【世界史ミステリー】最強モンゴル軍の急拡大を「1枚の地図」で読む

2025年5月19日(月)8時10分 ダイヤモンドオンライン

【世界史ミステリー】最強モンゴル軍の急拡大を「1枚の地図」で読む

【世界史ミステリー】最強モンゴル軍の急拡大を「1枚の地図」で読む「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」人類の歴史は、交易、外交、戦争などの交流を重ねるうちに紡がれてきました。しかし、その移動や交流を、文字だけでイメージするのは困難です。地図を活用すれば、文字や年表だけでは捉えにくい歴史の背景や構造が鮮明に浮かび上がります。本連載は、政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図や図解を用いて解説するものです。地図で世界史を学び直すことで、経済ニュースや国際情勢の理解が深まり、現代社会を読み解く基礎教養も身につきます。著者は代々木ゼミナールの世界史講師の伊藤敏氏。黒板にフリーハンドで描かれる正確無比な地図に魅了される受験生も多い。近刊『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の著者でもある。

Photo: Adobe Stock

モンゴル帝国の誕生と快進撃!

 1206年、モンゴル高原のオノン川源流近くで、諸部族の会合「クリルタイ」が開かれ、テムジンが全モンゴル部族の君主に推戴され、「チンギス・カン」と名乗ります。これがモンゴル帝国の始まりです。チンギス・カンは部族間抗争に終止符を打ち、ナイマンやホラズム・シャー朝を打ち破り、広大な領土を支配下に置きます。また、中国方面では西夏を滅ぼす直前に死去しました(在位1206〜1227年)。

 後を継いだ三男オゴデイ(在位1229〜1241)は「カアン(大カン)」を名乗り、金を滅ぼして華北を制圧。その一方で、甥のバトゥに西方遠征を命じます。

 バトゥと名将スブタイはロシアのキエフ・ルーシを崩壊させ、東ヨーロッパへ侵攻。1241年のモヒの戦いではハンガリー王国に壊滅的打撃を与え、別働隊はポーランドにも進軍して物資を略奪しました。しかし、オゴデイの訃報と兵站の問題により西進は中断され、西ヨーロッパはモンゴルの侵攻を免れました。

バグダード陥落、そして……

 オゴデイの後継者となった長男グユク(在位1246〜1248)の短い治世の後、続いてカアンに即位したのはグユクの従兄弟にあたるモンケでした(在位1251〜1259)。モンケは2人の弟に征服活動を命じます。その1人フレグ(フラグ)は中東への遠征を敢行し、イランを征服するとイラクに侵攻します。1258年にバグダードを陥落させ、これによりアッバース朝は実質的に滅亡します(カリフの一族はエジプトに逃れ、この地で名目上ではあるもののその地位を1517年まで維持します)。フレグの分遣隊はシリアとエジプトへの侵攻を試みますが、これはアイン・ジャールートの戦いでマムルーク朝に撃退されます。

 一方、もう1人の弟クビライ(フビライ)は雲南を征服し、南宋の攻略に着手します。しかし、長期戦となり、またモンケの弟への猜疑心から攻略にさらなる遅れが生じ、これに痺れを切らしたモンケは自ら軍を起こしましたが、その途上で急逝します。

ついに中国統一!

 モンケ没後の帝位継承戦争を制してカアンに即位したのがクビライ(フビライ:在位1260〜1294)でした。クビライ・カアンはオゴデイ家のカイドゥ(ハイドゥ)の反乱などに苦しめられますが、彼は中国支配に本腰を入れ、中国を支配する正当な王朝として「元(大元)」という国号を称します。下図(図28)を見てください。

出典:『地図で学ぶ 世界史「再入門」』

 1276(79)年には南宋をついに攻略して中国統一に成功すると、今度はさらに東南アジアや日本(いわゆる元寇)などに遠征を繰り広げますが、いずれもほとんど芳しい成果を得るものではありませんでした。

(本原稿は『地図で学ぶ 世界史「再入門」』を一部抜粋・編集したものです)


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