団として、2010年、旗揚げ公演を行い、スタートを切った。立ち上げたのは「劇団四季」「音楽座」での活動をはじめ、さまざまな舞台を経験し、ダンサー、振り付け、演出家として活動している鈴木ゆまだ。

 旗揚げ以来、折々に公演を行い、第7回公演として送り出したのが『MoMo de la Paris 〜パリから来た桃太郎〜』であった。

「〜これは誰もが知る、そして誰も知らない物語〜」

 と、うたう本公演は、昔話の「桃太郎」の、桃太郎一行が鬼ヶ島で鬼を討伐した後の物語だ。

 ——桃太郎に宝を奪われた鬼ヶ島の鬼たちは、どうにか宝を取り戻そうと、百鬼も惑わす美しい赤鬼の娘「お清」を 桃太郎の家に送り込む。ところが素性を隠して暮らすうちに、二人は惹かれあっていく、 鬼ヶ島から迫られる桃太郎暗殺の命令、再び鬼退治に行こうとする桃太郎。 互いの本当の姿を知ったとき、桃太郎の、そしてお清のとる決断とは?——

 まさに皆が知る「桃太郎」のその後を描いた物語は、東京パノラマシアターならではの表現とともに展開された。役者やダンサーたちの集団が生み出すけれんみのない、でもたしかな新しさを感じさせる舞台は、ときにダークな、艶やかな、そして情感あふれる空気が広がった。

 それを貫くのは脚本だ。

「一方の側面から見られると『良い』とされるものが、視点を変えてみると全く違ったものに映ってくることはありますよね。合わせ鏡のような多面性のある現実の不合理というものが生きている中で気になっていて、桃太郎の鬼退治というものも、退治された鬼側から見ればただの侵略。正義とされているものが反対から見ると悪。でも、どちらも自分たちが正義だと思っている。そのどちらにもある、愛がある上での憎しみ、悲しみを表現したいなと思いました」

 続けてこう語る。


単なる怖い鬼ではなく、少し他者と違うもの

「鬼というものが単なる怖い鬼ではなくて、身体的に、精神的に、少し他者と違うものであると、今、世界でもあるようなマイノリティの問題に転換したときに、私たちの身近な問題として歩み寄ってきて。お客さんと共有するべき内容だなと思って、演目の選定に至りました」

「私自身、心の葛藤、社会の中で抑圧されてきたものがすごくあって、私自身がトランスジェンダーとして生きてきて、普通の人が生きてきたら性別とかセクシャリティのことというのは10代、20代に自然とパスしてくる問題ですけれど、そこが生きていく上での課題というか考えざるを得ない自分の足枷みたいなもので。でも周りの社会とか他人からすると全く浮上してくる問題ではないので、理解してもらえないことが多かったんですね。自分を理解してほしいと思ったとき、違う視点で考えてくれたらとか、違う相手の立場になって、感じてくれたらすごく相手の苦しみとか痛みがわかるんじゃないかな、という多分願いのようなものがずっとあって、私の中で生まれてきたのがこの桃太郎です」

 物語を編んだうえで、それが豊かな世界となって提示されるのは、ストーリーを伝える演出にある。

 上演時間は1時間45分ほど。その時間に比して台詞の量は必ずしも多くない。20曲を使用し、ダンスを交えていることによる。

「なるべくお客さんに想像を委ねることが好きで、全部言葉で説明してしまう、全部抽象的なダンス表現で伝える、そのどちらとも違う表現方法がほしいなと思っている中で、厳選された言葉と必然性の伴った動きの2つで創り上げたいなと思いました」

 演出家として芝居とダンスの融合を見事におさめたのは、これまでの経験に裏打ちされているだろう。踊りもまた、身体を通じた表現としてエネルギーとメッセージを発する。台詞まわしとダンスの、いずれにも偏ることなく、絶妙な配分を思わせもした。

「そのボリュームって、たぶんお料理と一緒で、キャストと創りながら、ある一つのシーンで、言葉で語る量と踊りで語る量をやっぱり稽古しながら調整していく中で、例えば一言だけ足すだけで崩れることもあるし、逆に何かうまくいってないことが言葉を一言だけ足すことによってうまくいくこともあります。そのバランスは、この3カ月間稽古しながら、『これは必要な言葉だよね』『これは語りすぎてる』『これを表現するためには言葉じゃなくダンスがいい』と、私だけの意見じゃなく、みんなとのキャッチボールで決まっていきました」

 その話に、ふだんの生活でも人に伝えるとき、伝わるとき、言葉だけを介しているのではないことに思い当たる。

 鈴木ゆまはうなずくと、こう語った。

「語ることによって伝わるし、語ることによって誤解を与えてしまったり傷つけることもあるし、逆に言葉にしなくても伝わることもあるし、言葉にしないからこそ愛おしく思うこともあるし、逆に言葉にしないことによって傷つけてしまったり、誤解やすれ違いが起こることもいろいろあるじゃないですか。だから、言葉にするかどうかって大きな選択肢ですよね。舞台でも人生でも」


物語に込められた多様性

 切なくもあり哀しみと、そこはかとないあたたかさや愛情を含みつつ、物語は進む。台詞とダンスが織り交ざり、しかもシャンソンも使用しての1時間45分の間、異なる世界へと誘った舞台は、観る者にそれぞれの思いを抱かせながら、やがて終わりを告げた。東京パノラマシアターならではの舞台は、たしかな存在感を放った。それは次回公演への期待を抱かせた。

 特筆すべきは、多くの出演者それぞれが存在と輝きを放ったことだ。以前の取材でこう話している。

「私は俳優としてもダンサーとしても、けっこう下積みが長かったんですね。だから思うんですけれど、メインのキャストの方にもちろんストーリーがあるけれどアンサンブルと呼ばれているメンバーにもちゃんと一人一人ストーリーがあるんですよね」

「例えば、あそこの公園で今、親子が楽しそうに遊んでいるじゃないですか。あっちの椅子に座っているサラリーマンはちょっと悲しい顔してる。疲れてるのかな。たぶん事情がそれぞれにあるじゃないですか。この情景がすごくリアルで、この世界が美しいって私は思うんですね。主役がいて、脇役がそのために存在する、商業演劇はそういうつくりですし、それも素敵だと思います。でも私たちの世界をリアルに切り取って舞台上にのせる、脇役でもちゃんと1人の主人公として生きている、誰もが自分の人生の主人公として動いているという思いが私にとって作品を作る上で大切なんですね。みんな自分が主人公だと思って生きている方がリアルな舞台なんじゃないかなっていつも思っています」

 その体現でもあった。しかも出演した役者やダンサーは、今日までの経歴や背景がさまざまだ。にもかかわらず、集団として舞台を築き得たことも融合であり、物語に込められた多様性を尊重する願いとも相通じる。

 上演にあたっては、先の話にあったように3カ月の時間がかけられ、「みんなとのキャッチボールで」、と話している。

 そこには、以前見聞きした演劇界での、演出家のトップダウンに近い形態はうかがえない。それでも、作品をまとめあげたのは、鈴木ゆまのリーダーシップにほかならない。

 すると、こう語る。

「リーダーシップという点では、『滑走屋』に携わる中で学んだことが大きかったと思います」

『滑走屋』とは、今年2月、高橋大輔が立ち上げた新たな氷上での作品だ。鈴木ゆまは振り付け等で参加している。そこで何を得たのか。そして今年3月に予定される第2回公演への思いは——。(続く)

筆者:松原 孝臣

JBpress

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