NHK大河で渡辺謙が演じる田沼意次に政敵の松平定信がワイロを贈ったワケ…やはり意次は裏金政治家だったか
2025年2月23日(日)10時15分 プレジデント社
田沼意次像(画像=牧之原市史料館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
■「べらぼう」で改めて注目されている老中・田沼意次
大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)の主人公は江戸時代後期の出版業者・蔦屋重三郎(横浜流星)ですが、出版業界だけが描かれているわけではなく、当時の政治家たちの確執や権力闘争も展開しています。そうした政治家らの中でドラマ初回から一際目を引くのが田沼意次ではないでしょうか。
田沼意次像(画像=牧之原市史料館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
何と言っても意次を演じるのは、世界を舞台にして活躍する名優・渡辺謙。また意次自体、大河ドラマに登場することはほとんどありませんでした。1995年の大河ドラマ『八代将軍吉宗』(主演・西田敏行)で若き頃の意次が少し登場しましたが、本格的に描かれるのは「べらぼう」が初めてでしょう。
意次と言えば、一般の人々の脳裏には「賄賂(わいろ)政治家」のイメージが刻まれているのではないでしょうか。日本史の教科書にも、意次の時代に関する文章の中で「幕府役人のあいだでは、賄賂がしきりにおこなわれ、意次に反発する声も高まった」(『高校日本史B』山川出版社、2014年)との記載があります。
■大河では描かれていない意次の生い立ちと父の代からの来歴
しかし意次は本当に「賄賂政治家」だったのでしょうか。また、意次は徳川幕府の老中の座にまで上りますが、どうしてそこまで出世することができたのでしょう。意次の「実像」に迫ってみたいと思います。その前提として意次に関する基礎知識(生い立ちなど)を確認しておきます。そこに意次出世の秘密が隠されていると筆者は感じるからです。
まず、意次の父は、田沼意行です。意行が仕えたのが、徳川吉宗、後に8代将軍となる人物。意行は吉宗が紀州藩主や将軍となる前から仕えていたのでした。宝永2年(1705)、吉宗は紀州藩主となりますが、意行はその奥小姓となります。そして吉宗が享保元年(1716)に将軍となると意行は、江戸に行き吉宗の小姓を務めることになるのです。田沼家は幕臣(旗本)となったのです。
意行は知行地(相模国高座郡・大住郡内。600石)も与えられ領主となりますが、享保19年(1734)12月、小納戸頭取のまま47歳で死去します。意行は吉宗の部屋住み時代から長年仕えた「子飼いの家来」でした。そのことが意次の後の出世にも関連していると筆者は考えています。意次は意行の長男として享保4年(1719)に生まれました(母は紀州藩士・田代氏の養女)。
意次が将軍・吉宗に初お目見えしたのは享保17年(1732)、14歳の時です。父・意行が亡くなった年の3月には、吉宗の長男で後継者に目されていた家重の小姓となります。9代将軍となる家重の小姓になったことも、意次の後の昇進に影響を与えていると言えるでしょう。
■600石の旗本から9代将軍・家重の側近に成り上がった意次
前述したように享保19年(1734)12月に意行が亡くなったため、翌年、意次が家督を継承します。意次は元文2年(1737)に従五位下に叙されていますが、目覚ましい出世の契機となったのが、吉宗が引退しその嫡子・家重が9代将軍に就任したことでした(延享2年、1745年)。意次は将軍世子の小姓ではなく、将軍の小姓となったのです。
もちろん、家重の小姓となっていたのは意次だけではありません。吉宗は紀州藩士の子弟を家重の小姓として数人配置していました。意次はその中から、小姓の頭・小姓頭取に昇進(1746年)するのです。延享4年(1747)には御用取次見習、寛延元年(1748)には小姓組番頭、宝暦元年(1751)、御用取次に累進していく意次。御用取次とは吉宗の時代に設けられた役職で、将軍に近侍し、将軍と老中の取次役となりました。
写真=時事通信フォト
「ブルガリホテル東京」のオープニングパーティーに出席した渡辺謙、2023年4月4日、東京都中央区 - 写真=時事通信フォト
■「意次は正直者なので、今後も引き立てて召し使えよ」
将軍・家重の側近となった意次ですが、重用してくれた将軍が引退するとお役御免となるのが普通です。5代将軍・徳川綱吉に仕えた側用人・柳沢吉保然り、6代将軍・徳川家宣の侍講・新井白石然り。ところが意次の場合、そうはなりませんでした。
宝暦10年(1760)、家重は将軍を引退し、「べらぼう」でもたびたび登場している徳川家治が10代将軍となります。普通なら意次は御用取次を辞職することになるのですが、意次は新将軍・家治の御用取次をも引き続き務めることになるのです。それはなぜなのか。
『徳川実紀』(江戸時代後期の幕府編纂の史書)「浚明院殿御実紀附録」にその謎が記述されているように思います。同書には、徳川家重は病が重くなった時、息子の家治に次のように遺教したとのことです。「主殿(とのも)はまたうとのものなり、行々こころを添て召仕はるべきよし」と。「主殿」とは意次のこと、「またうとのもの」とは正直者・律儀者というような意味になります。つまり「意次は正直者なので、この後も引き立てて召し使えよ」と家重は家治に命じたのです。
家治は「至孝の御心」(孝行心)を持っていたので、意次を登用したとのこと。家重は意次の長年の仕事振りを見ていて「正直者」と感じ、重用したのでしょう。父・意行が吉宗に仕えていたということのみならず、意次の心根(正直者)もまた彼の出世に繋がったと思われます。宝暦12年(1762)、意次は加増を受け1万5千石の大名になっていますし、明和4年(1767)には側用人に昇進しています。そして明和6年(1769)には老中格、明和9年(1772)にはついに現代なら大臣に匹敵する老中に就任するのでした。
■田沼意次は清廉潔白ではなく、やはり「賄賂政治家」だった
さて、前述したように意次と言えば「賄賂政治家」、そしてその時代には賄賂がはびこったと説明されることが多いですが、近年、そうではなかったとする説も登場しています。仙台藩主の伊達重村は中将に昇進したいとして、その家臣に「手入(ていれ)」(賄賂を含む工作)を指示します。意次にも工作(7月1日の朝に意次屋敷を訪問したい)の手は及ぶが、彼は「書状で用事が済むのならば自分の屋敷にわざわざ来る必要はない」と用人に命じています。この命令をもってして、意次は「収賄の機会を放棄する清廉な人物」とする解釈があるのです。
しかし、意次は重村の家臣が自分の屋敷に出入りすること自体は認めているのでした。7月1日の収賄の機会は逸したかもしれませんが、意次は「手入」を受け入れているのです。そうした意味で、意次は「清廉な政治家」とは言えません。しかし意次のみを非難するのは酷と言えるでしょう。賄賂がはびこる風潮は意次が有力者となったから始まったものではなく、それまでに既に始まっていたのです(家重の時代から始まったとの説あり)。意次のみが賄賂をもらっていた訳でもありません。「べらぼう」で石坂浩二演じる老中首座・松平武元も仙台藩の工作を受け入れています。また賄賂をもらう方のみならず、賄賂を贈る方にも問題があるでしょう。
■意次を「盗賊」と言った松平定信も、屈辱に耐え金銀を贈った
意次失脚後、老中を務め「寛政の改革」を主導した松平定信(白河藩主)は清廉な人物と見なされがちですが、賄賂を要路の人に贈っています。定信は、御三卿・田安家から養子に入った白河藩松平家の家格を「溜詰」(大名が江戸城に登城した際、黒書院の溜の間に席を与えられること。親藩や譜代の重臣から選ばれた)に引き上げたいと考えていました。それは天明5年(1785)に実現することになりますが、そのために定信が行なったのは、賄賂を贈ることだったのです。
「松平定信自画像(部分)」鎮国守国神社(三重県桑名市)、天明7年6月(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons)
定信は田沼意次のもとに「日々の様に見舞い」、経済的に苦しい中ではあったが「金銀をはこび」、ついに「溜詰」に引き上げてもらったのでした。そうした定信の姿を「多欲の越中守(定信)」と笑う者もいたようですが、定信はそれを「恥じず」、賄賂を意次に贈り、願望を実現したのです(天明7年=1787年頃に定信が書いた将軍への意見書より)。定信は同意見書で意次のことを「敵」「盗賊同前(同然)」と敵意をむき出しにもしていますので、定信にとって意次に金品を贈ることは屈辱だったでしょう。
意次は一説によると、定信の才能を恐れ、彼を松平家の養子に出したり、田安家への復帰を阻止したと言われています。そうしたこともあり、定信は意次を「敵」として恨んでいたのでしょう。
■意次だけを「賄賂政治家」として悪者扱いするのは正しいのか
しかし、それでも定信はグッと堪えて「金銀」を運んだのです。定信も時代の風潮から逃れることはできなかったのです。意次のみを「賄賂政治家」として指弾することを間違っていると筆者は考えています。
ちなみに冒頭に紹介した教科書にも賄賂のことだけでなく意次の功績(幕府財政を再建するため商業資本を利用。株仲間を広く公認して収入を増やすことを目論む。新田開発など)も記述されています。田沼時代には「学問・文芸などの分野は活気にあふれた」のでした。そうした時代を背景にして蔦屋重三郎が登場し、活躍していくことになるのです。
「べらぼう」においては、意次は平賀源内を色々と便利に使っていましたが、この両者の関係がいつから始まったのか、具体的にどのような関係があったのか詳しいことはよく分かりません。源内が復元した「エレキテル」見物には、意次の子・意知や、意次の愛妾も訪れています。
「べらぼう」では意次の子・意知は宮沢氷魚さんが演じています。意知は部屋住みの身で若年寄に就任(1783年)しますが、それは先例のないことでした。前例のない出世をした意知ですが、実力ではなく、それは「親の七光」と評されています。そうしたことが人々の不満をかき立て、後の意知の悲劇につながっていくのです。
参考文献
・藤田覚『田沼意次』(ミネルヴァ書房、2007)
・鈴木由紀子『開国前夜 田沼時代の輝き』(新潮社、2010)
----------
濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。
----------
(作家 濱田 浩一郎)