不倫は「懲役2年半」の実刑になるが…それでも平安貴族が「禁じられた恋」に熱中した背景事情

2024年2月20日(火)8時15分 プレジデント社

「源氏物語絵巻」柏木 病床にある柏木と夕霧との対面(画像=徳川美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

写真を拡大

平安時代の貴族にとって和歌は重要なコミュニケーションツールだった。多くは恋愛がテーマだが、不倫や人妻をテーマにした和歌も多く詠まれた。どんなことが書かれたのか。古代和歌を研究する国文学者・山口博さんの著書『悩める平安貴族たち』(PHP新書)から紹介する——。
源氏物語絵巻」柏木 病床にある柏木と夕霧との対面(画像=徳川美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

■禁じられた恋の愉悦


「人妻」という言葉には蠱惑的なニュアンスがある。平安人が和歌作製のガイドブックにしていた『古今和歌六帖』第五帖「雑思」にも「人妻」の項がある。


人妻は杜(もり)か社(やしろ)か唐国(からくに)の 虎伏す野辺か寝てこころみん
(人妻は手出しをすると罰が当たる。神のいます杜か神社か、それとも恐ろしい虎がいる野原か、とにかく寝て試みよう)
よみ人知らず(『古今和歌六帖』第五帖「人妻」)

と、不届きな凄い歌が挙げられている。


杜の神、神社に祀られている神様、それに虎、触れると罰が当たるか噛みつかれる危険なものを並べ、人妻も触れると祟るか噛みつかれるか、寝てためしてみようというのだ。怖ろしや、怖ろしや、命懸けだ。


人妻に密かに通う行為を「密か事」という。色好みの男女が大勢登場する『源氏物語』には、密か事にふけるカップルも多い。中には虎臥す野辺に寝て食われて、悶死した者もいる。柏木衛門督も、その一人だ。


柏木は光源氏の正妻女三宮と密通し、そのことを光源氏に知られてしまい、恐怖と逢えない苦悩から死んだ。『源氏物語』第三十六帖「柏木」は一帖を使って、衛門督の悩みに悩む心奥を詳細に描く。柏木は、密か事と引き換えに命を失ったのだ。男は官位よりも女のことで死ぬ——道長の息子や『宇津保物語』にある言葉そのままであった。


■愛したいけど、愛せない悲しみ


光源氏の恋の遍歴も並みの恋ではなく、柏木以上に人妻との姦通事件を含む。父桐壺帝の妻であり義母でもある藤壺宮を手始めに、空蝉・朧月夜尚侍などが浮かぶ。藤壺宮との事件は『源氏物語』の核を為し、作者は「あさましかりし事」と表現しており、光源氏は終生罪の意識にさいなまれる。


天皇妃となる予定だった娘朧月夜尚侍を光源氏に犯された父親は、娘を「穢れたり」と怒り、この密か事が遠因で光源氏は須磨・明石に謫居を余儀なくされる。野に臥す虎に噛みつかれたような結果になった。


心の中では男を愛しひかれながら、人妻の身を自覚して拒み続ける悲しさを、実にストレートに表現したのは空蝉だ。


空蝉の羽(は)に置く露(つゆ)の木(こ)隠れて 偲び偲びに濡るる袖かな
(蝉の羽に置く露のように木陰に隠れて、人目を忍んで光源氏様恋しの涙で濡れる私の袖だわ)
(『源氏物語』第三帖「空蝉」・『伊勢集』)

と、手元の紙に書くのであった。光源氏に愛を求められ自身も心の内で愛しながら、拒絶しなければならない人妻の心奥の悲しみだ。


この歌は、『古今和歌集』時代の代表的な女流歌人伊勢の歌だが、紫式部はそれを借用している。光源氏を心で愛していながらその愛を拒否する人妻空蝉の立場を表すのにぴったりの伊勢の歌を、「空蝉」帖の末尾に置いて締め括るとは、実に適切な使い方ではないか。


帖名の「空蝉」も、この人妻が空蝉と呼ばれているのも、伊勢の歌に基づいている。「空蝉」帖の主題は、この歌に凝縮されているのだ。


写真=iStock.com/Amenohi
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Amenohi

■犯罪行為の不倫が、平安貴族の「道徳」になったワケ


人妻と関係を持つことを「密か事」と表現したが、他にも密通を表す言葉は実に多い。嫌らしい文字が「姦通(かんつう)」。「不義密通」となると封建時代を想起させ、後ろからバッサリ斬られそうである。


ちなみに平安時代にもバッサリはあった。中原師範は妻と密通した高階成棟をバッサリだ。


やや即物的な感のあるのが「情交」。「背徳」「不倫」には罪の影があり、反対に罪の影のまるで感じられないのが「浮気」「よろめき」。その他「内通」「私通」。「情事」となると芸術的雰囲気が漂う。


平安時代は律令制度であるから、姦通罪も規定されている。状況により、二年から二年半の徒刑である。徒刑と断罪されると、首枷をはめられ、夜間は三、四人を紐で繫ぎ、昼間は紐を外して労働させるのだ。


問題はその適用にある。事実上一夫多妻であるから、妻ある男が妻以外の女と関係したからとて姦通にはならず、平安時代になって戸籍制度は事実上消滅し、法律婚ではないので、夫である、妻である、との認定も難しく、有婦有夫間の密か事かどうかもはっきりしない。


「色好み」が貴族の身に備えるべき道徳であれば、一見放埒な社会と見られても、どのような状態が姦通なのかも定め難く、姦通の事実を証明することは非常に困難である。


■法律が機能していれば、貴族も、源氏物語も無かった


厳密に法律が機能していれば、藤原道長も光源氏も、いや貴族すべてが検挙され、内閣はもちろん貴族社会は瓦解(がかい)する。『源氏物語』は発禁処分を受けるだろう。何しろ光源氏と桐壺帝の皇后藤壺宮、光源氏の正妻女三宮と柏木の二つの密通事件が、物語のバックボーンになっているのだから。


幸いなことに法律は適用されなかったが、「密か事」「あさましかりし事」や「穢れたり」という言葉には、後ろ暗い影を感じる。


しかしそれは宗教的・倫理的なニュアンスで、光源氏が不倫を後悔する父桐壺帝の皇后藤壺宮を慰める言葉のように、「このような関係になったのも前世からの因縁」で処理するのだ。


光源氏の正妻女三宮と密通した柏木も「どのような前世の宿縁で、このような愛執のとりこになったのか」と内省する。その柏木の子を出産した女三宮も、「この世でこのような思いがけない報いを受けたのだから、来世の罪も軽くなるだろうか」と、前世、この世、来世の三世の因果関係にとらわれているのだから、倫理的な善悪の基準を超越しており、これでは罪の意識などは生じようもない。


土佐光起作『源氏物語画帖』より『源氏物語』第5帖「若紫」(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

■「姦夫姦婦の愛」が優れた和歌を生み出す


文学において、姦通の危険を冒す設定の効果は大きい。作中人物の愛はますます高揚し読者をドキドキハラハラさせながら引き付ける。現実世界においても姦夫姦婦の愛はいやが上にも燃え、それがために秀歌も生まれる。


平安末期の歌学書『袋草紙』(雑談)が、「気が進んだことに対しては、秀歌が詠める」としたのはこのことで、具体的な例として従三位左京大夫藤原道雅を挙げている。


『袋草紙』によると、道雅はそれほどの歌の名人という評判もないのに前斎宮の許に密かに通い、女の父三条天皇の怒りを買い、逢うことができなくなった。その時、


今は唯(ただ)思ひ絶えなんとばかりを 人伝(ひとづて)ならで言ふよしもがな
(今はもうあきらめようと思うが、せめてそのことを、人伝ではなく直接申し上げる方法があればいいのだが)
左京大夫道雅(『後拾遺和歌集』恋三)

と歌う。「これでお別れ」と直接申し上げる機会が欲しいというのは、最後の逢う瀬のチャンスを掴みたい必死の策略だ。


■身分差のある禁じられた恋


現職の斎宮ではないので、世間では二人を裂いた天皇を非難、道雅に同情する声もあった。『袋草紙』は「密通の由」というが、有婦有夫間の密通とは異なり、女は皇族、男は家柄身分違いの藤原、それゆえ、禁じられた女に密かに通った意での密通か。


通雅は恋したがゆえに、勅撰和歌集や『百人一首』に採択される一世一代の名歌を残すことができた。もっとも道雅は名人とはいわれないものの和歌に秀で、『後拾遺和歌集』に五首、『詞花和歌集』に二首と、勅撰和歌集に合わせて七首が入集している。


藤原定家の父で、第七番目の勅撰和歌集『千載和歌集』撰者の俊成は、


恋せずば人は心もなからまし 物のあはれもこれよりぞ知る
(恋をしなかったら、その人は心がないようなもの。物事のしみじみとした情趣は恋というもので知る。そこから秀歌は生まれるのだ)
藤原俊成(『長秋詠藻』)

と、恋愛讃歌を高々と掲げ、「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり(『源氏物語』を読んでいない歌人は残念である)」(「六百番歌合」の評言)と、恋する人たちの例歌を『源氏物語』に求めたのである。


■女性の浮気も勅撰和歌集のテーマに


女の浮気を表す言葉に「密か男する」がある。妻の密か男を知った時、男はどうするだろうか。


言葉激しくなじる、暴力を振るう、黙って女の許に通わなくなる等々。ある男はさすがに王朝貴族、言葉荒く詰問することはせずに、エレガントに事情を尋ねたが、女は黙秘権を行使した。しばらく黙していた男は苦渋に満ちた顔で歌った。


忘れなんと思ふ心の付くからに 言(こと)の葉さへや言へば忌々しき 
(貴女は私のことを忘れてしまおうと思ったので、今の事情を口に出して話をすることさえも、禁じるべきこととお考えか)
よみ人知らず(『後撰和歌集』雑二)

とつぶやいたが、密か男した妻の返しの歌はない。沈黙のまま時間は経過する。密か事、密通の淀みに耐えかねる重苦しさ。姦通、不倫がいかに苦悩に満ちたものであるかが歌い込まれている。


エレガントなこの男とは反対に、一晩中詰問した男もいる。


「妻の密か男したりけるを見つけて」と詞書にあるから、密通現場を見てしまったのだ。これでは夫としては、たまらない。エレガントになどと心を落ち着かせる余裕もなく、一晩中問い詰めて、翌朝歌った。


今はとて飽(あ)き果てられし身なれども 霧立ち人をえやは忘るる 
(すっかり飽きられて今日でお別れと宣告された我が身だけれど、霧が立つ彼方に去って行く貴女を、どうして忘れることができようぞ)
よみ人知らず(『後撰和歌集』雑四)
写真=iStock.com/Carlos Pascual
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Carlos Pascual

■言い訳を和歌でエレガントに伝える


妻は正妻として夫の家に同居していたのだ。夫は妻を心から愛していた。時は神無月(十月)で、旧暦では冬の始まりの月。だから、第二句の「飽き果て」に「秋果て」を掛ける。


「秋」の縁語で第四句に「霧立ち」と歌い、「霧立ち人」で霧の彼方に去っていく妻を意味させた。夫は秋の葉に置く露のような涙を浮かべていたに違いない。妻は後悔してくれないだろうか。


平安中期の貴族の生態を極めてリアルに語っている第二代目の勅撰和歌集の『後撰和歌集』には、詞書に「異男」「異女」、両方合わせた「異人」などがある。定まった男、または定まった女、つまり既婚者でありながら、他の男や女と関係を持つ状態である。


「異女の文を、妻の『見む』と言ひけるに、見せざりければ(妻以外の女から送られてきた手紙を、妻が見たいと言ったが見せなかったので)」は、夫の密か事が露見しそうな情景だ。このような場合、男はどうする?


まず女からの手紙を読ませず、「この女とは何でもないのだ」と言い訳をする。何でもないのなら、読ませれば身の潔白は証明されるのだが、この夫は、異女からの手紙の裏に歌を書いて妻に見せた。


これはかく怨(うら)み所もなき物を うしろめたくは思はざらなん
(この手紙に書かれていることには、このように怨みに思うことなどありません。ですから裏を見るほどのこともなく、不安に思わないでくださいよ)
よみ人知らず(『後撰和歌集』恋二・『信明集』)

面と向かって「怪しい関係ではないのさ」と言うよりは、歌の方がソフトなので事は荒立たない。


■「よみ人知らず」のリアルさがある


それにしても、言い訳を即座に歌に作るということは、並みの腕ではない。それにテクニックが素晴らしい。掛詞を駆使した平安好みのうまい歌だ。



山口博『悩める平安貴族たち』(PHP新書)

「かく」は「かく(このように)」と「書く」、「怨み」には「裏見」、「うしろめたく」は「うしろめたく(不安)」と「(手紙の)裏見たく」を掛けている。


歌は手紙の裏に書き、それを妻に見せているのだから、これが表になり、女からの文面は裏になる。だから「裏見たく」だ。夫の言い逃れが功を奏したかどうかは、妻の返歌がないので分からない。手紙の裏に書いて見せた夫の機知といい歌の出来といい、疑いながらも許したであろうことを祈ろう。


この歌は『信明集』にあるので、陸奥守従四位下に至った源信明の歌だろう。この妻は、醍醐天皇の弟敦慶親王と歌人伊勢の間に生まれた中務か。やんごとない血筋に繫がるゴシップなので、『後撰和歌集』で「よみ人知らず」にして信明の名をも伏せたのか。そうならば、ますます信明に後ろめたさを感じてしまう。


----------
山口 博 (やまぐち・ひろし)
国文学者
1932年、東京生まれ。東京都立大学大学院博士課程単位取得退学。富山大学・聖徳大学名誉教授、元新潟大学教授。文学博士。カルチャースクールでの、物語性あふれる語り口に定評がある。 著書に、『王朝歌檀の研究』(桜楓社)、『王朝貴族物語』(講談社現代新書)、『平安貴族のシルクロード』(角川選書)、『こんなにも面白い日本の古典』(角川ソフィア文庫)、『創られたスサノオ神話』(中公叢書)、『こんなにも面白い万葉集』(PHP研究所)などがある。
----------


(国文学者 山口 博 )

プレジデント社

「不倫」をもっと詳しく

「不倫」のニュース

「不倫」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ