「三国志」魏の3代目皇帝・曹叡、父を反面教師にした活躍と、裏目に出た滅亡

2024年12月20日(金)5時50分 JBpress

 約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?


関羽死後の第2世代の戦いのあと、第3世代の曹叡の活躍

 魏で220年に皇帝になった第2世代の曹丕は、わずか6年間の在位で226年に死去。魏では第3世代のトップとなる、曹叡が帝位につきます(魏の帝位としては第2代ですが、曹操を初代と考えて世代交代の視点から、曹叡を第3世代のトップとしています)。

 曹叡は239年に死去しており、13年間の在位は父の曹丕の約2倍です。父の曹丕の時代に、曹操とともに戦った勇将、謀臣の多くは世を去り、第1世代の有能な人材はわずかしか残っていない状態でした。この状態でも、曹叡は魏の領土を守り、呉の孫権、蜀の諸葛亮による侵攻を見事に撃退しています。

 諸葛亮の北伐は227年から始まり、死去する234年まで5度に渡る北伐を行います。諸葛亮が率いた時代の蜀の北伐は、すべて曹叡の時代に撃退されたことになります。戦争対応に優れた皇帝の曹叡は、どんな人物だったのでしょうか。


悲運の第3世代、曹叡の後世の評価

 曹叡は16歳のとき、父の曹丕によって生母(甄氏)が殺されています。寵愛を失ったことに文句を言った甄氏の言葉に激高した曹丕が、死を宣告したからです。そのため、息子である曹叡も、ギリギリまで跡継ぎの立場になれませんでした。

 2代目の曹丕は、皇帝に即位したのち、急に人の話や助言を聞かなくなりました。曹操が健在だった時期、常に偉大な父の視線を気にしなければいけなかった曹丕。自分の感情を押さえて合理的にふるまうことが必須だった青年期を、よほど恨みに思っていたのでしょう。

 父である曹丕から母を殺された曹叡は、父曹丕の死の直前にようやく跡継ぎとなったのですが、父を反面教師としたのか、曹叡は皇帝となっても群臣の意見をよく聞いたようです。

『曹叡には犯しがたい威厳があり、即位してからは大臣をよく礼遇し、功績・能力の真偽を見定め、浮ついた議論や讒言の端緒を断ち切ろうと努めた』(書籍『正史三國志群雄銘銘傳』より)

 一方で、曹叡の在位期間には、重臣だった司馬懿がその息子兄弟とともに勢力をさらに拡大しており、曹叡の代を終える頃には、その影響力は抜きがたい存在になっていました。もし、もし曹家の帝位を守り抜きたいのならば、どんな策略を使っても司馬懿一族は除いてしまわなければいけないはずでした。しかし、曹叡はそれをしなかった。

『君主としての度量を持ちながら、徳業を立てて教化を弘めようと思わず、宗室を大切にしないで臣下に国家の大権を付与し、そのために社稷(国家)の守りを失ってしまった』(同書より)

 3代目の曹叡は、知的に優れたリーダーであり、信任のおける部下に適切に任務を任せて政治を行ったと言えます。一方で、司馬一族が勢力を拡大する中で、曹操の時代からの恩顧の人材が最後に残っていた曹叡の在位時は、司馬一族を除く最後のチャンスでした。

 曹叡にその英断ができるほどの隙が、司馬懿側になかったのか、曹叡の能力が足りなかったのか。曹家が2代にわたり、兄弟を競争関係に追い込んだことも影響しているでしょう。特に曹丕は帝位についたのち、兄弟を礼遇したことで、一族のきずなはズタズタになっていたことも大きく影響していると思われます。

 結果として、曹叡は司馬懿に大きな権力を残してしまい、曹家の滅亡する運命は決定してしまいます。


司馬懿の子供たちの暗躍と、第3世代武将の胎動

 曹叡は205年前後に生まれたとされており、孫権(182年生まれ)、朱然(182年生まれ)、諸葛亮(181年生まれ)、司馬懿(179年生まれ)たちとは明確に世代の違いがあります。一方、司馬懿の息子の司馬師(208年生まれ)、司馬昭(211年生まれ)とは年が近い。

 曹叡が即位したのは21歳前後であり、非常に若い皇帝だったことがわかります。その時に孫権は44歳、諸葛亮は45歳、司馬懿は47歳です。百戦錬磨の英雄たちを相手に、魏の若い皇帝曹叡は、臣下を効果的に配置することで、対処しようとしています。

 ちなみに孫権が252年で天寿を全うしていることを考えると、曹丕(39歳)、曹叡(34歳没)の寿命の短さが際立っていることがわかります。二人の皇帝の短命さに、司馬一族が関わっているのではないかと考える人もいるのではないでしょうか。

 蜀の北伐対応で活躍した張郃は231年に戦死。彼は曹操時代からの勇将でしたが、若い郭淮などの活躍もあり、曹叡が適切な人材配置を問題に対処していたことがわかります。


3代目曹叡が、堕落していく契機となった234年の諸葛亮の死

 蜀の諸葛亮は、228年から五丈原で死去する234年まで、合計5回の北伐で魏に侵攻しました。しかし、いずれも決定打を欠き、魏軍に侵攻を阻まれています。最後の五丈原の戦いでは、魏軍を率いる司馬懿が堅く守って持久戦となり、諸葛亮は雄図むなしく戦場で病没します。諸葛亮の死は、三国志時代の非常に大きな転換点となりました。

 曹叡は、13年間の在位のうち、前半は君主として適切な判断と行動を維持していましたが、後半からは大規模な宮殿造営など、富を乱用して魏を疲弊させます。一説には、諸葛亮が死去したことで、外敵に対する警戒心が緩んだのではないかとされています。

 曹叡の死去の数年前から、曹操以来の事務方の名臣も世を去っていき、曹叡の浪費を止めることができる者がいなくなったのもあり、また在位の後半は色に溺れて社会規範も乱れていきます。これらを止める精神的な歯止めが、曹叡の生き方の中になかったのでしょう。

 のちに蜀の滅亡を導く武将の鄧艾(195年生まれ)、またその配下で蜀攻略に貢献した鐘会(225年生まれ)、呉との攻防で活躍する羊祜(221年生まれ)などの人物は、三国志の終幕を生み出した武将たちとして有名ですが、どちらかと言えば司馬師、司馬昭の配下というイメージがあります。

 曹叡は父の曹丕から避けられて育ち、母を殺されたこともあり、曹丕を反面教師として帝位に就いたのでしょう。しかし諸葛亮の北伐を防ぎ切ったという大任を全うした安心感か、もしくは彼自身が皇帝としての野心や目的に欠けたため、魏と曹家がすべてを失う端緒を作ってしまったのです。


3代目には「新たな野心が必要」

 魏の3代目(世代として)の曹叡は、生年が205年前後と、蜀の3代目(世代として)の劉禅に似ているところがあります。ともに初代と第2世代が作り上げた帝国を、第3世代のリーダーとして維持していく必要があった点。しかし彼らには、自らの野心が決定的に欠けていました。

 野心や目的意識の欠如は、年齢を重ねると共に人間としての隙を広げてしまうことにつながります。目的がないのに裕福であること、野心がないのに地位があることが、享楽的な感覚を引き寄せるからです。自分を堕落させる佞臣は、このような精神に入り込みやすい。

 初代と2代目から引き継いだ遺産は、あまりにも大きなものである一方、自分自身の人生を賭ける野心を適切に持てないと、いずれ精神が弛緩して堕落を始めてしまう。曹叡と劉禅の二人の第3世代リーダーを見る時、創業した英雄たちとの違いに愕然とさせられると同時に、彼らが味わった苦楽を比較して、改めて人生の難しさを教えられるのです。

筆者:鈴木 博毅

JBpress

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