悠仁さまの結婚相手探しはちっとも早すぎない…「難婚事情」をさばけるのは結局この人物しかいない
2025年3月8日(土)9時15分 プレジデント社
成年に当たり、初めて記者会見をされる秋篠宮家の長男悠仁さま=2025年3月3日午後、東京・赤坂御用地内の赤坂東邸 - 写真=時事通信フォト
■成年式の日取りが決まった悠仁親王
3月3日、成年を迎えた悠仁親王がはじめての記者会見を行った。
皇室では、男性皇族が成年を迎えた場合、「成年式」を行うことが慣例になっており、その日取りも、悠仁親王の誕生日にあたる9月6日に行われることが決まった。
これまでの伝統では、多くの場合、成年式は成年を迎えた日に行われてきた。その点で、本来なら昨年の9月6日に成年式が行われるはずだった。ところが、成人の年齢が20歳から18歳に引き下げられたことで、悠仁親王は高校3年生でそれを迎えることになった。学業のこともあり、成年式は一年遅れることとなった。
最後にこの成年式を経験したのは、悠仁親王の父親である秋篠宮文仁親王である。そのときは20歳での成年式となり、その前には、宮中での各種の儀式の予行演習となる「習礼」に臨み、今回のように記者会見が行われた。成年式当日には、宮中三殿を謁(えっ)する儀や天皇などに拝謁(はいえつ)する朝見(ちょうけん)の儀などが行われた。悠仁親王も習礼に臨み、各種の儀式をこなしていくことになるはずだ。
■はじめての記者会見で「緊張しております」
記者会見において、悠仁親王は、記者からの「緊張されていますか」との問い掛けに、「緊張しております」と素直に答えている。自身の性格について述べたところでも、「さまざまな場面で緊張してしまうところがあるように思います」とも語っていた。
写真=時事通信フォト
成年に当たり、初めて記者会見をされる秋篠宮家の長男悠仁さま=2025年3月3日午後、東京・赤坂御用地内の赤坂東邸 - 写真=時事通信フォト
初めての記者会見であり、緊張するのも当然だが、皇族特有のゆったりとしておおらかな話し方で、成年皇族としての抱負についても、しっかりと自分の考えを述べていた。「なるほど悠仁親王というのはこうした青年なのか」。そこに好ましい、そして頼もしいという印象を受けた国民も少なくなかったのではないだろうか。
皇位の継承が見込まれる男性皇族の場合、留学することが慣例にもなってきたが、その点についても意欲的なところを示した。
さらに、結婚についても尋ねられているが、それには「理想の時期や相手について、まだ深く考えたことはありません」と正直に答えていた。18歳としては当然の答えだろう。
こうした質問は早すぎるという声も上がったが、これから行われる記者会見で、この点についてくり返し聞かれることになるに違いない。国民としては、将来において天皇に即位するであろう親王がどういった女性と結婚するのか、大いに気になるところだからである。
■皇族の結婚についての興味深い小説
ただ、皇族の結婚ということになると、それはなかなかに難しい問題である。悠仁親王の姉である眞子内親王の場合などは、婚約が内定したものの、それが延期され、最後は納采(のうさい)の儀など、内親王なら行うはずの一連の儀式を経ず、一時金の受け取りも拒否して結婚し、アメリカへ旅立ってしまった。
そうしたなか、皇族の結婚を考える上で興味深い小説が刊行された。現在では日本大学で理事長の職にある林真理子氏の『皇后は闘うことにした』(文藝春秋)である。
林氏には、すでに『李王家の縁談』(文春文庫)という本がある。こちらは、肥前佐賀藩の鍋島家から旧皇族の梨本家に嫁いだ梨本伊都子(いつこ)が、娘たちの縁談に奔走する物語である。娘の一人、方子(まさこ)は朝鮮王朝の李王(りおう)家に嫁ぎ、そこから波乱の生涯を歩んでいる。
李王妃方子女王(写真=東洋文化協会編『皇室皇族聖鑑 昭和篇』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
『李王家の縁談』は長編小説だが、今回の『皇后は闘うことにした』は短編小説集である。皇族の縁談をテーマとしているところで二つの本は共通しており、林氏の関心がその点にむけられていることがわかる。
■皇族の結婚騒動「綸言汗の如し」
小説としては珍しいが、巻末にはかなりの数の参考文献が挙げられている。著者としてはあくまで史実に基づいていることを強調しているのであろう。ただ、それぞれの皇族の内面の描写になれば、それは小説家の創作によるものである。
『皇后は闘うことにした』の最初におさめられた「綸言(りんげん)汗の如し」は、旧皇族の久邇宮朝融王(くにのみやあさあきらおう)の物語である。妹の良子(ながこ)は昭和天皇と結婚することになる。本人は最初、旧姫路藩藩主であった酒井家の菊子を見初める。
婚約にまでこぎつけるのだが、朝融王は途中で菊子のことを嫌いになってしまい、それを破談にしようとする。ところが、皇族の婚約であるだけに、すでに勅許(ちょっきょ)を得ており、これは大騒動になった。
「綸言汗の如し」では、その顚末(てんまつ)が語られ、朝融王は破談後、旧皇族の源流となった伏見宮家の知子女王と結婚する。しかし、朝融王は妻のいないすきに侍女と関係を持ち、子どもまでもうけてしまう。要は女にだらしがなかったのだ。「綸言汗の如し」ではふれられていないが、朝融王には多くのご落胤(らくいん)がいたらしい。
■皇族に嫁いだ毅然たる女性たちの奔走
林氏の小説であるだけに、そこに登場する男たちは、概してふがいない人物に描かれている。
それに対して、皇室に嫁いできた側になる女性たちのほうは、毅然(きぜん)とした人物として描かれている。しかも、『李王家の縁談』の梨本伊都子がそうであったように、子どもたちの縁談をまとめようと奔走するのである。
『皇后は闘うことにした』の最後におさめられた「母より」は、昭和天皇の弟である秩父宮雍仁(やすひと)親王に、旧会津藩主松平家から嫁いだ勢津子(せつこ)妃の物語である。本名は節子だったが、これは姑にあたる貞明皇太后(大正天皇の后)が節子だったことから改名している。
1928年9月28日、秩父宮雍仁親王と旧会津藩主・松平容保の孫にあたる松平勢津子さまが御成婚(写真=宮内庁/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
勢津子妃の父である松平恒雄(つねお)は、藩主の嫡男ではあったものの、爵位を弟に譲っていたため、ただの平民であった。この時代、平民の娘が皇族に嫁ぐわけにはいかなかった。旧皇室典範では、「皇族ノ婚嫁ハ同族又ハ勅旨ニ由リ特ニ認許セラレタル華族ニ限ル」(第三十九条)とされていた。そこで、いったんは子爵であった叔父の松平保男(もりお)の養女となり、華族となることで結婚にこぎつけている。
■「どうしても妃にしたい」を叶える貞明皇太后
そうした境遇の勢津子妃に目をつけたのは貞明皇太后だった。当時、恒雄はアメリカ大使を務めており、ワシントンにいた。そこに、皇太后の名代として樺山愛輔(あいすけ)伯爵がやってきて、勢津子を秩父宮の妃にしたいという意向が示された。
当然、松平家ではそれを断る。平民の娘が直宮の妃になどなれないというわけだ。それで樺山伯爵は日本に戻るのだが、皇太后は伯爵を強く叱責した。どうしても勢津子を妃にしたいというのだ。
そこで樺山伯爵はふたたびワシントンに舞い戻り、「また断られたら、私はもう日本に帰ることができない。帰りの船から身を投げるつもりだ」とまで言い出す。これでは、松平家の側もさすがに断れなかった。
まだ17歳だった勢津子妃は毎日嫌だと泣きじゃくっていた。けれども、日本から養育係としてついてきた女性から「お嬢さま、会津魂をお持ちください」と説得され、最後には決心をかためる。維新後の会津藩は朝敵として苦しい目に遭ってきたからだ。
■皇族としての心得を徹底して教える「母」
この物語を読んで思い起こされるのが、三笠宮百合子妃のことである。三笠宮家の彬子女王が刊行委員長を務めた『三笠宮崇仁親王』(吉川弘文館)におさめられた百合子妃に対する聞き書きでは、彼女が三笠宮と結婚するまでの経緯が語られていた。
百合子妃の場合には、父は高木正得(まさなり)子爵ではあったものの、やはり18歳と若い時点で貞明皇太后に見込まれ、唐突に結婚の話を持ち込まれている。百合子妃も、「とても、務まりません」と断るのだが、皇太后は「それは、分かっている」と許してくれなかった。
秩父宮と三笠宮兄弟の結婚に対して、貞明皇太后は実に積極的に関わったわけだ。勢津子妃について、「母より」では、貞明皇太后は早い時期から目をつけていたとされる。恒雄がロンドンに赴任する際に、母に連れられ、大振袖を着て妹とともに皇太后に拝謁した際、皇太后はそれを喜び、勢津子妃の母に対して娘たちの髪については、「黒く長いままにさせるように」と告げていた。
それも、成婚の日、皇族の女性は十二単衣を身にまとい、髪を後ろに長く伸ばす「おすべらかし」にするからだ。イギリスから帰国後、皇太后は勢津子妃に「明日から全てを私が教えるから」と言い、皇族としての心得を徹底して教え込んでいった。
貞明皇后の公式肖像(写真=日本電報通信社『御大禮記念寫眞帖』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
■自らプロポーズして結婚した天皇陛下
『皇后は闘うことにした』が、さまざまな史料を基に描かれている以上、貞明皇太后が息子たちの縁談をまとめることに奔走し、ふさわしい相手をかなり早い段階から探していたことは事実であろう。
それは、皇室に限らないことで、見合い結婚が大半を占めていた時代、つつがなく後継者を確保しておくことが必須の家では、誰かが縁談をまとめることに積極的に関わっていた。
現在の上皇の結婚の場合にも、次々と候補者の名が挙がり、宮内庁が折衝にあたったものの、断られ続けた。現在の天皇になると、結婚したのは33歳のときで、弟の秋篠宮のほうが先に結婚している。
先日、愛子内親王が接待役としてデビューした鴨場(かもば)で、天皇は雅子妃にプロポーズしたとされる。自らプロポーズして結婚した天皇は、歴代でもはじめてのことだったのではないだろうか。
■極めて重要になる紀子妃の役割
悠仁親王も、近い将来において自らプロポーズして結婚に至るのだろうか。今は18歳でも、すぐに結婚にふさわしい年齢になる。現在の状勢では、簡単には結婚相手は現れないかもしれない。
そうなると、誰かがお膳立てをする必要があるだろう。その適任者は母親である秋篠宮紀子妃をおいてほかにはない。
2016年、日伊国交樹立150周年に際し、ローマ訪問時に大統領府歓迎式典に臨席された秋篠宮ご夫妻(写真は部分)(写真=イタリア共和国大統領府/Wikimedia Commons)
貞明皇太后が、秩父宮や三笠宮の結婚相手を探すことに力を注いだのは、長男である昭和天皇の結婚に苦労したからだ。妃に内定した久邇宮家の良子女王の家系に色覚異常の遺伝があるとし、危うく破談になりそうになった。これは「宮中某重大事件」として騒動になった。
紀子妃の場合も、眞子元内親王の結婚では相当に苦労したはずだ。そうした経験を二度としないため、悠仁親王の結婚相手を探すことに注力する必要があるのではないだろうか。その前には佳子内親王の相手選びもある。紀子妃の役割が、これから極めて重要なものになってくるのである。
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島田 裕巳(しまだ・ひろみ)
宗教学者、作家
放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、『教養としての世界宗教史』(宝島社)、『宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)、『新宗教 戦後政争史』(朝日新書)など著書多数。
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(宗教学者、作家 島田 裕巳)