トヨタ初代社長の息子は「二代目はボンクラが多い」と更迭された…豊田一族の系譜を見ればわかる強さの理由

2024年3月21日(木)8時15分 プレジデント社

トヨタグループ創業者、豊田佐吉(写真=『豊田佐吉伝』より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

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グローバル展開を続け、2023年には4兆円を超える過去最高の営業利益を記録したトヨタ自動車。系図研究者の菊地浩之さんは「トヨタグループの特徴は、初代・豊田佐吉から始まる豊田家一族のレガシーをうまく活用してきたこと。現会長の豊田章男氏は2009年の赤字転落という危機の時、自動車好きの創業者一族というイメージ重視で社長に就任した」という——。

■初代・豊田佐吉は大政奉還の年に生まれた農民だった


世界を代表する自動車メーカーとなったトヨタ自動車。そのオーナー一族が豊田(とよだ)家であることは周(あまね)く知られている。オーナーが「トヨダ」で、社名が「トヨタ」なのは、乗用車のマークを考案したデザイナーが「濁点がない方がスマート」と濁点を取ってしまい、それが採用されたために「トヨタ」になったといわれている。


トヨタグループ創業者、豊田佐吉(写真=『豊田佐吉伝』より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

トヨタ自動車の本社:豊田(とよた)市は愛知県だが、豊田家のルーツはお隣の静岡県だ。トヨタグループの創業者・豊田佐吉(とよださきち)(1867〜1930)は、大政奉還の年、遠江国敷知郡吉津村(現・静岡県湖西市)の農家に生まれた。ちなみに、HONDAの創業者・本田宗一郎(1906〜1991)は静岡県磐田郡光明村(現・浜松市天竜区)、スズキの創業者・鈴木道雄(1887〜1982)は静岡県浜名郡芳川(ほうがわ)村の生まれで、みんな浜名湖の近くの出身だ(特に血縁関係はないが)。


明治になり、文明開化の時代、佐吉は農業だけでは食べていけず、大工に従事。機械の修繕を通じて動力機械に興味を抱き、布を織る自動織機を発明。特許を取った。これに三井物産が目をつけ、1911年に同社の支援で愛知郡中村大字栄字米田(現・名古屋市西区米田。トヨタグループ発祥の地)に豊田自働織布工場を創業。その紡績工場が稼働し始めた1914年、第1次世界大戦が勃発。莫大な注文が舞い込み、大成功を収めた。ここから豊田紡織(現・トヨタ紡織)、豊田自動織機製作所(現・豊田自動織機)へと業容を拡大していった。


筆者作成

■二代目・豊田喜一郎が90年前にトヨタ自動車を設立


そして、トヨタ自動車は、佐吉の長男・豊田喜一郎(きいちろう)によって設立された。


喜一郎(1894〜1952)は東京帝国大学工学部を卒業し、豊田紡織に入社。欧米の繊維業界視察の後、自動織機の開発に参画。豊田自動織機製作所が設立されると、同社技術担当常務に就任した。


喜一郎は父・佐吉に劣らず、創業者精神にあふれ、国産自動車の製造を志した。1933年に豊田自動織機製作所内に自動車部を設置し、愛知県西加茂郡挙母(ころも)町(現・豊田市トヨタ町)に工場用地を買収。本格的な開発に着手した。しかし、なかなか開発はスムーズに行かず、資金ばかりを費やした。


■戦時中に自動車製造が奨励され、勢いに乗った


トヨタ自動車初代社長・豊田利三郎(写真=トヨタ企業サイト「トヨタ自動車75年史」より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

一方、日本政府は満州事変勃発後、戦地でのトラックの活躍に目を見張り、自動車産業の育成を企図。喜一郎は自動車製造をアピールし、1936年に自動車製造事業許可会社の指定を受けることに成功。翌1937年に豊田自動織機製作所自動車部を分離し、トヨタ自動車工業を創立した。初代社長には豊田利三郎が就き、1941年に豊田喜一郎に社長を譲った。


豊田利三郎というのは、喜一郎の妹・愛子の夫で、実兄は三井物産名古屋支店長・児玉一造(こだまいちぞう)。三井物産が名古屋支店長の児玉に、豊田佐吉の支援を指示。その縁で、娘婿に選ばれたという。佐吉も喜一郎もバリバリの技術者なので、初期のトヨタグループの経営は婿養子の利三郎が担っていた。実は利三郎は喜一郎の自動車製造に反対していたが、妻の愛子が喜一郎の自動車製造にかける熱意を認めるように説得したという。


筆者作成

■戦後のデフレ期には倒産の危機を迎え製販分離した


戦後のデフレ政策でトヨタ自動車工業は資金調達に行き詰まり、倒産の危機に瀕した。


東海銀行(現・三菱UFJ銀行)や帝国銀行(のちの三井銀行、現・三井住友銀行)など24行による協調融資でトヨタの危機を救ったが、この融資と引き換えに抜本的な再建策の実施に迫られた。過剰な人員の整理、販売会社の分離、販売会社が販売可能な台数に生産調整することの3つであった。


トヨタ自動車工業は1950年に販売部門を分離し、トヨタ自動車販売を設立。人員整理の責任を取って豊田喜一郎は引責辞任した。


豊田自動織機製作所社長の石田退三がトヨタ自動車工業社長を兼務したが、それから1カ月も経たないうちに朝鮮戦争が勃発。トヨタ自動車工業にトラックの注文が大量に舞い込み、業績は上昇。おびただしい在庫、累積赤字を一掃して苦境を乗り切った。


1952年3月、石田退三は喜一郎を訪ね、社長復帰を促した。喜一郎もこれを快諾したが、同年3月27日、食事に立ち寄った先で倒れ、急死してしまう。喜一郎の長男・豊田章一郎はまだ27歳。従兄弟の豊田英二も39歳と若く、跡取りがまだ育っていなかった。


そのため、石田は豊田自動織機製作所の社長を兼務したまま、トヨタ自動車工業社長の続投。1961年に石田は元三井銀行神戸支店長・中川不器夫(ふきお)に社長を譲ったが、1967年に中川が急死すると、喜一郎の従兄弟であった豊田英二を社長に抜擢した。


■豊田一族の社長就任は50代中盤以降まで待たれている


トヨタ自動車のうまいところは、無理に世襲を敢行しないところである。父子の年齢差は30歳くらいあるので、父が子にダイレクトに社長を譲ると、一気に30歳若返ってしまう。仮に父が70歳だとすると新社長(子)は40歳。当然、本人は経験不足で、周囲の役員はみな年上。非常にやりづらい。


トヨタ自動車では、豊田家の人間が50代中盤になるまで社長就任を待っている。豊田家に適材がいなければ、サラリーマン社長を登用している。この姿勢は、3代目社長に就任した大番頭・石田退三の考え方を踏襲しているようだ。


石田は「トヨタでは、佐吉さん、喜一郎さんを表面に立てなきゃ役員にはなれないからね」という反面、喜一郎のベンチャー精神が「危なっかしくてみていられない」と漏らすなど、シビアな目で創業者一族の能力を見極めていた。


石田は「どうも二代目はボンクラが多い。豊田一族だろうが関係ない」といって、1975年に豊田自動織機製作所専務・豊田幸吉郎をヒラ取締役に更迭してしまった。幸吉郎は豊田利三郎の長男で、佐吉翁の最年長の孫である。一族に与えた衝撃は計り知れなかっただろう。だが、この創業者一族に対するシビアな姿勢は、その後もトヨタグループに脈々と受け継がれたのである。


■自社株を0.13%しか持っていなかった豊田章男を旗印に掲げた


その一方で、オーナーの豊田一族を効果的に使うことも忘れていない。


1950年のトヨタ危機で分離されたトヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売。両社の合併はトヨタ首脳の悲願だったが、トヨタ自動車販売の実質的な創業者・神谷正太郎はそれを認めようとしなかった。そこで、トヨタ自動車工業は1979年に豊田章一郎をトヨタ自動車販売副社長に派遣し、両社の合併を模索したといわれる。1980年に神谷が死去すると、翌1981年に章一郎はトヨタ自動車販売社長に就任して工販合併を成し遂げ、新生・トヨタ自動車の社長に就任したのだ。


2000年代に入って社長・渡辺捷昭(かつあき)の拡大戦略で、トヨタ自動車は2008年に世界一の自動車メーカーに成長したが、2009年秋の世界同時不況で拡大戦略は一転して裏目となった。そして、2009年度末の決算で71年ぶりに営業赤字への転落を余儀なくされる。急激な経営不振を打開するため、元社長・奥田碩(ひろし)は「グループには求心力が必要である。グループ求心力のための旗が必要であり、旗を持っておきたい。それが豊田家である」と語り、章一郎の長男・豊田章男をトヨタ自動車社長に抜擢した。


写真=時事通信フォト
東京オートサロンの会場で撮影に応じるトヨタ自動車の豊田章男会長(中央)=2024年1月12日、千葉市の幕張メッセ - 写真=時事通信フォト

■11代社長・豊田章男は「一代一業」の伝統に反抗したのか


実は、豊田家はトヨタ自動車の株をそんなに持っていない。たとえば、豊田章男が社長に就任する前年(2008年)、所有するトヨタ自動車株は450万株、たったの0.13%だった。資産家という意味ではかなりの株を持っているのだが、トヨタ自動車にとっては大株主とはいえない。それでも社長になれるのは、オーナー一族というグループの象徴という意味だからだろう。


初代・豊田佐吉は自動織機、2代・豊田喜一郎は自動車の企業創設で名を成したので、一代一業を実践するため、豊田家の第3世代である章一郎は住宅産業(トヨタホーム)に進出したらしい。


これに対し、第4世代である章男は一代一業ということばを気にすることなく、とにかく「誰よりも自動車が好きだ」という姿勢を前面に出して、本業回帰を強調しているかのようだ。実は、バブル景気の頃、「HONDAの社員はみんな自動車が好きだが、トヨタはそうでもない」という冗談とも本気とも取れるような話が聞かれた。HONDAマンは自動車の会社だから入社したが、トヨタマンは超優良会社に入ったら、たまたま自動車会社だったという見方である。豊田章男のスタンスは、そうした風評を払拭する意味でも効果があったのだろう。


現在は生え抜き社員の佐藤恒治に社長職を譲り、会長となった章男だが、章男の息子もトヨタ自動車に入社している。果たして、彼は社長になるのだろうか。そして、その時、どんなパフォーマンスを見せてくれるのだろうか。


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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005〜06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。
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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)

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