「君たちの顔が借用書だ」の一言で1億円を3日で回収…株式市場を席捲する“伝説の相場師”の資金源だった“政財界の黒幕”の正体とは
2025年4月29日(火)12時0分 文春オンライン
〈 トラック運転手が「古新聞の束だと思って拾ったら1億円の現金だった」…もとの持ち主が名乗り出られなかった“深い事情”とは《昭和史の謎》 〉から続く
かつて投資家集団「誠備」を率いて株式市場を席巻し、最盛期には1000億円を優に超える資金を動かした、伝説の相場師、加藤暠。その人脈は福田赳夫や中曽根康弘、小泉純一郎などの大物政治家から高級官僚、大物右翼、暴力団組長にまで張り巡らされていたという。
ここでは、 『株の怪物 仕手の本尊と呼ばれた男・加藤暠の生涯』 (宝島社)より一部を抜粋して紹介。1980年頃、2つの大きな仕手戦で悔しい思いをした加藤の言動は、どんどん大胆になっていく。そんな中、大きな転機となったのは“政財界の黒幕”と呼ばれた1人の男との出会いだった——。(全6回の4回目/ 続きを読む )

◆◆◆
特注の名刺で年齢を誤魔化していた理由
「これはホンの名刺代わりです」
加藤は、こう言って当時花形だった証券取引所の場立ちの証券ディーラーの前に2000万円を積んだこともあった。場立ちは、立会場で手サインを使って売買注文を伝達するが、彼らを取り込むことで場の雰囲気を知ることができ、なおかつ株価を煽る一助にもなると考えたからだ。
当時は場立ちが、仮名で手張りと呼ばれる個人売買をしているケースも珍しくなかった。加藤は常に封筒に100万円の束を入れて持ち歩き、麻雀の卓を囲んでいるメンバーの一人が結婚すると聞けば、さっと20万円を渡すなど、気前よくカネを切っていたという。
人脈も広がり、優良顧客が増えると、1976年(昭和51年)3月には、銀座一丁目のスポニチ銀座ビル6階に加藤事務所を構え、『日刊投資新聞』の元記者のサポートで「ダイヤル・インベストメント・クラブ」(のちにダイヤル投資クラブに改称)を設立。株式投資を希望する顧客を会員として投資顧問業務も開始した。一証券外務員の枠を超えた活躍ぶりで、1976年の加藤の歩合手数料の報酬は8500万円に達していた。その威勢を見せつけるかのように名刺は特注の二つ折りの大きなものを使った。
生年月日 昭和18年8月24日
出身地 広島県佐伯郡
出身校 早稲田大学第一商学部
趣味 囲碁、空手
生活信条 天下泰平
そこには、実際の生年である昭和16年ではなく、2年誤魔化した数字が書かれていた。高校時代に結核で休学していたことに加え、その遠因だと思い込んでいた自らの被爆体験の話題を避けたい思いがあったのだろう。被爆者に対する偏見や差別意識を目の当たりにしてきたトラウマは、そう簡単に消えるものではなかった。
「ヂーゼル機器株」仕手戦の泥沼
加藤にとって大きな転機が訪れたのは、1977年に入ってからのことである。この年、200億円を超える平和相銀の資金が注ぎ込まれたヂーゼル機器株の仕手戦が本格的に幕を開けていく。正和恒産の安積正の手引きで、平和相銀の“外様四天王”のうち、ゴルフ場やマンションの経営を手掛けていた大洋の杉尾栄俊や加藤の早稲田大の同窓でもあった日誠総業の次郎丸嘉介も仕手戦に加わった。
次郎丸は加藤に“企画室長”の肩書の名刺を持たせ、4月に黒川木徳証券本店に日誠総業名義の口座を開設すると、野村證券大宮支店、日興証券横浜駅前支店、大和証券新宿支店など証券会社約10社に系列会社名義などで次々と口座を開き、加藤のアドバイスでヂーゼル機器株や岡本理研ゴム株で株式投資を始めた。小宮山一族も、平和相銀のオーナー・小宮山英蔵の娘婿である小宮山義孝が、5月に50万株のヂーゼル機器株を購入し、約1カ月後に売却して約2700万円の差益を得たことで、幸先のいいスタートを切った。
当時は、英蔵の実弟である小宮山重四郎が、佐藤栄作の秘書から政界入りし、福田内閣で郵政相に初入閣。一時は秘書官に大洋の杉尾が付き、選挙資金集めの意図もあったと囁かれた。
前年までは200円台から500円台を行き来していた株価が、77年5月に800円台をつけ、8月には一気に2370円に急騰した。だが、そこから売り方との攻防は雲行きが怪しくなっていく。手持ち資金を上回る売買が可能な信用取引は、証券会社から株を借りて売買し、6カ月以内に決済しなければならない。その間、株価が急落すれば追加担保(追い証)が要求されることから、吊り上げた株価を維持する必要がある。平和相銀からの融資額はあっという間に200億円を超えたが、それでも売り物があれば、さらに拾って行かざるを得ない状況だった。株の買い集めを指揮する司令塔役は、監査役の伊坂重昭が担った。元特捜検事で、現役時代は「カミソリ伊坂」の異名をとったやり手だったが、伊坂の尽力も虚しく、事態は泥沼化の様相を呈し始めていた。
この頃、加藤は別の大物とも知り合っている。政財界の黒幕と言われた日本船舶振興会会長の笹川良一である。二人の出会いについて幸子が明かす。
〈「主人は、勝負どころだと思えば、お金がなくても後先を考えず、株の買い注文を出してしまう。その時も注文を出したものの、お金の工面が出来ず、4日後の期限が迫るなかで祈ることしかできない状況でした。切羽詰まって頼ったのが、福田赳夫元首相の秘書だった西村恭輔さんです。西村さんは1976年12月の総選挙で熊本から出馬して落選されたばかりでしたが、笹川さんに繫がる人を紹介してくれたのです」〉
笹川良一という金脈
加藤と笹川を結び付けたのは、日本国政調査会の元事務局長で、大物右翼、豊田一夫の側近だった對馬邦雄である。豊田は、戦後の東京で、「銀座警察」と呼ばれた自警団に加わり、銀座や新橋界隈で名を馳せた後、「殉国青年隊」(のちに日本青年連盟に改称)を結成して頭角を現し、行動右翼の隊長として数々の武勇伝を残した。その人脈は多彩で、ボディーガード役を務めた元首相の佐藤栄作を筆頭にした政治家、三井不動産の中興の祖と呼ばれた江戸英雄会長ら大物財界人などの表の人脈に止まらず、住吉会を中心に裏社会にも縦横無尽に張り巡らされていた。
なかでも関西電力の初代社長を務めた太田垣士郎から広がった電力人脈は絶大で、1975年に豊田が設立した東西警備は、東京電力、関西電力、中部電力、九州電力などのトラブル処理を担ってきた。そうしたなかで、豊田と関西電力との連絡役を担っていたのが對馬だった。對馬は2018年11月に亡くなっているが、生前、私の取材にこう話していた。
〈「福田事務所側には『株の決済で、明日までに1億円が要る』という話が来たようで、そういう細かい芸当なら、裏社会に強い男がいるということで私が呼ばれました。ただ、当時の私はまだ30代そこそこで、昼ご飯代にも事欠くような経済状況でした。加藤さんも私を見るなり、『どうせできっこないだろう』という感じで、頼んできた福田事務所の人たちですら、さほどアテにはしていない様子でした。それならと、私は人を介して笹川会長に話を持ち込みました。笹川会長は『貸す』とは明言せず、『(加藤を)連れてこい』とだけ言いました」〉
指定された赤坂の料亭に向かい、座敷で笹川と対峙した時、それまで半信半疑だった加藤の表情は、神妙な面持ちに変わっていた。事情を説明した後、對馬はこう切り出した。
「借用書を書きましょうか」
すると、笹川はこう返した。
「借用書を書くということは、私が君たちを信用していないことになる。君たちの顔が借用書だ」
その言葉に心酔した加藤は1億円を3日で返済したが、笹川は加藤に苦言を呈することも忘れなかった。
「信仰が足りないからこういうことになるんだ。信仰の道に入りなさい」
笹川が言う信仰とは、彼が信奉する香港に本拠を置く道院の慈善団体、世界紅卍字会を指す。当時は銀座に日本支部があり、笹川はここを訪れるのが日課だった。そこには奉加帳が置いてあり、笹川は1日に2回訪れ、必ず通し番号と名前を記帳していた。
對馬と加藤は揃って紅卍会の会員となり、對馬には平備、加藤には誠備の道名が授けられた。そこから加藤は笹川との関係を深め、多額の資金を融通して貰うことになるが、笹川は一筋縄でいく相手ではなかった。加藤はのちに「高い金利を払うことになった」と周囲に零していたという。
闇の紳士の貯金箱
だが、その見返りに得た信用は計り知れなかった。2年以上に及んだヂーゼル機器株の仕手戦では、抜け駆けして売却益を得た安積に代わり、次郎丸が紅卍会の会員として笹川との関係を深めていった。そして、ある時期から平和相銀の買い方の窓口は次郎丸の日誠総業に集約されていくのである。さらに笹川の登場は、「闇の紳士の貯金箱」と呼ばれた平和相銀を起点に地下茎で結ばれた人脈や金脈が交錯する契機にもなった。
当時、平和相銀には警察OBも多数在籍していたが、取締役だった警視庁OBの石村勘三郎は、その起点となる存在だった。のちに、平和相銀と豊田が関わった「神戸の屏風地区」の土地を巡る不正融資事件や太平洋クラブが所有する無人島を舞台に20億円ものカネが政界にばら撒かれたとされる「馬毛島事件」の人脈を引き寄せる役割を果たした。
石村はノンキャリアで、1970年に警視に昇進し、本所署を経て警視庁の警務部付に異動した時に、小宮山英蔵自ら彼の自宅を訪れて口説き落とし、総会屋対策を担う課長待遇で平和相銀に迎えられた。実は、石村は暴力団捜査を担当する捜査四課の警部補だった時代に事件捜査を通じて豊田と知り合っている。二人は親しく交流する仲で、石村が監査役の伊坂に豊田や對馬を紹介している。その繫がりを通じて加藤とも親交を深めていくのだ。
東京・三田の笹川記念館の八階にあった会長室。当時、加藤に連れられ、笹川の元を訪れたライバル社の元証券マンが振り返る。
〈「笹川さんは、大阪の小学校時代の同級生に川端康成がいて、『やす』『りょうちゃん』と呼び合う仲だったと懐かしそうに話していました。『彼は幼い頃に両親を亡くしたが、頭が良くてお坊ちゃんだった』と。帰り際に、笹川さんが蕎麦屋に電話していたので、カツ丼でもとってくれるのかと思ったら、注文したのはかけ蕎麦で、それを三人で食べました。加藤は『笹川の爺さんが勲章を欲しがってばかりで困る』と零し、それでもあれこれ手を尽くして国内外で勲章がもらえるよう働きかけている様子でした」〉
後日、彼は、午後3時に場が引けると、加藤に今度は新橋の「第一ホテル」に呼び出されたという。そこに待っていたのは、銀座の電通通りでクラブを経営する男だった。鎌倉高校出身だと語り、タバコも吸わず、酒も飲まない紳士然とした印象だった。ヂーゼル機器の仕手戦に嵌り込んでおり、力を貸して欲しいという。それから頻繁に会うようになったが、ある時、彼の正体を知り、付き合いを止めた。それは、稲川会の石井進だった。ヂーゼル機器の仕手戦は、加藤の周囲を軒並み巻き込み、当時は過去に例をみないほどの大相場になっていた。
事態の収拾に向けて動いたのは笹川だった。笹川側は平和相銀が買い占めた株を引き受け、息子の笹川陽平の名義に書き換えて筆頭株主に躍り出た。そこには陽平を平和相銀の役員に就任させたい笹川の意向があったとされる。
これに対し、東京証券取引所は、ヂーゼル機器株を「特別報告銘柄」の第一号に指定し、発行会社側に市場外で高値で株を買い取らせる“肩代わり”を目的とした買い占めの防止策を講じた。会員の証券会社に誰から、どれだけ売買注文を受けたかを報告させ、買い占め側に加担しないよう求めたのだ。そのうえで、一般の投資家にも注意喚起を促した。
膠着状態が続いた末に、ついに特別報告銘柄の指定が解除され、ヂーゼル機器の株主であるいすゞ自動車や日産自動車など25社が笹川グループの保有株を肩代わりする形で決着をみたのは、1980年2月のことである。平和相銀も約70億円の焦げ付きを出し、当然無傷では済まなかったが、このヂーゼル機器株の処理を一手に引き受けた伊坂は行内で不動の地位を確立した。それはやがて平和相銀が住友銀行に吞み込まれることになる大きなうねりに繫がっていく。
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(西﨑 伸彦/Webオリジナル(外部転載))
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