1000億円を動かす“伝説の相場師”が逮捕→東京証券取引所は大パニックに…検察に追われる妻子の“間一髪の逃走劇”「まだ座布団が温かかった」
2025年4月29日(火)12時0分 文春オンライン
〈 ベンツの助手席に100万円の束がゴロゴロ→自宅は2DKの質素な賃貸マンションに…1000億円を動かした“伝説の相場師”の意外すぎるプライベート 〉から続く
かつて投資家集団「誠備」を率いて株式市場を席巻し、最盛期には1000億円を優に超える資金を動かした、伝説の相場師、加藤暠。1981年2月16日に所得税法違反で逮捕された際には、誠備銘柄が軒並み暴落し、東京証券取引所のある兜町は投げ売りのパニック状態に陥ったという。
ここでは 『株の怪物 仕手の本尊と呼ばれた男・加藤暠の生涯』 (宝島社)より一部を抜粋。加藤の逮捕に断末魔の叫びが響き渡る中、妻の幸子と幼い息子は検察からの逃亡を強いられる事態になった。当時、一体何があったのか。関係者が振り返る。(全6回の6回目/ 最初から読む )

◆◆◆
ロッキード事件を超えていた誠備事件
逮捕から10日が過ぎ、“誠備ショック”の断末魔の叫びが響き渡るなか、加藤の妻、幸子に一通の手紙が届いた。
〈〈この程ふってわいた加藤様の事件、誠に微力でご期待にそいかねている点を心苦しく思っております。
それにもかかわらずこの度は誠に結構な果物をお送りいただき一昨日落手しいただきました。
ご芳情のほど厚くお礼申し上げます。この上とも事件の成行きについては万全の注意をはらって参りたいと思います〉(1980年2月26日付)〉
差出人は竹内寿平。70年から3年間検事総長を務め、のちにプロ野球のコミッショナーとなる大物ヤメ検弁護士である。総長時代は、検察内の派閥争いの一掃に力を尽くしたとされ、退官後の大平内閣発足時には、民間人起用の法相候補として名前が挙がったこともあった。そこには田中角栄の意向が働いていたと言われており、その繫がりを裏付けるかのように、一時竹内は小佐野賢治が経営する国際興業の顧問弁護士に名を連ねていた。竹内自身は直接加藤の弁護を担当できない代わりに、後輩の元札幌高検検事長の蒲原大輔らに弁護を委ねたが、その後も加藤側の良き相談相手だった。交流は竹内が亡くなる八九年まで続き、幸子は竹内の葬儀にも参列している。幸子が振り返る。
〈「最初にお会いしたのは主人が逮捕された直後だったと思います。私も検察から任意の事情聴取を受けることになり、その相談に銀座の事務所に伺いました。乳飲み子を抱えて行くと、美味しい御蕎麦をご馳走して下さって、『何か嫌なことを言われたら私の名前を出して助言を貰っていると言って構わないから』と仰って下さいました。とても優しい方で、珈琲を一緒に飲んでいる時に砂糖をたくさん入れて飲まれていた姿が印象的でした」〉
竹内への橋渡しを担ったのは、歴代首相の相談役と言われた陽明学者、安岡正篤と彼の弟子で、のちに環境庁長官となった衆議院議員の林大幹である。
彼らとの連絡役は、加藤に笹川を繫いだキーマン、對馬邦雄だった。對馬は右翼の豊田一夫を通じて林に話を持ち込んだだけでなく、加藤逮捕後の後処理を引き受けた。東京拘置所に収容された加藤の接見禁止が解けると、對馬は林を伴って面会に訪れた。
「外のことは全部やってある」
對馬が面会の際にそう話したという情報が伝わると、特捜部内は色めき立った。特捜部は加藤逮捕に先立つ2月9日、誠備の社員と有力会員を所得税法違反容疑で逮捕し、強制捜査に乗り出していた。そこを突破口に加藤の脱税幇助、さらに加藤自身の約23億円の脱税に切り込むつもりだった。だが、その時すでに、政治家や財界人を始めとする誠備の秘密会員の顧客台帳などの重要書類は、運び出された後だった。正確に言えば、検察側は黒川木徳証券の目と鼻の先にある日本橋の千代田会館内に置かれた、もう一つの加藤事務所の存在に気付いておらず、完全に見落としていたのだ。
強制捜査の翌日、この事務所では、書類を箱詰めする作業が行なわれ、人目に付かないように段ボールが運び出されていた。2トン車に積まれた段ボールは、女性従業員の自宅などに運び込まれていたという。幸子が振り返る。
〈「誠備の関係者が、トラックで運んだ荷物とは別に、重要書類が入ったトランクを持ち出していて、預かってくれる先を探していました。ただ、私は身動きがとれない状態で、自宅には誠備と関わりがあった政治家の方などからも次々と電話がありました。のちに別の脱税事件で逮捕された衆院議員の稲村利幸先生からは『僕の名前は出さないでね』と言われ、余計なことを喋ったら大変なことになると怖くなりました。当時は、誠備事件の全てが明らかになるとロッキード事件以上の疑獄事件になると言われていましたし、周囲からも、『もう電話にも出なくていいし、外にも出ないで欲しい』と釘を刺されていました」〉
妻と子の逃亡劇
書類入りのトランクは、幸子から對馬に預けられた。對馬は、新宿にいる手配師の女性に渡したが、そこから先はどこに行ったのか、幸子も分からなかったという。對馬は、その手配師の女性を、いつも鼻毛が出ているからと、「新宿の鼻毛のオバサン」という独特の符牒で呼び、詳しいことは語ろうとしなかった。情報管理は徹底され、加藤を守るネットワークは幾重にも張り巡らされていた。
幸子は自宅に籠もり、ジッと待っている不安を紛らわせるように、保釈を求める嘆願書の下書きを始めた。2枚の便箋に走り書きした文章が残されており、そこには加藤が急性腸炎や喘息、肝機能障害によって前年の夏から不調を訴えていたこと、さらに誠備の会員から電話が昼夜を問わずひっきりなしにかかり、〈株価を下げない為にも早く釈放を〉と悲痛な声に心を痛めている様子が綴られていた。日付は3月9日となっているが、これが実際に提出されたかは定かではない。
実はこの直後、幸子は2歳の息子・恭や加藤の女性秘書2人とともに忽然と姿を消したのだ。焦った特捜部は書類管理の責任者だった秘書の1人、金沢千賀子の逮捕状を執り、行方を追った。ここから2年以上に及ぶ逃亡劇が幕を開けていく。幸子がその経緯を明かす。
〈「最初の3カ月は、福田元首相の関係先の事務所があったホテルオークラの別フロアの角部屋で過ごしていました。長男の恭にはオークラのコンソメスープを離乳食代わりにあげていたので、今でも恭にはそれが思い出の味になっているんです。ただ、周囲の様子を窺いながら部屋の中にじっとしていても気が滅入るからと、(金沢)千賀ちゃんは林先生の議員事務所にお手伝いに行っていました。安岡先生の意向を受けた林先生が、目の前で当時官房長官だった宮澤喜一さんに電話していたと聞き、援軍もいると心強く感じていました」〉
検察側も、まさか目と鼻の先に逃亡犯が潜んでいるとは思わなかっただろう。しかも、逃亡の背中を押したのは、竹内が對馬に発した「隠れておきなさい」という何気ない一言だったという。
その後、幸子らは全国を転々としながら、對馬ら支援者が手配した家で素性を隠して過ごした。幸子が続ける。
〈「石垣島には長くいました。親戚も頼れず、秘書の二人は身内に電話する時も『北海道にいる』と噓をついて、居場所を絶対に口にしませんでした。一度、沖縄本島まで足を延ばしたら、宿泊先のホテルムーンビーチ(当時)で偶然検察官の講習会が行なわれていた時は肝を冷やしました。足跡が辿られてしまうので、保険証も使えず、恭が病気になったり、事故に遭ったりしないよう常に気を張っていました。逃亡中に雑誌では千賀ちゃんが『加藤の愛人だ』と騒がれていましたが、記事を見て彼女は『私、愛人なんだって』と笑っていました」〉
穏やかな素顔の金沢千賀子
マスコミは当時38歳の金沢が、加藤の金庫番で、“陰の女王”と呼ばれていたと写真入りで書き立てた。しかし、その素顔は、女王には程遠く、至って穏やかだった。2020年11月、妹と都内で取材に応じた金沢は、緑色のカーディガンを羽織り、上品な印象で、微笑みながら約40年前の出来事を振り返った。
〈「長い逃亡生活でした。もともと私と妹は、化粧品会社のレブロンで社員教育などをしていた幸子さんの生徒だったんです。その縁で、銀座にあった加藤さんの事務所で働くようになりましたが、最初はお客様が来て仕事の話になると、『ちょっとお茶でも飲んで来て』と言われ、席を外していました」〉
金沢は次第に誠備の関係書類を整理して報告書に纏め、幸子の自宅に毎日届ける仕事を任されるようになった。
〈「加藤さんが逮捕された後、妹のところにも早朝に地検の係官が来て、『お姉さんの行方を知りませんか』と言われたそうです。間一髪でした。その後は、九州が長かったですが、鎌倉や静岡県にもいました。恭君と一緒に海岸で遊んだりした思い出があります。用意された部屋はどこも家財道具が揃っていて、着るものはその都度現地で買っていました。逮捕状が出たことは後で知りましたが、私を捕まえても何にも知らなかったんですけどね」〉
滞在先には支援者がおもちゃを持って訪ねて来たり、林大幹の女性秘書が遊びに来ることもあったという。
顧客の名前は絶対明かさない
一方、加藤の逮捕で、株式市場には阿鼻叫喚の惨状が広がっていた。宮地鉄工所の株価は2950円から173円に、丸善が2100円から300円、西華産業が1530円から215円に急落するなど、目も当てられない有様だった。さらに資本金1億円の大阪証券信用は、誠備グループに約480億円を貸し込んだ末に、負債総額730億円を抱えて倒産。加藤と組んで西華産業株や共和電業株を買い占めた岩澤靖は、グループ企業への融資の形で借り捲った450億円超ものカネが、すべて仕手戦に注ぎ込まれていた実態が明らかになった。中核企業の「札幌トヨペット」は会社更生法の適用を申請し、事実上の倒産に追い込まれ、他のグループ企業も莫大な借金を背負わされた。政治力を駆使して、ようやく手に入れた電電公社の経営委員も辞任し、すべてを失った岩澤は、行方をくらました。
誠備銘柄を取り扱っていた中小証券も軒並み被害を受け、その数は丸国証券や一成証券など30社にのぼっていた。そして誠備グループの会員もまた、大半が投下資金を失い、損害を被った。
「政治家であろうと誰であろうと、株の売買は自由。なぜ問題視されるのか分からない」
80年秋、誠備グループが宮地鉄工所側に臨時株主総会の開催を要求した際に3万株の株主として株主名簿に名前があった玉置和郎は、そう言い放って注目を集めたが、加藤の逮捕で、誠備グループと政界との繫がりを巡る報道も再び過熱し始めた。妻名義で株主になっていた稲村利幸、実弟が株主だった小泉純一郎に止まらず、誠備グループに関わっていた政治家は自民党から野党に至るまで60人以上いるとみられていた。だが、加藤の脱税事件の公判は、実態解明には程遠い展開を見せた。
検察は黒川木徳証券などに開設された仮名の32の株式取引口座に着目。これが実際には加藤自身が株を売買する“手張り口座”であり、その所得は加藤に帰属すると主張していた。一方の弁護側は、この32口座は誠備の秘密会員である政治家や高級官僚などの仮名口座であり、加藤は株の運用を一任されていたに過ぎないと真っ向から反論した。焦点はその口座の真の顧客が誰であるかに絞られていた。
だが、肝心の加藤が顧客の名前を頑なに明かそうとせず、公判でも「そのために自分の無実が立証できず、有罪になっても仕方がない」などと陳述し、代理人弁護士との関係にも微妙な空気が漂い始めていた。橋渡し役を務めていた對馬が、当時の状況をこう述懐した。
〈「加藤さんが、接見担当で連絡役だったヤメ検弁護士のことを『彼は俺の話のポイントが理解できていない。数字を覚えないし、記憶力が悪い』と言うので、その旨を元検事総長の竹内さんにも伝えました。竹内さんは、『勝てるんだから安心しなさい。勝負はついているんだ。加藤君も拘禁病にかかっているな』と余裕の構えでしたが、結局は弁護団を解任することになった」〉
逃亡劇最大の危機
83年に入り弁護団が替わり、加藤逮捕から2年が経とうとしていた2月1日。加藤母子と金沢の逃亡劇は最大のピンチを迎える。それは映画さながらの緊迫の駆け引きだった。
当時、彼女らは九州を離れ、関東近郊に舞い戻っていた。箱根でしばらく過ごした後に對馬が用意したのは、熱海駅から徒歩約五分のひと際目立つ白いリゾートマンションの一室だった。市街地と海を眼下に収める高台に立ち、源泉掛け流し温泉を備えた人気物件。しかも、何かあればすぐに動ける103号室の部屋である。
その日の昼間、東京から「對馬が検察に呼ばれたようだ」との情報が入った。この時、一緒に逃亡を続けていた女性秘書の金沢は既に熱海を離れていた。
「どうしましょうか」
幸子は對馬の部下に指示を仰いだ。
「對馬が戻るまで待っていて下さい」
電話を切った瞬間、胸騒ぎを覚えた幸子は、すぐに息子用にいつも持ち歩いていた本や身の回りの所持品を纏め、タクシーを呼んだ。そして、タクシーから足がつくことを想定し、行先は熱海駅の先の「來宮神社」と告げて、一旦そこで下車。近くの飲食店で食事を済ませた後、別のタクシーに乗り換えて、街中を避け、山間部へと向かった。そこにはヂーゼル機器の仕手戦に関わっていた平和相銀の外様四天王の一人、日誠総業の次郎丸嘉介が開発したゴルフ場併設の別荘地「南箱根ダイヤランド」があった。熱海に移る前、ダイヤランドに隣接する施設の一室を利用した幸子は、家の鍵をそのまま持っていたのだ。
その頃、特捜部内は一本のタレコミ電話に沸いていた。
「加藤の奥さんや女性秘書は、對馬が用意した熱海のマンションにいる」
電話の主は男性で、名前は名乗らず、加藤の親戚だと告げた。部屋の契約書などを入手した特捜部は、エース級の検事、中井憲治(のちの東京地検特捜部長)らを現地に派遣した。そして夕方、中井らは熱海に到着すると、逸る気持ちを抑えながらマンションの部屋に踏み込んだ。だが、そこは蛻の殻だった。炊飯器には炊き上がったまま放置されたご飯、流しには使いかけの食器があり、生乾きの洗濯物もそのまま残されていた。
「まだ座布団が温かかった」
その日夜遅く、うなだれて東京に戻ってきた中井は、検察上層部にそう報告していたという。
検察内部に重苦しい空気が漂い始めていた。
(西﨑 伸彦/Webオリジナル(外部転載))
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