ホテルニューオータニ「展望レストラン」誕生のきっかけはホテルオークラ…高度成長時代の意外な会話

2025年3月24日(月)10時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Serhii Sobolevskyi

ホテルオークラの建築は、ホテルオークラの2年後に開業したホテルニューオータニの建築に大きな影響を与えた。三ツ矢方式の建物の頂上に展望レストランを設けることを提案したのは、ホテルオークラの当時の社長、野田岩次郎だった——。

※本稿は、永宮和『ホテルオークラに思いを託した男たち 大倉喜七郎と野田岩次郎未来につながる二人の約束』(日本能率協会マネジメントセンター)の一部を再編集したものです。


写真=iStock.com/Serhii Sobolevskyi
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Serhii Sobolevskyi

■日本らしさを追求した国際的ホテル


(大倉)喜七郎は老齢にもかかわらず、大成観光への出資要請の旅のついでに、指物や漆芸などの名人のもとにしばしば足を運んだ。ホテルに導入する意匠や什器を見定める目的からである。


それは「世界のどこにもない、日本らしさを追求したホテル」という理念の具現化を、会長自ら真剣に模索していたことを意味している。いかにも凝り性の趣味人、審美眼を備えた文化人らしい。そうして蓄積していったイメージは、建築・意匠分野の専門家たちの社外メンバーで構成された設計委員会につぎつぎと伝えられ、設計コンセプトに落としこまれていった。


旧ホテルオークラは日本らしいホテルだった。箱根の富士屋ホテルや奈良の奈良ホテルは外観からしていかにも日本らしい伝統の佇まいだが、オークラのそれはまったく異なる現代性と伝統性を融合させた独自の「日本らしさ」であり、外観、内装ともにその理念にもとづく美意識が縦横に表現されていた。2015年夏から開始された建替えにさいしては、国内外の文化人や建築学者などから反対の声が続々とあがったが、それも旧建築が唯一無二のものとして高く評価されていた証である。


■「日本の文化、美術、芸術を取り入れたものにしたい」


ホテル設計の基本コンセプト決定の経緯について、野田岩次郎は『私の履歴書』のなかでこう説明している。


私は大倉さんとひと晩、腹を打ちあけて話をした。現在、日本にあるホテルは全部欧米の模倣であって日本の特色を出していない。欧米から高い運賃を払って日本に来るのは、日本の風土、習慣、文化、つまりローカルカラーを味わうために来るのだから、私がホテルを任されたら、日本の文化、美術、伝統を取り入れたものにしたいと言い、大倉さんとも完全に意見が一致した。


また建物については、「日本風といっても歌舞伎座のような桃山式の派手なものではなく、もっとすっきりとしたものにしたい」という意見に大倉さんも「自分もそう思う。絵で言えば光琳の豪華けんらんさでなく、光悦、宗達の精神をくんだものにしたい」と言われた。そして作るなら最高級のものにすることでも一致した。


ただ一つだけ意見が違ったのは、大倉さんがいいものさえ作っておけば、客は自然に集まって来るという考えであったのに対し、私は、座して待つのではなく、世界中に営業の網を広げて客をつかまえてくるつもりだ、という点だった。「それはそれで結構だ。全部君に任すから良いものを作ってくれ。もし変なものを作ったら、二十年でも三十年でも、五十年でも文句を言うよ」と言ってくれた。


■高度な要求を実現するため設計委員会を組織


ホテルのコンセプトについての見解は、会長と社長とでほぼ一致していた。あとはそれをどう設計デザインや什器・備品調達に反映させていくかだが、その実施過程ではさまざまな見解の相違があり、意匠デザインのやりなおしが幾度もおこなわれた。


ホテルの建設工事は、旧大倉財閥系の大成建設が担当することは既定路線だったが、設計施工を建設会社に丸投げする従来の手法では、喜七郎たちの意匠に対する高度な要求を実現することはできない。そこで大成観光は、東京工業大学教授で建築界の大御所である谷口吉郎を長とする設計委員会を組織して、設計実務を委託することにした。


東宮御所、慶應義塾大学第三校舎、藤村記念堂などを設計した谷口は、愛知県犬山市にある博物館明治村の初代館長でもある。日比谷の鹿鳴館が解体されていくようすを目にした谷口は、明治期建築の保存の必要性を強く感じ、旧制第四高等学校(金沢市)の同窓生である名鉄会長の土川元夫に専用施設開設を持ちかけて、それを実現させたのだった。


■米国の各都市で一番高級なホテルに泊まってきた経験


ホテルオークラがライバルとして強く意識した帝国ホテル・ライト館は建替えが決まった当初、完全撤去されるはずだったが、当時の佐藤栄作首相から「一部でも保存できないか」と相談された谷口は、政府の予算的支援を条件として交渉し、エントランスおよびロビー部分の明治村への移築を実現させた。


写真=共同通信社
明治村にある帝国ホテル中央玄関の内部=2024年5月25日、愛知県犬山市 - 写真=共同通信社

設計委員会にはほかに、外務省庁舎を設計した小坂秀雄、大倉集古館を設計し日本の伝統様式に精通する清水一(大成建設所属)、三菱地所建築部長の岩間旭、虎ノ門病院を設計した伊藤喜三郎という実力者たちが参画した。


「つくるなら最高のものに」と宣言した社長の野田は、右腕として招聘した青木寅雄とともにホテル事業の経験はまったくなかった。だが、彼はかつてホテルのヘビーユーザーだった。戦前、日本綿花の駐在員として米国国内をセールスで駆けまわった彼は、各都市にいくとかならず一番高級なホテルに泊まり、ロビーラウンジなどで商談をするようこころがけていた。


■ホテルは一流、ただし客室は一番安い部屋


それは、極東の島国からやってきた駐在員が、白人の信用をえるための“背伸び”であり、相手への心理作戦だった。ただし商売相手の目に触れることのない客室はホテルで一番安い部屋をとった。そういえば帝国ホテルに喜七郎のポケットマネーで長期滞在していたオペラ歌手の藤原義江も「船は一等、ホテルも一流、しかし客室は一番安い部屋」という主義だった(※1)。


※1『帝国ホテル百年の歩み』P137。


生糸のセールスのため全米四十八州のほとんどを回った。アメリカ人のセールスマンに任せていた生糸の売り込みを、私たちが直接やろうというのである。けれども相手の社長などは、白人のセールスマンでもなかなか会えない。日本人なら言葉の不十分もあってなおさらだ。そこで考え出したのが、高級ホテルの利用であった。その土地の最高のホテルに泊まり、商談は豪華なロビーでする。服装、身だしなみにも気を使い、できるだけ良い服を着て、プレスもきかせ、靴はピカピカに磨いて、髪もきちんと分けてゆく。ただし泊まる部屋は出張旅費も安いしどうせ寝に帰るだけだから、内庭に面した最低の部屋にした。(『私の履歴書』より)

そういう商用旅行を重ねた野田は、高級ホテルのパブリックエリアや客室のあり方をいろいろとみてきて、使い勝手の判断基準でも目が肥えていた。


写真=iStock.com/Blair_witch
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Blair_witch

■海外の一流ホテルを視察する半年間の旅


野田は社長就任からすぐに、海外の一流ホテルを視察する半年間の旅にでる。ホテルオークラの設計に反映させるためである。川奈ホテル社長で大成観光専務を兼務する片岡豊が同行し、大成建設の技師3人も引き連れての旅だった。


それは「ホテルに入るや、すぐ巻き尺を持って部屋や廊下を隅から隅まで測り、天井板を持ちあげて天井裏を覗き、暖房のパイプの配管、水道や湯の水圧まで調べた」(野田)というほどだった。


視察というよりも、盗めるものはなんでも盗んでやろうと執念を燃やした“アイデア剽窃”の旅だった。大成建設の技師たちも、ホテルブーム到来でやがて日本国内での建設需要が急増してくることはわかっていたから、本場のホテル設計研究に必死だった。


そうして調べあげた欧米ホテルの施設・設備の最新レポートは逐一、設計委員会に手紙や電報で送られ、ぜひ設計に反映してほしいと訴えた。野田たちはホテル研究に没頭し興奮していた。ところが委員会内部では、野田がそうして意見をすればするほどうっぷんが溜まっていく。


「専門家でもない人間からあれこれと細かく口出しされては、仕事がやりにくくて仕方ない」


委員たちの反発も無理はない。施主側のトップがうるさく口出しすることほど、設計陣にとって厄介なことはないし、「それではなんのための委員会設置だったのか」と意欲が削がれてしまう。


■人生の総決算に執念を燃やす会長と野心家の社長


野田は、帰国後にこのことを知って反省したと著書に書き残しているのだが、設計の実働段階からのつぎのような経緯からすればそれにも少々、疑問符がつく。設計委員会の会合は計36回開かれた。委員たちはそれぞれに本来の仕事をこなしながらの会合だから、これはかなりの回数といえる。またか、という思いも抱きながらの会議出席。それは喜七郎と野田がつぎからつぎへと繰りだすアイデアや質疑への対応に追われた結果だった。


なにしろ「帝国ホテルに追いつき、超える」と宣言したところからスタートした一大プロジェクトである。両人ともに気合が入りすぎて、設計委員たちは辟易したらしい。人生の総決算としての事業に執念を燃やす会長と、なんとしても日本の迎賓ホテルの最高峰を実現するという野心家の社長、その2人が相手とあっては仕方がなかろう。


また高度成長期とは、企業現場でそうした激烈な意見闘争が繰り広げられた時代でもあった。


ホテルの建設工事で一番の難題となったのは、大倉邸の敷地形状だった。大倉邸は現在の虎の門病院がある汐見坂側に正門を置いていた。そして大倉集古館のある側の裏門にむかって上りの傾斜がつづき、邸宅はその斜面を利して建てられていた。


■逆転の発想ともいえる建物下部の「地階化」


もし、もとの正門側にホテルのエントランスを持ってくると、この一帯は住居専用区域であるために20メートル以上の建物は許可されず、6階建てが限度となってしまう。ところがそれでは東京五輪開催を見据えた500室以上のキャパシティーは確保することは叶わない。


委員会と大成建設は打開策を求めて知恵を絞った。それは常識に挑む闘争でもあった。設計技師たちは鳩首して意見を闘わせた。そしてようやく導きだしたのが、逆転の発想ともいえる建物下部の「地階化」だった。


少々ややこしいが、つまりこうである。正門を坂上の大倉集古館側として、そのグランドフロア(5階に相当)にエントランスを置く6階建ての棟を設ける。それに連結する4〜1階は坂下にむかって階層を増やしていくが、4階より下は「地下階」の位置づけとなるので、全体としては「塔屋+地上6階+地下扱いの地上4階+本来の地下2階(駐車場・変電施設など)」になるわけである。


この結果、地上に表出していて客室の窓からは景色が一望できるものの、1階〜4階が法規上は地下階になるので、天井にスプリンクラーを設置しなければならなかった(※2)。この建て方を考案したのは、大成建設第7代社長の水嶋篤次だった。


※2『ホテルオークラ ホテル産業史のなかの四半世紀』P155。


■三ツ矢形状はホテルニューオータニでも採用


それによってようやく建築許可と、500室以上という客室数条件の両方をクリアすることができた。東京都もオリンピックにむけてインフラや宿泊施設の整備に必死で、多少のことは目をつぶるところがあったのだろう。なにしろ敷地は広大なので、容積率や日照権などに引っかかる心配はいっさいなかった。


ホテルの建物形状は三ツ矢式が採用された。3つの棟が三方に伸びる建築様式だが、じっさいには俯瞰するとT字に近い変形形状である。それによってどの棟の客室にいても広い庭園や市街の眺望がえられた。これも敷地が広大だからこそ採用できる贅沢な設計といえた。


この独特な三ツ矢形状は、ホテルオークラの2年後に開業し、帝国ホテルとともに御三家と呼ばれることになるホテルニューオータニでも採用されることになる。


三ツ矢式の建物形状のホテルニューオータニ(写真=Kakidai/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

ニューオータニが開発された千代田区紀尾井町の広大な敷地もまた、かつて大名屋敷や旧伏見宮邸が建っていた土地だった。そこを、日雇工夫から相撲力士を経て鉄鋼事業で成功、巨財をなすというユニークな経歴を持つ実業家の大谷米太郎が買い入れていた。


オークラのライバルとなるニューオータニは、三ツ矢建築の頂上に回転式の飲食施設「ブルースカイラウンジ」(現THE SKY)を設けて世間の注目を集めたが、それを最初に考案したのはじつは野田岩次郎だった。


■「最上階の展望回転レストラン」をニューオータニに提案


野田は、欧米ホテル視察のさいに止宿したサンフランシスコのホテル、マークホプキンスで、最上階にレストラン&バー施設があることにいたく感心する。日本のホテルでは当時、最上階に飲食施設を置くところは皆無だった。そこで帰国後に、ぜひレストランを最上階に置きたいと設計陣に申し入れたのだが、反対意見があいついだ。しかし野田は譲らなかった。


「客室にしてしまえばこの景色を堪能できるのはせいぜい数十人だが、レストランにすればその数は何百人だ」


そう説得を重ねた結果、最上階にバーラウンジの「スターライトラウンジ」とレストラン「コンチネンタルルーム」が設けられることになった。しかも野田は当初、そこに回転式のレストラン施設をつくるプランを温めていたのだ。ところがこれは設計陣の拒否反応があまりに強くて、結局は却下となってしまった。



永宮和『ホテルオークラに思いを託した男たち 大倉喜七郎と野田岩次郎未来につながる二人の約束』(日本能率協会マネジメントセンター)

その後、大谷米太郎が「わたしも紀尾井町に高級ホテルをつくることにしたので、いろいろご教示いただきたい」と野田のもとを訪ねてきた。この面談のさい、野田はこうアドバイスした。


「最上階に展望回転レストランをつくろうとしたのだが、設計におおいに反対されて実現しなかった。大谷さんのところでやってみてはどうか」


大谷はこれを即座に受け入れ、ニューオータニの回転ラウンジであるブルースカイラウンジが誕生したのだった(※3)。高度成長に沸き立つこの時代らしい、ライバルに塩を送るおおらかさだった。


※3『私の履歴書』P105。


■ライバル同士だが設計と施工の編成は同じだった


東京オリンピック開催に無理に合わせたため、千室を超す超大型ホテルにもかかわらず、ニューオータニの着工から竣工までの期間は1年と少しという異常な短さだった。設計図を描きながら工事を進めるという突貫ぶりだったのだが、そのうえ急に社長が「回転レストランを」といいだすものだから、設計・施工側の苦労は並大抵ではなかった。この展望レストランの大規模な回転機構には、尼崎製鉄(神戸製鋼所が合併)が保有していた戦艦大和の巨大な主砲の回転軸受技術が流用された。


ちなみにニューオータニの設計業務を手がけたのは、大成観光臨時建設部長だった柴田陽三がその後に設立した観光企画設計社で、施工はやはり大成建設だった。つまり経営はまったくべつで、それからしのぎを削っていくライバル同士だが、設計と施工の編成はまったくおなじだった。


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永宮 和(ながみや・かず)
ノンフィクションライター、ホテル産業ジャーナリスト
1958年福井県生まれ。ノンフィクション著作に『「築地ホテル館」物語』『帝国ホテルと日本の近代』(いずれも原書房)など。近年はホテル、旅行、西洋料理などの産業史研究に注力している。本名は永宮和美。
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(ノンフィクションライター、ホテル産業ジャーナリスト 永宮 和)

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