アメリカではもう「メリークリスマス」と言ってはいけない…「ポリコレ」発祥の地で起きている社会分断

2025年3月4日(火)16時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/bee32

「八百屋」は×でも「八百屋さん」は○など、テレビでは多くの言葉を自主規制によって、言い換えもしくは禁止している。作家の下重暁子さんは「変えるべき言葉も確かにあるが、理解できない理由で規制を行っている例が散見される」という——。(第3回)

※本稿は、下重暁子『怖い日本語』(ワニブックス【PLUS】新書)の一部を再編集したものです。


写真=iStock.com/bee32
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/bee32

■メディアが過剰な「言葉狩り」を行うワケ


メディアの言葉が最近無神経すぎる、ということを書いたのですが、昔からある分野についてはたいへん神経質です。


まず、差別的な用語、そしてスポンサーの意向。差別的な用語の「言い換え」については、とにかく不用意に使用すると抗議活動が非常に激しいものになることもあって、「言葉狩り」と言われるほど過剰になることがあります。


「床屋」も「八百屋」も「肉屋」もメディアでは使いません。「屋」というのは侮蔑的な用語とされ、理容店、青果店、精肉店と言い換えなくてはならないことになっています。ただ「八百屋さん」といった言葉なら許される。


私生児は婚外子、孤児院は児童養護施設、裏日本は日本海側、ぎっちょは左利き、低開発国は発展途上国など、こうした「言い換え」は広い範囲で行われています。


納得できるものも中にはあるのですが、「片手落ち」という言い方は、手に障害がある人に失礼だということで「不公平」や「不用意」などに言い換えたり、「盲蛇におじず」ということわざを使わない、など必要性に疑問を感じるものもたくさんある。


もちろんこれは法律で決められているものではなく、ほとんどの場合がメディア側の「自主規制」です。メディアは多くの言葉を自主規制によって、言い換えたり、禁止してきたわけです。


不当な差別はあってはならないことですが、差別的とされた用語を言い換えたり、使用を禁止することばかりが差別意識をなくすことにつながるとは思いません。むしろ、本質から目を背けてしまう結果になることもあります。


私はつい最近までラジオ日本の番組審議委員をやっていましたが、最近は一時よりは少し余裕が出てきて、苛烈な言葉狩りのようなものは減りつつあるようです。


■「スチュワーデス」の差別的な語源


ただ「差別的」と判断して言い換えた言葉以外にも、「メディアの自主規制」は、どんどん増えています。それがいわゆる「ポリコレ」、ポリティカルコレクトネスに(政治的に正しいこと、政治的妥当性)にもとづく「言い換え」です。


これはアメリカが「発祥」で、「性、民族、宗教などによる差別や偏見、それにもとづく社会制度は是正すべき」とする考え方です。


日本でも「看護婦」「保母」を「看護師」「保育士」と言い換えましたが、理由はどちらも女性に限った職業でないからということで、このへんはあるていど納得できます。


ちなみに、「スチュワーデス」は男性名詞の「スチュワード」を女性形にしたものでしたが、それを「キャビンアテンダント」「フライトアテンダンド」などに言い換えたのは、性差をなくすことに加え、もともとの「スチュワード」の語源に、差別的な意味合いがあったためだそうです。(※語源はstigweardで「豚小屋の番人」を指していたとされる)


この言い換えはアメリカでももはや歯止めが効かないくらいになっているようで、挨拶冒頭の「ladies and gentleman」という呼びかけも、性の多様性に配慮して「Hello everyone」が多いそうです。


■アメリカでは「メリークリスマス」はタブー


アメリカではクリスマスに「メリークリスマス」と言う人も減ってきているといいます。


ではなんと言って祝うのか、クリスマスカードはどうするのかいうと、「ハッピーホリデーズ」が「正しい」のだそうです。「クリスマス」は「キリストのミサ」という意味ですから「メリークリスマス」はキリストの誕生を祝う言葉です。つまりキリスト教徒の挨拶だから、これを使うと、イスラム教徒、ユダヤ教徒、仏教徒は不快に感じるだろう、というわけです。


写真=iStock.com/Choreograph
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Choreograph

日本人は神社で七五三、学校はカトリック系、結婚式はプロテスタント系の教会、葬式は仏教と、まことに「おおらか」な宗教観なので、クリスマスだろうがハロウィンだろうが、なんの抵抗もなく「イベント」として受け入れてしまいます。


しかし、アメリカではもはや「メリークリスマス」すらタブーのひとつになってきているのだそうです。


ただ、アメリカの場合は、「異教徒への配慮」と言いながら、実のところは左翼勢力による「アメリカ社会のキリスト教色一掃」が主な目的の、「キャンペーン」のようなものです。


実際、アメリカに住むイスラム教徒などへのインタビューでも、「別にメリークリスマスと言われて不愉快になることはまったくない」「自分では使わないけれどクリスマスはイベントだから気にしない」という声が多いそうです。


■一言でわかるオバマとトランプの違い


民主党のオバマ元大統領夫妻はホワイトハウスのクリスマスデコレーションも宗教色を出さず、カードにも「ハッピーホリデーズ」を使ったそうですが、トランプ大統領は選挙戦の期間から「私はクリスマスが大好きだ。メリークリスマスの文字が見たい」と叫び、ツリーの点灯式では「アメリカ大統領として世界にメリークリスマスと言えてうれしい」と言った。


トランプ支持者の多くは、キリスト教福音派(プロテスタントの一宗派)という非常に敬虔なキリスト教徒たち、または伝統的アメリカを愛する保守層です。だから彼らは「左翼」の抗議などものともせずに「メリークリスマス!」と叫ぶトランプを熱狂的に支持したのです。


日本ではほとんどの国民が先ほど言ったとおり、宗教についてはおおらかすぎるくらいで、人種もアイヌ民族と琉球民族以外のほとんどが大和民族のため、アメリカ社会における「ポリコレ」の複雑さを感覚的に理解することはできません。


私もこうしたことは最近になってから『ポリコレの正体』(福田ますみ/方丈社)という本で知りました。


■「注意書き」を入れるだけの思考停止


さて日本のメディアの「自主規制」のほうを見てみると、アメリカとはまったく違う理由で、理解できないものが非常に多いと感じます。


アメリカの真似をしてはじまった規制もあるのでしょうが、たとえば、「これから津波の映像が流れます」という注意書き。


直後のことなら「配慮」も必要だったでしょう。なんとか情報を得ようとテレビを見ている被災者たちにとって、繰り返し流されるあまりにもショッキングな津波の映像を見るのはつらかったことでしょう。実際にそれによって体調が悪くなった人もいました。それは数年たっても同じことだったかもしれません。


けれど、その「配慮」は、震災から13年たっても変わらない。むしろ、本当に必要だったときよりも、過剰に自主規制されているかもしれません。津波の映像をむやみに流すことはないと思いますが、むしろあまり規制していると、あの災害が伝わらなくなる恐れもあります。


本当に必要があって流すのであれば、いつまでも「注意書き」を入れつづけなくてもいいのではないかと感じます。


「フラッシュの点滅にご注意ください」というテロップも、97年にポケモンのゲーム中に、画面で光の点滅シーンを見ていた子どもが気分が悪くなったという「事件」がきっかけです。しかし記者会見などの中継の前にまで必ず入れつづけなければならないようなものでしょうか。要するに視聴者のクレーム対策というだけのことです。


■「諸説あります」は卑怯


タレントが温泉につかるシーンでは「撮影のために特別にタオルを巻いております」、食べ残した食事には「残った食事はスタッフがおいしくいただきました」、店頭でレポーターが試食する場合は「特別に許可をいただいて店頭で試食しています」。そして歴史的にはっきりわからない話には「諸説あります」のテロップ。


「諸説あります」は、別に学術的な番組に限らず、「郷土料理の元祖」などでもよく使われますが、諸説あるなかでなぜこれを取り上げたか、ということはろくに説明もせず、とりあえず逃げるのはひきょうだと思いませんか。



下重暁子『怖い日本語』(ワニブックス【PLUS】新書)

「どこが『元祖』なのか、番組でも調べてみたけれどわかりませんでした」と言ったうえで、「この番組では現在地元で一番有名なこの店を取り上げた」とすればいいのでしょうが、それは全部省略して「※諸説あります」と書いておけばいいだろう、という姿勢は、バラエティであってもやはり無責任だと思います。


災害時の「安全な場所から中継しています」も、言わずもがなです。たしかに、とんでもないところにクレームをつける人というのは昔も今もいるもので、対応する人はたいへんだと思います。


最近のほうがネットがあるぶん神経質にならざるを得ないことも、まあわかりますし、実際「うちが元祖だ!」と大々的に抗議活動をはじめる人もいる「かも」しれませんが。


それがめんどうくさいのなら、そもそも取り上げなければいい。「テロップさえ入れておけばやりたい放題」とさえ感じられます。


----------
下重 暁子(しもじゅう・あきこ)
作家
1959年、早稲田大学教育学部国語国文科卒業。同年NHKに入局。アナウンサーとして活躍後、1968年にフリーとなる。民放キャスターを経て、文筆活動に入る。公益財団法人JKA(旧:日本自転車振興会)会長、日本ペンクラブ副会長などを歴任。現在、日本旅行作家協会会長。『家族という病』、『極上の孤独』(ともに幻冬舎新書)、『鋼の女 最後の瞽女・小林ハル』(集英社文庫)、『人間の品性』(新潮社)、『孤独を抱きしめて 下重暁子の言葉』(宝島社)、『ひとりになったら、ひとりにふさわしく 私の清少納言考』(草思社)など著書多数。
----------


(作家 下重 暁子)

プレジデント社

「アメリカ」をもっと詳しく

「アメリカ」のニュース

「アメリカ」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ