悲劇の妻では終わらない…「ナワリヌイ夫人」として生きてきたユリアは大統領選でプーチンに反撃できるか

2024年3月13日(水)11時16分 プレジデント社

欧州議会で演説するユリアさん。フランス、2024年2月27日 - 写真=EPA/時事通信フォト

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2月にロシアの反体制派アレクセイ・ナワリヌイ氏が獄死し、妻のユリアさんは3月17日開票の大統領選で反プーチン運動を呼びかけている。ユリアさんについての報道を調べた今井佐緒里さんは「主婦だったユリアさんは4年前にナワリヌイ氏が毒殺されかけたとき、メルケル首相に助けを求めてドイツに夫を運び、命を救った。それ以来、彼女は欧米でも有名になり『強い女性』というイメージで知られるようになった」という——。
写真=EPA/時事通信フォト
欧州議会で演説するユリアさん。フランス、2024年2月27日 - 写真=EPA/時事通信フォト

■2020年に夫が毒殺されかけ、ユリアはプーチンに手紙を書いた


2020年8月20日、シベリアのトムスク発モスクワ行きの飛行機の中で、夫アレクセイは突然苦しみだした。
 このときの様子は携帯で撮影された。彼が苦しみ叫ぶ声が、ドキュメンタリー映画『ナワリヌイ』の中でも生々しく登場している。
 ちなみにカナダ人ダニエル・ロアー監督のこの作品は、第95回アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞した


ユリアのツイッター(現X)やインスタグラム(現在ロシアでは禁止されている)での発信は、欧米のメディアでよく引用された。
特にツイッターに投稿した、プーチン大統領へ宛てた手紙は大きな話題になった。


「私は、アレクセイ・アナトリエヴィチ・ナワリヌイにはドイツ連邦共和国における適切な医療が必要であると信じています。8月21日正午から、トップレベルの監督の下、アレクセイをただちに搬送するあらゆる機会が与えられました」と書き、ドイツからの医師が到着して、搬送準備が整ったことを簡潔に指摘している。そして夫をドイツに移送する許可を求める形で「あなた(プーチン大統領のこと)に正式に訴えます」と発信したのだ。夫が倒れた翌日、21日のことだった。


同じ日に、記者会見が開かれた。政権側のペスコフ報道官は、この事件に対し、搬送するか否かは医者の判断である、ナワリヌイ氏の病気は調査中である、という主張を繰り返した。そしてナワリヌイ氏の代理人から訴えは受け取っていない、SNS上にメッセージがあっただけと述べた。


この頃はまだ、ロシアには言論の自由がなんとか機能していたのだ。独立系メディア『メドゥーザ』等だけではなく、ロシアの有力経済新聞『コメルサント』も、中立的な表現ではあるがこの事件を報道していたし、米CNNなどの外国のメディアも、ペスコフ報道官に質問ができる状況だった。


■ロシアの医師団が毒殺計画を隠蔽しようとするのを痛烈に批判


ユリアは、ロシアの医師団が、化学物質の検出を防ぐためにナワリヌイ氏の移送を遅らせたとの見方を示した。


ナワリヌイ氏の側近ボルコフ氏は、移送に協力的だった医者たちが、突然協力するのを拒みだしたと述べた。「まるで治療モードがオフになって、隠蔽(いんぺい)工作モードがオンになった感じだった。妻にさえ情報を提供するのを拒否した」。


ロシアの医師レオニード・ロシャロ氏は、アレクセイの症状の原因を解明するために、ドイツとロシアの共同の専門家グループを設立するよう提案した。しかし、ユリアはインスタグラムに書いた。「私の夫はあなたの所有物ではありません」。


そして、ドイツとは異なる、ロシアの医療の体質を批判した。「ロシアの病院に患者が入院すると、突然、地元行政がその患者を自分たちの所有物だとみなしていることが判明します」「そして同時に、親族を欺き、患者に会わせず、自分たち独自の裁量で規則を発明し、文字通り病院をロシアの刑務所の類似物に変えるのです」。


さらに、近年のロシャロ医師の公の活動は、彼を信頼する理由にはならないと指摘した。「あなたは医師としてではなく、国家の代弁者として行動して」いると批判した。「特にそのような立派な年齢で、自分の魂に罪を負わせないでください」と結んだのである。


■ナワリヌイ夫妻に助け船を出したドイツ首相メルケルの元へ


高名な医師に向かって、信頼できない、国家親衛隊のトップに向かって、卑怯者。彼女の政治的な言葉は少ないが、非常に断定的で人々の心に残るものだった。


そして、ユリアはナワリヌイ氏と共にベルリンへと旅立つことに成功し、22日に到着した。この8月は奇(く)しくも、二人の結婚20周年だった。ユリアは昏睡状態に陥ったアレクセイの隣で祝った。


アレクセイは、ベルリンのシャリテ病院で一命を取り留めた。


検査によって、使われた毒物はノビチョクと判明した。1970〜80年代にソ連で開発された化学兵器としての神経剤。ノビチョクは夫の下着に付着していたと、ドキュメンタリー映画の中で明かされている。9月、メルケル首相は記者会見を開き、「ロシア政府しか答えられず、同政府が答えなくてはならない深刻な疑問」が持ち上がったと述べた。そして、北大西洋条約機構(NATO)、欧州連合(EU)の加盟国と連携して、ロシアの対応を見ながら、一致して適切な対応を求めてゆくと述べた。


■最悪の事態を乗り越えたユリアに「強い女性」というイメージが


昏睡状態から回復した後、アレクセイは「ユリア、あなたは私を救ってくれた」と、妻への愛の告白のような長いメッセージ書いた。ユリアの類まれな復活力を持つ強い女性のイメージは、この言葉によってさらに強化された。そしてユリアに新たな人気の波をもたらしたと、女性のスタイルマガジン『Woman.ru』は評している。


しかし、彼女が強くなったとしたら、最悪を覚悟したからだ。ユリアはインタビュービデオで、「この物語の後、私は『死』と『死ぬ』という言葉を言えるようになりました」と述べた。彼女はこの言葉が嫌いで、家族がそのような言葉を使うと、ひどく悪い言葉で反応していた。しかし「彼はおそらく死ぬだろうとわかり、どういうわけかこの言葉を使うのが簡単になりました」と語った。


回復後、ナワリヌイ氏は何度か妻と一緒にインタビューに応じている。その中で、彼女は一度だけ悲劇的な展開で泣いたことがあると認めた。夫が拘束され、娘の卒業式に出席できなかったときだったという。


夫の回復期、二人は、ドイツでほんの束の間の穏やかな日々を過ごすことができた。


■政治的発言をするユリアに対してバッシングが始まる


ユリアに対する注目が集まれば、バッシングも始まる。


彼女の父親ボリス・ボリソビッチ・アブロシモフが「KGB(ソ連の諜報機関)職員」であると発言した人がいる。ナワリヌイ夫妻は否定している。


これはロシアのテレビNTVで、同局のオレグ・カシンという人の調査によるものだという。この人物によると、ユリアは複雑な英国の家庭の出身で、継父は亡くなったが、実父は生きているという。


「(ユリアの)実父はロンドンに住んでおり、KGBまたはGRU(ソ連とロシアの軍の情報機関)の将軍です。そして今、彼はいくつかのファンドを運営しています。おお、おお。この家族には本当に隠しごとがある!」


 しかし、夫アレクセイは、完全なウソであると主張した。妻の実父の死亡証明書まで公開した。そして、この御用ジャーナリストが言うことで事実なのは、何度も誕生日に招待されたが、行きたくなかったし、断る口実をつくって行かなかったことだけだ、という。そして実在の人物を、ユリアの親のようにでっちあげていると主張した。


 ユリア自身もこの情報を否定した。彼女はインタビューで、研究所職員と軽工業省職員の家庭で育った、と語った。小学5年生の時に両親が離婚し、18歳の時に実父が亡くなったことを知ったという。


■2021年夫はロシアに帰ることを選び、当局に拘束された


そのまま二人は、ドイツに暮らすこともできただろう。ドイツ政府は、ナワリヌイ家の人が亡命申請をするなら、すぐさま受け入れたに違いない。しかし、二人は祖国に帰っていった。


2021年1月、夫は空港で拘束された。ベルリン発モスクワ行きのポベダ航空便は、当初ヴヌーコヴォ空港に到着する予定だったが、ナワリヌイ氏の到着前に到着便の受け入れが禁止された。そして便は、ロシア最大のシェレメチェボ空港に到着した。


ユリアはナワリヌイ氏を迎えに殺到していた支持者に感謝の気持ちを述べた。


「お越しいただいた皆様、本当にありがとうございました。彼らはアレクセイを恐れるあまり、今夜モスクワのほぼすべての飛行機を麻痺させました」「そして最も重要なのは、アレクセイが『恐れていない』と言ったことです。そして私も恐れていません。そして、皆さんも恐れないでください。皆様のご支援に心より感謝申し上げます」と、パスポート審査での逮捕前に短い演説を行ったナワリヌイ氏の言葉を引用して述べた。そして、動揺を極力見せようとせずに言い終えるや否や、車に乗って去っていった。
 拘束直前、二人は抱き合った。これが最後の抱擁だったのだろうか。


■「ナワリヌイ氏の妻」として生きてきたユリアが政治家に?


拘束の名目は、民事裁判のはずだったイヴ・ロシェ社の横領事件における執行猶予違反と、シャリテ病院退院後の管理逃れを挙げている。この事件は、ナワリヌイ氏が、逮捕は政治的動機によるものだとして、欧州人権裁判所に訴えたケースである。



アレクセイの逮捕後も、家族への監視は続いた。
「彼らは私を人民の敵の妻のように尾行しています」とユリアはインスタグラムに投稿した。家族のアパートの外にいる標識のないパトカーの写真をつけて。「1937年が到来したのに、私たちは気づかなかったのです」。それはスターリンの大粛清の時を意味する。


二人が最後に会ったのは2022年2月。ロシアによるウクライナ侵攻が始まった月だった。ユリアが最後に行ったのは3月だという。しかし夫は厳しい管理下におかれ、もう面会ができなくなってしまっていた。

アレクセイの死亡の連絡は、それから約2年後のことだった。
 


ユリアの物語は続く。
ユリアは本当に夫の代わりに立ち上がる事ができるだろうか。



■「ファーストレディ」の条件をクリアしていると賛美された


確かに彼女は頭が良く、強く、正義感も強い。
彼女の呼び名は「野党の大統領夫人」「デカブリスト(註1)の妻」。
今までユリアを称える賛辞はファーストレディとしてのものだったし、彼女自身も「ナワリヌイ氏の妻」として生きてきた。


「ユリア・ナワルナヤは、真の『ファーストレディ』の条件をとっくの昔にクリアしている」。故ゴルバチョフ元大統領が援助して創設されたロシアの独立系新聞『ノーバヤ・ガゼータ』は、「彼女は、本物のファーストレディのように、これらの敵に対して、生意気で無礼ではなく、冷血な威厳をもって話す方法を知っています」とユリアを賛美する。


「ナワリヌイ氏は、ユリアさんの人生における並外れた役割を決して否定しない。彼は妻を隠すことなく、誇示することなく公然と愛を告白し、彼女の写真をインスタグラムに投稿し、彼女を崇拝し、守り、人生で自分を救うのは彼女であるという事実を隠さない。男性は自分のことと自分のビジネスのことだけを話すべきで、妻のことについて話すべきではないと信じている幼稚な男性の時代に(うぬぼれとプライドがそれを許さないのです、ご存知のとおり)、これはまれな資質です。政治家にとってこれは、二重に珍しい資質です」と。


そして、「ロシアの政治はソ連時代から、なぜか『二列目』に恵まれていない」というのである。「奇跡が起きたのは、これまでゴルバチョフ家とナワリヌイ家の2回だけです」。


(註1)1825年にロシアで皇帝専制と農奴制の廃止を目指して、貴族の青年将校たち「デカブリスト」が武装蜂起したが、あえなく失敗してシベリアに送られた。貴族の妻二人が、夫と運命を共にするためにシベリアに向かったという史実をもとにした、詩人ネクラーソフの作品名。


■女性が政治のトップに立つ欧州でユリアも躍進するか


今までは、夫の危機の時だけ前面に出て、夫を支える強く賢い妻だったからこそ、ユリアは称賛されてきた。貞淑で、ひたすら夫のためを思う「デカブリストの妻」だったから、男性の一定の支持も得られた。今後は、夫の遺志を継ぐのなら、第一線に立つ「生意気な女」にならなければいけない。ロシア人はそんな彼女を受け入れるだろうか。


ユリアがEUの舞台や西欧にいると、このロシアの遅れは一層浮き彫りになるように見える。夫妻を救ったメルケル首相は、女性である。EUの内閣にあたる欧州委員会の委員長は女性のフォン・デア・ライエン氏である。アメリカにはまだ一度も、女性のトップは登場していないが、EU加盟国では女性の首脳は全く珍しくない。


2月27日、ユリアは欧州議会の演説で、スタンディングオベーションを受けた。そのEU議員の4割は女性である。


女性は男性の後ろにいるべきという「常識」は、消え果てているEU内の世界。ユリアへの同情と反体制派への支援の気持ちは本物だとしても、「夫の代わりの妻」への関心はどれだけ続くのだろうか。もし彼女が西欧に生まれていたら、彼女自身が政治家やNGOの重要な人物になったかもしれない。


しかし彼女はロシアで生まれ育った。そしていまや伴侶もなく、子どもたちの安全に不安を抱えながら、亡命者として生きていかなければならない。



ナワリヌイ氏のInstagramより

■3月17日の大統領選でプーチン再選阻止を呼びかける


亡命者が政治家に立候補することはできないのだから、夫が創設した「汚職防止財団」の活動を続ける以外に、夫の遺志をつなげてゆく方法はないかもしれない。汚職告発の窓口となり、協力者たちを束ね、汚職告発のシンボルとなる難しい仕事になるのではないか。


ユリアは、3月6日、動画を投稿し、ロシア大統領選の最終日となる17日に「反プーチン行動」への参加を呼びかけた。プーチンの再選が確実視される大統領選について、「完全な作り話でウソです。プーチンは好きなように結果を描けます」と批判。


「アレクセイが教えてくれたように、選挙を通じて私たちの存在を示す必要があります」「17日正午に投票所に来て、プーチン以外の候補者に投票するか、ナワリヌイと書いてもいい。これはとても簡単で安全な行動です」と訴えた。


ユリアの服装は、今までには見たことがないような、真っ赤な服に真っ赤なマニキュア姿だった。彼女は今まで、かなり抑制された装いをしてきたのに。


国外から祖国ロシアに呼びかけるユリアは、今後どのような変貌を遂げるのだろうか。それとも人々の記憶から薄れてしまうのだろうか。彼女の選択と運命を見守り続けたい。


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今井 佐緒里(いまい・さおり)
ジャーナリスト・欧州とEUの研究者
フランス・パリ在住。EU、国際社会や地政学、文化、各国社会等をテーマに執筆。ソルボンヌ(Paris 3)大学院国際関係・欧州研究学院修士号取得。駐日EU代表部公式ウェブマガジン「EU MAG」執筆。前大使のインタビュー記事も担当(〜18年)。編著『ニッポンの評判 世界17カ国レポート』(新潮新書)、欧州の章編著『世界で広がる脱原発』(宝島社)ほか。Association de Presse France-Japon会員。フランスの某省関連で働く。出版社の編集者出身。早大卒。
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(ジャーナリスト・欧州とEUの研究者 今井 佐緒里)

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