「遅すぎ、快走が台なし」批判する人が知らない…東京マラソンのペースメーカーの"知られざるルールと報酬"

2024年3月20日(水)11時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/carlosalvarez

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「最後の五輪」のつもりで挑戦し日本人1位でフィニッシュしたもの、代表選考の設定タイムより41秒遅かった……。その悔し涙を見て、SNSでは選手を先導するペースメーカーへの批判が相次いだ。スポーツライターの酒井政人さんは「議論している人の中にはペースメーカーに関する“誤解”もあった。厳しい言い方だが、今回記録に届かなかったのは、選手の実力不足とペーサー任せのレース展開が原因だ」という——。
写真=iStock.com/carlosalvarez
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■東京マラソンで勃発した“ペースメーカー問題“のお門違い


今年の東京マラソンは日本人トップに輝いた選手に“涙”があった。その最大の理由は狙ったタイムを出せなかったことにある。


パリ五輪代表の最終トライアルになっていた男子。「最後の五輪挑戦」と心に決めて挑んだ西山雄介(トヨタ自動車)は快走を見せ自己ベストの2時間06分31秒(日本歴代9位)をマークしたが、ターゲットに届かなかった。MGCファイナルチャレンジ設定記録(2時間05分50秒)にわずか41秒及ばず、パリ五輪代表を逃したのだ。


西山は“不運”が重なった。19km過ぎに他の選手と接触して転倒した。レース後、本人は影響はなかったと話したが、ダメージはゼロではない。さらに、レースを引っ張る役割のペースメーカーもスムーズに誘導することができなかった。


女子も「日本記録」の更新を目指した新谷仁美(積水化学)がイメージしていた通りにレースは進まなかった。


大会終了後には、マラソンファンがSNS上などで「タイムが遅すぎるよ」「日本人選手の快走が台なしだ」などと「ペースメーカー(以下、ペーサー)問題」で大きな議論になった。ペースが遅く、うまく選手を導くことができなかった、と。では、そもそもペースメーカーとは何なのか。また、選手はどういう行動をとるべきだったのか。


議論の中には誤解も含まれており、本稿でその部分を中心に解説していきたい。


■日本人選手はペースメーカーに翻弄されたのか


東京マラソン2024は男女ともペーサーが2パターンずつ用意されていた。男子はファーストが国内最高ペースとなるキロ2分52秒、セカンドが日本新ペースとなるキロ2分57秒で引っ張る予定だった。


なお東京マラソンは10kmまでが下り基調のコースで、残りはほぼフラット。前半で少し“貯金”を作っておきたいのが選手心理になる。


先頭集団は序盤でうまく高速ペースに乗って、中間点を世界新記録ペースの1時間00分20秒で通過。ベンソン・キプルト(ケニア)が国内最高記録(2時間02分40秒)を塗り替える2時間02分16秒(大会新&世界歴代5位)で優勝した。


一方、日本人トップ集団は10kmが29分45秒、中間点を1時間02分55秒で通過。予定よりも少し遅い入りになった。


前年の大会で2時間05分51秒をマークした山下一貴(三菱重工)と比べて、10kmで20秒、中間点(ハーフ)で43秒遅れていた。西山雄介(トヨタ自動車)も「前半は遅く感じました。ハーフは1時間02分00〜30秒で行ってほしかった」と話している。


確かにペーサーに問題はあった。前半遅かっただけでなく、なんと給水時に立ち止まって、自分のボトルを探すシーンも。幸い大きなトラブルにはならなかったものの、集団に乱れが生じた。後続ランナーである日本人選手は少なからず心理的なエネルギーを削ったことだろう。


女子はセカンドのペーサーが日本新記録ペースとなるキロ3分16秒で引っ張る予定だった。しかし、中間点の通過は1時間09分52秒。単純に2倍すると、日本記録(2時間18分59秒)より45秒ほど遅くなる。


新谷仁美(積水化学)は「リズムよく走りたかったので、あまりタイムを意識していませんでした。けっこう楽だなと思っていましたが、設定ペースより遅いことに気づいていなかったんです」と振り返る。


横田真人コーチから「遅い」という言葉が届くと、新谷はようやくペースアップした。しかし、急激にペースを上げたことで、「25kmまでに(脚を)使い果たしてしまった」と終盤は苦しくなる。最終的には2時間21分50秒の6位に終わった。


西山、新谷とも目指した記録・結果に届かなかったことをペーサーのせいにすることはなかった。しかし、予定通りのペースで進んでいれば、ふたりのフィニッシュンタイムは変わっていただろう。


■ペースメーカーの存在理由と、そのミッション


そもそもペーサーはなぜ存在するのか。その理由は非常にシンプルで、「好タイムを狙う」ためだ。


マラソンだけでなく、トラックの中長距離種目でタイムを狙うときは、「ペーサー」の存在が欠かせない。レース後半まで一定ペースで誘導することで、好記録の期待値を上げることができる。また空気抵抗は速さに比例するため、「風除け」となり、後続の選手は物理的に楽に走ることができるのだ。そのため世界記録の大半はペーサーが引っ張ったレースで誕生している。


マラソンでいうと、好タイムが出ることで世界中のニュースとなり、レースの“価値”が高まっていく。翌年以降の注目度が高まり、スポンサー料や放映権料が高騰する可能性があるのだ。


そのため現在は多くのレースでペーサーが採用されている(※一方でオリンピックと世界選手権にペーサーは存在しない。またボストン、ニューヨークシティもペースメーカーを置かない大会として知られている)。


写真=iStock.com/Orbon Alija
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実は「ペーサー」の定義は必ずしも一定ではない。たとえば、高橋尚子、渋井陽子、野口みずきが日本記録(当時)を打ち立てたベルリンは、男子ランナーがゴール直前まで女子選手を誘導している。


2022年の大阪国際女子もコロナ禍で外国人ランナーを招集するのが難しかったこともあり、女子レースでありながら、男子がペーサーを務めた。さらに残り1kmまで選手をサポート。その結果、「終盤まで前に選手がいたので、苦しいときに支えてもらいました」という松田瑞生(ダイハツ)が大会新&日本歴代5位(いずれも当時)の2時間20分52秒で“独走V”を果たしている。


では、東京マラソンはどうなのか。男女ともペーサーは「20〜30kmまで」という契約になっており、最長でも30kmで離脱する。なお、ペーサーは役割を果たした距離で報酬(数十万円ほど)が支払われるかたちだ。


そして忘れてはならないのが、ペーサーは大会主催者が用意した存在であるということだ。彼らの「ペース設定」はレース前日のテクニカルミーティングで有力選手(の代理人やコーチ)と相談して、方向性を固めていく。あとは当日のコンディション(気象状況)を見て、レースディレクターが決定する。


東京マラソンの場合、レースディレクターが男子のトップ集団とバイクで並走。レースの流れを見ながら、ペーサーにメガホンで「グッド」「ペースアップ」「ペースダウン」という指示を出している。


一方で、日本人集団の(セカンドの)ペーサーに、レースディレクターは指示を出すことができない。そのため、基本は事前に決まったペース設定でペーサーは走ることになる(ただ、外国人ペーサーの場合、日本人ほど「緻密」ではない印象だ)。


また東京マラソンは競技規則に抵触する「助力」にあたるという考えから、自前の“ペースメーカー”を認めていない。また大会側が用意したペーサーが選手に「給水(ボトルなど)」を手渡すことも禁止している。大会終了後のSNSでの議論ではこのあたりを知らないまま行われていたように思える。


新谷は昨年1月のヒューストンで日本歴代2位(当時)の2時間19分24秒をマークしているが、そのときは練習パートナーである男性コーチが終盤まで引っ張っている。しかし、東京では同じような戦略は許されていなかった。


いかにペーサーとうまく付き合うのか。そこがタイムを狙うポイントだったといえるだろう。


国内外で100戦以上のマラソンを経験しているプロランナーの川内優輝もYahoo!ニュース エキスパートとして、以下のコメントを投稿している。


《ペースメーカーが速かったり遅かった場合には多少力は使いますが「Good!」、「Pace up!」等とコミュニケーションを取ることも大切で実際に海外選手はよくやっています。今回の日本人男子集団は設定より遅かったようですが中間点は五輪内定基準タイムピッタリでは通過しています。Bestではありませんが他の海外レースを基準にするとBetterの範囲だと思います》

■ペーサーを抜いてはいけない決まりはない


西山以外からも「前半が遅かった」という声は上がったが、誰もアクションを起こすことはなかった。ペーサーに声をかける、もしくは前に出て、ジェスチャーを送ることで、外国人ペーサーのスピードを上げさせることはできただろう。



酒井政人『箱根駅伝は誰のものか 「国民的行事」の現在地』(平凡社新書)

新谷の場合は、ペーサーが日本人男子だった。スタート前に、「予定通りにお願いしますね」と念押ししたり、レース中に直接交渉したりするのは可能だったはずだ。


ペースメーカーはあくまで目安であり、抜いてはいけない決まりはない。これもSNSの議論で抜けていたかもしれないポイントだった。


1月の大阪国際女子では前田穂南(天満屋)が21km過ぎでペーサーの前に出て、日本記録につなげた。また2018年のベルリンでは、3人のペーサーが超高速レースに対応できず、15km過ぎから次々と脱落。25.7kmから独走するかたちになったエリウド・キプチョゲ(ケニア)が2時間01分39秒の世界記録(当時)を樹立している。


東京マラソンで狙った記録に届かなかったのは、選手の実力不足に加えて、ペーサー任せのレースをしたことが原因だ。今回、涙を流した選手たちには、もっと実力をつけて、大胆にターゲットを目指すレースを期待したい。


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酒井 政人(さかい・まさと)
スポーツライター
1977年、愛知県生まれ。箱根駅伝に出場した経験を生かして、陸上競技・ランニングを中心に取材。現在は、『月刊陸上競技』をはじめ様々なメディアに執筆中。著書に『新・箱根駅伝 5区短縮で変わる勢力図』『東京五輪マラソンで日本がメダルを取るために必要なこと』など。最新刊に『箱根駅伝ノート』(ベストセラーズ)
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(スポーツライター 酒井 政人)

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