「ぜいたくはするな」「働いて得たお金で暮らせ」“経営の神様”松下幸之助が唱えていた「家族への教え」
2025年5月9日(金)7時0分 文春オンライン
松下幸之助(1894〜1989)は和歌山生まれ。父親が米相場で失敗したため、小学校も卒業せずに奉公に出る。いくつかの職業を経たのち大阪電燈に勤めるが、改良ソケットを考案し独立、松下電気器具製作所を作る。戦後、公職を追放されるが、昭和22(1947)年に復帰してからは家電ブームに乗り、大量生産、大量販売で大松下グループを作り上げた。
松下が94歳で亡くなった1989年当時、ひとり娘の幸子さん(2021年に99歳で逝去)が明かしていた、家族の記憶とは。

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一番苦労したのは、終戦後だったと思います。すべて父の個人保証でお金をかりておりましたので、たいへんな借金を背負いこんでしまいました。会社も一時は2、3万人いたものが8000人ぐらいに縮んでしまいました。それをどう建て直そうかと苦心している時に財閥指定を受けて関連会社が分離され、また預金封鎖でお金も自由にならなくなってしまい、家の経済も苦しかったようです。大阪にいらっしゃるお友達、5、6人が見るに見かねてお金をかしてくださいまして、それでなんとか暮らしていたような状態でした。
家ではよくヤケ酒を
この頃、父はよくヤケ酒を飲んでおりました。ウィスキー、それもジョニー・ウォーカーの黒しか飲まないんですが、2日か3日に一瓶あけてたんではないでしょうか。その頃でも、いただき物などで父一人が飲むぐらいはあったんです。
家の中でお酒を飲むのは、父一人だけ。私がお酌をしたりすると、「亭主が酒を飲まないから、給仕が下手だ」なんてブツブツ言いながら飲んでおりました。明るいお酒ではありませんでしたね。
一生懸命働いて、なんでこんな目にあわなければならないのか、という気持だったのでしょう。
母が心配しまして、「洋酒は強くて身体によくないから」ということで日本酒に変えさせたんです。その後、事業が落ち着いて、打ち込めることが出てまいりましたので、それほどは飲まなくなりました。でも、お酒は亡くなる少し前まで、お猪口に2杯とか、ビールをコップ半分とか、飲んでおりました。
父の仕事がうまくいかない時も、母は泰然自若としていた
父にとって、母の存在は大きかったと思います。父は仕事がうまくいかないような時、しょっちゅうイライラしてる人でしたが、母はそんな時も、泰然自若としておりました。父も、いよいよ困った時は、母に相談していたようです。
戦前、私が結婚して間もないころ、こんなことがございました。めずらしくみんなでそろって食事に出たんですが、梅田の駅前に大道易者がいるのを見て、父がおもしろがって「見てもらおう」ということになりました。易者は父の手を見て、「あなたはお金をたくさん儲けるが、みんな散じてしまいますな」と言うんです。「じゃあ、私は」と母が手を見せると、「いや、この奥さんがついているなら大丈夫です」。みんなで大笑いになりました。
「うどん屋でもやろうか」
父が事業に行き詰まった時、「うどん屋でもやろうか」といったという話、あれは本当なんです。母がよく「あなたはすぐにぜんざい屋をやろうとか、カレー屋をやろうとかおっしゃってましたね」と、父をからかってました。父は仕事が行き詰まったりすると、すぐに「食い物屋でもやって気楽に暮らそうか」なんてことを言い出すんですね。最近、松下興産がビルを買いまして、その一階に小さなカレー屋を開いたんですね。そしたら、母が、「あなた、とうとうカレー屋ができましたね」と——。
家庭的、という言葉からはまったくかけ離れた父でございました。なにしろ99.9パーセントは会社の方を向いておりまして、うっかりすると、孫の名前も覚えてないんじゃないか、ということもありました。
もう30年ほど前になりますが、お知り合いの方に子供が生まれて、名前をつけてくれと頼まれたんです。お父さまが「正」という字のつくお名前で、「それじゃ、私の幸の字をとって、正幸にしなさい」と言ったそうです。ご存知のように、孫に正幸がおりますのに、すっかり忘れていたんですね。頼まれた方がビックリして「よろしいんですか」と聞くとキョトンとしてしばらく考えてから、「アッ、そうか」と気がついたというんです。
世間ではしきりに「かわいい孫に跡をつがせたいんだろう」とかおっしゃいますが、そんなことはまったくございませんでした。
事業、仕事が命の人
本人が、家庭的にはあまり恵まれておりませんでした。両親とも早く死に別れておりますし、兄弟も早く亡くなりました。いつも一人だけで生きてきたという感じだったのでしょう。愛情をふんだんに注がれて育った人と、そうじゃない人というのは、おのずから違ってくるのではないでしょうか。
「なんとつめたい人でしょう」と言う人もいらっしゃいますが、私は、父は事業、仕事が命の人なのだから、それは仕方がないことだなあ、と思うようになりました。愛情もなにも、すべてを全力で事業に投じた人でございました。
「ぜいたくはするな」「働いて得たお金で暮らせ」というのが、父の家訓のようなものでした。「もうかったものは社会に還元するものだ」とも言っておりました。それで申しますと、今回も、父の遺産を相続するということになるのですが、これが驚いたことに、節税対策というものを一切していないのですね。開けてみて「アレアレ」と思ったほどで、果たして税務署に信じてもらえるかしらと心配するほどに、何もしていないんです。不動産もほとんどありませんし、骨董などもありません。99パーセントは株でございまして、株の場合は、時価で評価されますので、まあ、ずいぶん税金をおさめさせていただくことになろうかと思います。
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このコラムは、いまなお輝き続ける「時代の顔」に迫った『 昭和100年の100人 リーダー篇 』に掲載されています。
(松下 幸子/ノンフィクション出版)