世界史上における最大の木造建築「江戸城天守」は再建できないのか…そのとき避けては通れない超難問

2024年3月17日(日)14時15分 プレジデント社

国立歴史民俗博物館所蔵「江戸図屏風」 部分(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

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江戸城の天守は1657年に焼失して以降、再建されていない。歴史評論家の香原斗志さんは「天守の再建は非常に意義がある。だが、今日まで残されている天守台の上には、天守が建ったことがない。名古屋城と違って実現は難しい」という——。
国立歴史民俗博物館所蔵「江戸図屏風」 部分(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

■江戸城天守閣の木造復元はアリなのか


東京を訪れた外国人から、日本の歴史や伝統を感じられるスポットはどこかと聞かれたとき、私は江戸城の訪問を推薦することが多い。


江戸城は日本最大の城であるのはもちろん、その規模が桁外れだ。現在も、諸大名を動員して築かれた広壮な石垣や堀が見られるうえ、ほかの城とはスケールが異なる櫓や門が残っている。外国人も説明を受けたうえで訪問したあとは、大抵びっくりする。


だが、江戸城がそんなに立派だとは、日本人でさえあまり知らない。立派云々以前に、「東京に城があるんですか?」と真顔で聞かれることも珍しくない。ましてや外国人は、その価値に気づくのが難しいようだ。


そんなとき、もし天守があれば、と夢想する。天守がそびえていれば、城があることは一目瞭然だ。そして、天守がランドマークとして周囲を照らし、旧江戸城に残る歴史遺産全体が脚光を浴びるようになるのではないだろうか。


そうしたら昨年11月、菅義偉前総理がテレビ番組でインバウンド政策に関する話をしながら、「江戸城を活用しないのはもったいない」と、天守の復元について言及したのだ。私はある意味、渡りに船だと感じたが、同時に、その難しさも痛感した。だから、「渡りに船」ではあっても、「ある意味」にすぎないのである。


■史上最大の木造建築のひとつ


まずは、江戸城天守について確認したうえで話を進めたい。


江戸城には5重5階の天守が計3回、建てられた。最初は慶長12年(1607)に徳川家康が建てており、屋根に鉛瓦が葺かれた真っ白な天守だった。だが、本丸を拡張するのに邪魔になったため、2代将軍秀忠は元和8年(1622)、これを解体してあらたに造営した。


その15年後にも、今度は3代将軍家光が秀忠の天守を解体し、用材を再利用して、ほぼ同じ規模の天守を建て直した。


「江戸図屏風」に描かれた家光時代の天守(画像=国立歴史民俗博物館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

高さ7間(14メートル弱)の石垣(天守台)上に建てられたこの天守は、木造部分の高さが44.8メートルと史上最高で、現存天守で一番高い姫路城天守の32メートルをはるかに上回り、世界史上における最大の木造建築のひとつだった。


外観は黒い壁面が特徴だった。耐火性能を高めるために、黒い塗料が塗られた高価な銅板が貼られ、屋根も銅瓦葺だった。最上階の屋根には金の鯱が輝き、破風(屋根の妻側の造形)は黄金の金具で装飾されていた。


城郭建築の権威である広島大学名誉教授の三浦正幸氏は、「その造形の洗練された美しさで他城の天守を寄せ付けず、天守建築の最大かつ最高傑作であり、さらには世界に誇る日本の伝統的木造建築技術の最高到達点であった」と記している(『図説 近世城郭の作事 天守編』原書房)。


だが、このモニュメンタルな天守は、江戸の町の6割を焼き尽くした明暦3年(1657)の大火で全焼すると、再建されなかったのである。


■再建に横たわる難問


それでは、江戸城天守の復元にはどんな困難が伴うのか。


500億円ともいわれる復元費用をどうやって賄うか、という問題があるが、私は復元されれば、首都のど真ん中であるだけにインバウンドもふくめた経済効果が大きく、もとはすぐにとれると考える。


また、復元の対象となる家光の天守は、370年近くも前に焼失していながら、外観をかなり正確に再現できる。「江府御天守図百分之一」「江戸城御本丸天守建方之図」「江戸城御本丸御天守外面之図」(いずれも甲良家文書)などが残っているためで、すでに前出の三浦氏が、復元の手順を検討した報告書も作成している。


一方、課題も多い。本丸跡がある東御苑は、一般公開されてはいても皇居の一部であり、天守を復元するとなると、法改正等の手続きが必要になるはずだ。また、皇居を睥睨する建築が皇居内にできることに、抵抗する声も上がるだろう(すでに皇居の周囲には高層ビルが多く建っており、ナンセンスな意見だと思うが)。


だが、それ以上の問題は、今日まで残されている天守台の石垣上には、天守が建ったことがないという歴史的な事実である。


■どうしても史実と違う城になる


天守の消失後、天守台も焼けただれたため、幕府は加賀(石川県)藩主の前田綱紀に命じて、あらたに築き直させた。むろん、天守を再建する予定だったからだが、時の将軍、4代家綱の叔父の保科正之が、天守はたんに遠方を眺めるためのもので、いまは町の復興を優先すべきだと主張。これが受け入れられ、再建は中止された。


つまり、現存する天守台は、再建される天守が載っていたものではないのだ。当時、木造部分はほぼ同規模で再建する計画だったから、この天守台上に建てることもできるが、石垣の高さが違う。現存するものは高さ約12メートルと、家光時代より2メートルも低いのである。


現在見ることができる江戸城天守台(写真=CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

現存する天守台上への復元自体は可能なはずだが、それでは高さが史実と異なってしまう。だからといって、2メートル分の石を積み増せば、歴史遺産の改変になってしまう。


保科正之が再建に反対したのだから、天守がない江戸城こそが江戸城だ、という主張もあるが、それは違う。予算の関係で天守の再建が後回しにされたにすぎず、幕府は資金さえあれば再建したかったのだ。


しかし、石垣の問題は、史実優先という観点から考えると容易にはクリアできない。私はいまのところ回答を見つけられない。


■なぜ名古屋城は完全復元できるのか


一方、昭和34年(1959)に鉄筋コンクリート造で外観復元された天守の老朽化を機に、しばらく前から木造復元が具体的に検討されている名古屋城天守には、江戸城のような問題はない。


名古屋城天守の価値を確認してほしい。


名古屋城の天守と本丸御殿(写真=名古屋太郎/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

慶長17年(1612)12月に完成し、昭和20年(1945)5月14日の名古屋大空襲で焼失したこの天守も、「天守建築の最大かつ最高傑作」という点で江戸城に劣らなかった。木造部分の高さは36.1メートルと、豊臣秀吉の大坂城天守より一回り以上大きく、4424平方メートルの延べ床面積は、のちの家光の江戸城をも上回って史上最大だった。


五重塔のように下階から上階に向けて床面積が規則的に逓減する層塔型は、その当時、最新の様式で、厚さ約30センチの壁の内側には、厚さ12センチのケヤキやカシの横板が埋め込まれ、史上最高の防弾性能を誇った。使われた木材は、丈夫で耐久性が高いが非常に高価な木曽ヒノキがほとんどで、その点でも史上もっとも豪華な天守だった。


この天守は建っていた天守台が残っており、江戸城のような問題はない。その石垣が劣化し、はらむなどしているという問題はあるが、修復作業が進行中だ。また、焼失前の天守については細部まで記録されており、史上最高レベルの精密な復元が可能なのである。


■実測図と写真がふんだんに残る


昭和5年(1930)、名古屋城の大小天守をふくむ24棟の建造物が国宝に指定されると、名古屋市土木部建築課はそれらの調査に着手し、文部省の指導にしたがって細部まで詳細に計測した。


その図面の整理作業中に、天守をはじめ20棟が焼夷(しょうい)弾を落とされて焼失したのだが、整理作業自体は戦後も続けられ、昭和27年(1952)、282枚の清書図と27枚の拓本が完成した。さらに、昭和15年(1940)からは24棟の写真撮影が行われ、733枚のガラス乾板に収められた。


天守建築の最高傑作の一つで、日本が誇る木造建築の到達点でもあった名古屋城天守。その実測図と写真がふんだんにそろい、細部まで忠実に復元できるのである。


戦後の再建に際しては、市街地が焼け野原になった記憶がまだ生々しい時期だっただけに、耐火性能が高い鉄筋コンクリート造が選ばれたのも仕方ない。しかし、この日本が誇るべき木造建築の粋を精密に復元できるなら、それを実現させない手はないと思う。


■歴史的空間を後世まで正しく理解するために


「焼けてしまったものを復元しても、本物ではないのだから」という意見を耳にすることがある。しかし、名古屋城天守の場合は、わからない部分は推定で補う、という一般にありがちな作業が要らない。失われたものと同じ姿を再現できる。


たしかに、それは焼失した建築そのものではないが、後世まで歴史的空間の正しい理解に寄与するだろう。また、木造建築の到達点である以上、それを再現することは、伝統工法を継承するうえでも意義があり、復元作業も、完成した建造物も、われわれ日本人が伝統文化や技術に誇りをもつことに寄与するだろう。


だからこそ私は、名古屋市がいう「様々な工夫により、(だれもが)可能な限り上層階まで上ることができるよう目指す」という姿勢の大切さは認めながらも、精密な復元に水を差してしまうエレベーターの設置には否定的である。


だが、それはここでの主題ではない。名古屋城天守の復元は、エレベーターの設置問題を皮切りに、さまざまに味噌をつけられた感がある。


しかし、原点に戻れば、名古屋城ほど正統的で、正確で、精密で、意義がある復元が可能な天守はほかにない。復元が可能かどうかを探る必要がある江戸城とは、次元がまるで違うのである。


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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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