「その後の日本の軌跡を振り返る時、誠に痛惜に堪えない」1921年に東京駅で刺殺された「敏腕政治家」の名前
2025年4月9日(水)9時15分 プレジデント社
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/PhotoNetwork
※本稿は、小原雅博『外交とは何か』(中公新書)の一部を再編集したものです。
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■昭和の戦争との決定的違い
明治日本は帝国主義の時代にあって、国家独立の危機に直面する中、「富国強兵」を掲げ、外交と軍事がそれぞれの役割を発揮しつつ連携し調和し一体となって「坂の上の雲」をめざして駆け上がった。その結果が二つの戦争の勝利であった。成功要因は何と言っても外交と軍事の一元的管理による連動にあった。
それは戦争が政治の延長としてなされたことを意味する。出口戦略も用意されていた。すべてを指導層が総攬し、大局的で合理的な判断を下した。日清戦争では、政治・外交を預かる首相の伊藤(博文)と軍事を預かる第一軍司令官の山県(有朋)が緊密に連携した。文官の伊藤は大本営の会議にも列席した。議会も伊藤の戦争指導を全面的に支援した。日露戦争も同様である。開戦を決定した1904年1月12日の御前会議で奉呈された大山巌参謀総長の上奏文にある次の一文がそのことを明らかにしている。
《その(戦争)発動の機はもっぱら戦略上の利害にもとづき決定せられざるべからず。これ政略と戦略の合同一致すべき最大緊要の急務なり》
大山の発言は、当時の指導者たちが政治・外交と軍事の関係の重要性を深く認識していたことを示す。昭和の戦争との決定的な違いがここにある。
■「明治モデル」は機能しなくなっていく
しかし、成功の物語を紡いだ明治モデルは日露戦争後、内外の変化によって次第に機能しなくなっていく。
本書で既に述べた通り、内では、明治の創業世代が一人また一人と去り、軍事と外交の総攬者たり得る第二世代の外政家が求められる一方で、閉鎖的な士官学校で純粋培養された少壮将校たちが台頭する。戦勝によって勢い付いた国民の民族主義的強硬論は外交を掣肘する。
外では、明治の時代が幕を閉じた翌々年、第一次世界大戦が勃発した。欧州での大戦によって列強のアジア関与は弱まった。日本は利権拡大の「千載一遇」のチャンスと捉えた。機会便乗主義の動きを主導したのが大隈重信内閣の加藤高明外相である。加藤が中国に突き付けた21カ条要求は中国の民族感情を大いに傷つけ、排日運動の原点となった。
■国際連盟の創設、国際政治学の誕生、外交の大衆化
一方、1000万人もの戦死者を出した史上最悪の戦争が終わった時、人々は平和を希求し、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出した。帝国主義の時代は終焉し、国家の生存競争の克服を目指した国際連盟の活動は、国家の利益を超えた国際社会の平和と繁栄という国際益の存在を認識させる契機となった。国際政治学が誕生するのもこの時代である。
戦間期の『危機の二十年』を書いたE・H・カーは、総力戦となった大戦によって、「戦争が職業軍人だけに関わる事態だとする考え方を捨てさせ、それに並行して国際政治は外交官にまかせておけばよいという考えをも消し去った」と指摘した。こうして外交は大衆化した。東大教授の横田喜三郎は、戦間期に学問として成立した国際政治を「多数の国家の共同の利益、世界全体の発達ということを目的とする……多数の国家が共同の利益と発達のために共同に努力する」(「国際政治」中山伊知郎他編『社会科学新辞典』)と定義した。
そんな時代の潮流を作り出したのが英国に代わって国際政治を主導する力を持つようになった米国である。ウィルソン大統領が提唱した国際連盟への米国の参加こそ議会の承認が得られずに実現しなかったが、14カ条の平和原則は帝国主義外交に代わる「新外交」として戦後秩序のあり方を予感させた。
■変化を理解し、適応の必要性を認識した日本人は多くなかった
米国は戦後に孤立主義に回帰するが、それは、伝統的な孤立主義への回帰ではなく、条約上の束縛から逃れて行動の自由を確保しようとする優越的地位の自認であった(斉藤孝『戦間期国際政治史』)。ウィルソンに代わって大統領となったハーディングは、海軍軍縮会議を提唱する。ここに、国際連盟の外において米国主導による多国間外交が展開され、大国の協調による「ワシントン体制」が形成されることになる。
写真=iStock.com/Maksym Kapliuk
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しかし、そんな変化を理解し適応する必要性を認識した日本人は多くはなかった。その一人が、外務省に入った小村欣一(小村寿太郎の長男)であり、父の外交スタイルを否定する「新外交」に呼応するため、新しい政策の立案に取り組んだ。
■国際潮流の変化を感じ取っていた原敬
国際潮流の変化を感じ取った人物が政治の世界にも現れた。それが最初の本格的政党内閣を樹立した原敬である。1918年、原首相は、国会で、「外交は強硬を装ってでき得るものではない」と述べて、対中強硬政策の転換と日米協調に取り組んだ。
原敬(1856〜1921)の肖像(写真=歴代首相等写真【憲政資料室収集文書 1142】/国立国会図書館/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
1908年に米欧を半年かけて視察した原は、日記に「将来、此国は世界に対し如何なるものとなるかは常に注目すべき要件たること」(『原敬日記』1908年10月8日)と記したように、米国が大戦後の国際秩序を主導することを見通していた。中国問題における米国要因を見抜き、対中政策と日米協調が不可分の関係にあることも理解していた。
伊藤や山県ら明治の第一世代が国家の独立を最重視したように、原も安全保障を重視した。第一次大戦中に帰郷して話題にしたことの多くは安全保障であった(伊藤之雄『原敬』)。そして、そのカギは合理的な産業振興と秩序ある民主化による英国型立憲君主制(政党政治)の実現にあると考えた(同前書)。外交と内政の関係をこれほど的確に認識していた政治家は、当時、原をおいて他にはいなかったであろう。
■政党出身の首相が政治を主導する制度を形成した
原は、教育の振興、産業の奨励、交通・通信機関の整備、国防の充実という4本柱からなる画期的な改革構想を打ち出した。最初の3つの柱は原が長年温めてきた「富国」積極策であった。一方、陸海軍の膨大な軍事予算要求に対しては、第一次大戦後に軍縮の時代がくると予想し、高橋蔵相との内談で軍縮という外圧を予算編成に利用する腹づもりであった(同前書)。その読みが当たったことはその後の歴史が証明した。
原の政治家としての凄さは以上に止まらない。伊藤が生み育てた政友会を「公利」(公共性)を重視する政策集団に発展させて議会第一党を維持した政治的能力の高さ、「カミソリ」の異名をとった政治・外交的天才陸奥を敬愛し、その下で磨き上げた政治・外交感覚の鋭さ、外交官時代に駐在武官と交流し、閣僚時代には陸海軍大臣と話し合う中で得られた軍事への理解、首相時代に山県の信頼を背景に陸軍を制御し、宮内大臣・牧野伸顕(前外相)を首相に服従させる形で宮中と宮内省も掌握した統治術の切れ味である。政党出身の首相が陸・海軍や宮中までも統制し、責任をもって政治を主導する制度を形成したのであった(同前書)。
中でも、統帥権の独立をめぐる原の攻勢は注目に値する。原はシベリア撤兵を参謀本部に相談せずに決定し飲ませるなど、原内閣で始めた陸軍統制の慣行を法制化する考えであった。参謀本部縮小論についても田中義一陸相と合意していた。原が敬愛した伊藤ですらできなかった改革である。それは、82歳の山県が死去すれば、「それほど困難ではなかった」(同前書)。しかし、誰が予想したであろうか、原は山県より先に逝ってしまったのである。
■言論が暴力によって封殺される時代の始まり
小原雅博『外交とは何か』(中公新書)
1921年11月、原は東京駅で一人の男に襲われ、刺殺された。享年65。男は、安田善次郎(安田財閥創始者)の暗殺に刺激されたという「絶望気味」の18歳の青年であり、右翼活動家に唆(そそのか)された可能性があると指摘された(同前書)。その後、軍や右翼による威嚇や暗殺が原の描いた立憲国家への発展を脅かし、遂にはその息の根を止めることになる。原に続いて非業の死を遂げた政治指導者には、浜口雄幸首相、井上準之助前蔵相、犬養毅首相、斎藤実内大臣(前首相)、高橋是清蔵相らがいる(肩書は暗殺当時のもの)。言論が暴力によって封殺される時代が始まっていた。
原は外交官としての豊富な経験に基づく透徹した国際的見識と大与党の辣腕党首としての政治力を兼ね備えた稀有な外政家であった。国際情勢が激しく変動する時代に内政と外交を掌握し、外交と軍事を連動させ得る偉大な指導者を失ったことは、その後の日本の軌跡を振り返る時、誠に痛惜に堪えない。
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小原 雅博(こはら・まさひろ)
東京大学名誉教授
東京大学卒。1980年、外務省入省。2015年、東京大学大学院法学政治学研究科教授。21年より東京大学名誉教授。博士(国際関係学)。著書『国益と外交』(日本経済新聞社)、『東アジア共同体』(日本経済新聞社)、『日本の国益』(講談社現代新書)、『東大白熱ゼミ 国際政治の授業』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『コロナの衝撃』(ディスカヴァー携書、岡倉天心学術賞)、『大学4年間の国際政治学が10時間でざっと学べる』(KADOKAWA)、『戦争と平和の国際政治』(ちくま新書)、『日本走向何方』(中信出版社)、『日本的選択』(上海人民出版社)ほか。
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(東京大学名誉教授 小原 雅博)