巨大な葬儀が行われた稲川会総裁・清田次郎とは何者だったのか「トラブルがあると子分を引き連れて殴り込み」「話すときは相手に抱きつくように…」

2025年5月16日(金)18時0分 文春オンライン

〈 「香典は数億円にのぼった可能性が」暴力団業界の超大物が集結した稲川会の総裁・清田次郎の葬儀 国税の幹部が語る“非課税”の理由「納税したいと申告するなら別だが…」 〉から続く


 暴力団「稲川会」の総裁、清田次郎が4月21日に84歳で死去した。5月15日には横浜市内にある稲川会館で「会葬」が行われた。かねてより喉頭がんを患っており、昨年末から重篤な状態が続いていた。


 稲川会は6代目山口組、住吉会に次ぐ国内3番目の勢力で、6代目山口組組長の司忍や相談役の高山清司らとの友好関係は暴力団業界ではよく知られている。



横浜市内の稲川会館で行われた清田次郎の葬儀 筆者撮影


 それだけの巨大組織を率いた清田とはどのような人物だったのか。警察当局で稲川会などの暴力団犯罪の捜査を長年にわたって専門的に続けてきた、元「マル暴刑事」が清田の人物像について重い口を開いた。


「清田について一言でいうと『昔気質の義理堅いヤクザ』。博徒という言葉が似合う男だ。この年齢だと、バブル経済で好景気になったころ、ヤクザといえば“地上げ”という不動産事業にのめり込んで億単位のカネを稼ぐ、いわゆる『経済ヤクザ』が目立つ存在だった。だが清田はそういったことがなかった。どちらかと言うとカネを稼ぐのがうまいタイプではなかった」


「シノギはまずは博打。昔は賭場があちこちで立っていた。あとは競馬のノミ行為など。数あるなかで最も大きかったのは飲食店からのみかじめ料。用心棒代だ。昔からのヤクザの伝統的なシノギでやっていた」


「トラブルがあると子分を大挙して引き連れて、相手の陣営に…」


 若いころの清田は、川崎で不良集団を率いて暴れていたが、川崎をシマとする稲川会の2次団体・山川一家の創設者、山川修身と知り合い、若い衆に加わった。その後は山川一家の勢力拡大に努めてきたという。


「山川一家は稲川会の中でもケンカではイケイケだった。なかでも若いころの清田は、トラブルがあると子分を大挙して引き連れて、相手の陣営に押しかけて徹底的に痛めつけたようだ。縄張内で関西弁を話す者がいたら付け回して、追い出すようなこともしていた。川崎の街のシマは自分たちで守るという意識が高かった」


 元々は愚連隊を率いていた不良だったが、稲川会の中核組織であり組織が大きい山川一家に加入したことも清田にとっては好運だった。山川一家という後ろ盾もあり、稲川会本体でも頭角を現していく。


 前出の元マル暴刑事は1970年代の中ごろ、30代前半だった清田に初めて会ったという。


「その頃は自分もまだ20代で、神奈川のある警察署勤務だった。私が勤務していた署の管内には飲食店が密集している繁華街があるため、様々な事件で逮捕されたヤクザが留置所によく入ってきた。当時は所轄の刑事課が留置管理を担当していて、自分が当番の時にたまたま清田が来た。ヤクザは態度が悪く大柄な者が多かったが、清田は礼儀正しく腰が低かった。敵対するヤクザには容赦ないが、カタギ(一般市民)には丁寧で礼をわきまえた対応をする。これが昔気質の任侠道と考えていたようだ」


 検察庁への移送などで清田の担当をした時も、様子はその他のヤクザとは違った。


「移送の時は手錠や腰縄を装着するが、そういう手続きの際に清田はいつも『ご苦労様です』と礼儀正しかった。今思えば、さすがに組織のトップになる人間の対応だったということかもしれない」


「ヤクザはべらんめえ口調で話す者もいるが、清田は…」


 清田について強く印象に残っているのは、あまりにも大きくて分厚い両手だという。


「後に清田の子分から聞いた話だが、舎弟や子分に不始末があると、清田は容赦なく殴りつけたようだ。野球のグローブのようなデカい手でパチンと平手打ちしたりガツンと殴りつけたりするので、若い衆は『顔は怖いし、あのデカい手だからとにかく痛い』と恐れていた。その話を聞いた頃はもう山川一家で総長代行というナンバー2の役職についていた。若い衆のしつけに厳しく、悪さをしたら張り倒すのは、組織の規律を維持するためだったようだ」


 大物になるにつれて清田が留置場へ入ることもなくなったが、元マル暴刑事は約20年後の1990年代初頭、清田に再会することになる。その席には、現在の稲川会会長の内堀和也も同席していた。


「私がヤクザの捜査専門になっていて、視察のため(川崎市内の)山川一家本部事務所を訪問した。そのころには、清田は山川一家の総長に就任し、稲川会の2次団体のトップらしい顔になっていた。この際には、世間話をしただけだった。ヤクザはべらんめえ口調で話す者もいるが、清田は落ち着いた話しぶりで紳士的な対応だった。稲川会現会長の内堀もいたが、金融機関に務めていた経歴がある通り、一見するとヤクザには見えない男だった。内堀は、かつて携わっていた金融の仕事について話をしていたことを覚えている」


 清田が山川一家の2代目総長に就任したのは1992年のこと。その後、2006年に稲川会のナンバー2である理事長に、そして2010年に稲川会の5代目会長となった。


 その後を追いかけるように内堀は2008年に山川一家総長に就任し、2019年に清田の後継として稲川会の6代目会長に就いた。


「内堀はその後、金融の知識を生かして経済ヤクザと言われるようになっていった。いまや稲川会全体の運営を仕切っているだけでなく、6代目山口組やその他の組織との外交関係でも重要な役割を果たす大物中の大物」


「話をする際には相手に近づいて抱きつくようにして…」


 清田は後年喉頭がんを患い、のどの声帯を切除する手術を受けたという。


「発声がうまくできないため、話をする際には相手に近づいて抱きつくようにして耳元で言葉を伝える。事情を知らない人からすると、親愛の情を示すようにも見えたのではないか」


 2019年に会長職を退き総裁というポストについた清田だが、稲川会において総裁というポストには特別な意味があるという。


「稲川会で総裁というと角二のイメージそのもの」(前出マル暴刑事)


 角二とは、稲川会創設者の稲川角二のことで、暴力団業界では「稲川聖城」と名乗っていた。山口組を神戸の地方組織から全国組織に育て上げた3代目組長・田岡一雄が神格化されているように、稲川会における角二のカリスマは現在も健在だ。


「角二は石井進に稲川会の会長職を譲った後も、総裁として事実上組織の運営を握り続けていた。総裁というとほかの組織では引退した後見人というイメージだが、稲川会においてはまったく意味が違う。角二の死去後、総裁という立場の人物はいなかった。清田の存在は稲川会にとってそれほど大きかった」


 清田が総裁というポストに就いた背景には、山口組の存在があると推測してみせた。


「稲川会で清田が総裁ポストに就いたのは、山口組との関係のためだった可能性も高い。内堀は山口組の現若頭・竹内と五分の兄弟分だが、内堀が稲川会の会長に就任した時、竹内はまだ山口組の若頭補佐で司、高山に次ぐナンバー3だった。稲川会トップの内堀と、山口組ナンバー3の竹内が兄弟ではバランスが悪いので、司や高山と同格の清田が総裁として残ったのではないか」


 今年に入り、山口組では高山が相談役として一線を引き、竹内が若頭に就任した。竹内は山口組の7代目を継ぐと見られており、そうなれば清田と竹内でトップ同士が兄弟分という状態になる。


 ただ現役の捜査員たちにとって清田は接触すら出来ない存在だったようだ。


「現在の稲川会は会長の内堀がすべてを仕切っているので、清田は『ご隠居』くらいの立場とみていた。内堀をはじめとした今の幹部にお任せで『よきに計らえ』の、おじいちゃんのイメージ」(若手刑事)


 体調的にも、清田が稲川会の運営に直接影響を与えることはほとんどなかったと見られている。それでも格が物を言う暴力団の世界で、清田という大看板の存在は大きかった。その死は稲川会のどのような影響を及ぼすのだろうか。


(尾島 正洋)

文春オンライン

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