「千年に一度」の文言がひっそりと消えた…マスコミが報じた死者29.8万人「南海トラフ」被害想定の大問題

2025年4月9日(水)17時15分 プレジデント社

南海トラフと想定震源域 - 写真=共同通信社

南海トラフ巨大地震について、最大29万8000人が死亡するなどとする最新の被害想定が公表された。元静岡新聞記者でジャーナリストの小林一哉さんは「『30年以内に80%の確率で起こる』とされているのは南海トラフ地震で、南海トラフ巨大地震とはまったくの別物だ。メディアの中には誤解して伝える報道が多かった」という——。
写真=共同通信社
南海トラフと想定震源域 - 写真=共同通信社

■「最大死者29.8万人」を大きく伝えたメディア


内閣府中央防災会議の作業部会は3月31日、「南海トラフ巨大地震」について、死者数が全国で29万8000人、経済被害が292兆円にも上るなどとする被害想定を発表した。


この発表を受けて、新聞各紙は翌日朝刊で1面、社会面トップだけでなく、さまざまな特集を組んで大きく伝えた。


なかでも全国最多を占めたのは静岡県で、その死者数は、ほぼ3分の1を占める10万3000人という。


静岡県は前回2012〜13年に示された想定死者数が10万9000人であった。そこから静岡県はいち早く「静岡方式」の津波対策などハード、ソフトの両面でさまざまな防災対策に取り組み、2025年度末に死者数を9割減少させて、「約1万人」と見込むところまで来ていた。


それなのに、新被害想定でも10万人超が犠牲となるとされただけに、驚きは隠しきれず困惑が広がった。


本当に、これほどまで多くが犠牲となる巨大地震が起きるのか?


プレジデントオンライン編集部撮影
「死者29.8万人」の見出しが躍る新聞各紙の4月1日付朝刊1面 - プレジデントオンライン編集部撮影

■国を動かした「東海地震説」


いまから49年前、1976年10月の日本地震学会で、東京大学の石橋克彦助手(現・神戸大学名誉教授)が「M(マグニチュード)8、震度6(烈震)以上——地球上で起こる最大級の地震が明日起きても不思議ではない」とする東海地震説を発表した。


静岡県の駿河湾を震源とする東海地震の発生が切迫していることを強く警告したことにより、静岡県だけでなく日本全国が東海地震説に大きく揺れた。


構造不況と呼ばれた戦後最悪の経済状況の中で、東海地震説は現在の南海トラフ巨大地震の被害想定の発表などとは比べものにならない強いインパクトを社会に与えた。


東海地震説から2年後の1978年6月には「大規模地震対策特別措置法(大震法)」が施行された。東海地震の予知ができることを前提として、内閣総理大臣が「警戒宣言」を発令することができることが盛り込まれたこの法律は「地震予知法」とも呼ばれた。深刻な被害が予想される東海地域への影響を軽減する世界に例のない法律をつくり、大掛かりな地震対策に乗り出した。


しかし、これだけ大騒ぎした東海地震でも、当時の想定死者数は10万人ではなく、1万人程度とされた。


■「明日起きても不思議ではない」地震は起きなかった


2004年になって、地元紙の静岡新聞社は東海地震の発生を想定した模擬紙面をつくり、近く起こりうるであろう有事に備えた。


筆者撮影
静岡新聞の「東海地震」模擬紙面 - 筆者撮影

模擬紙面の1面トップで東海地震発生時の惨状を伝えているが、おわかりのように「死者7000人」となっている。


つまり、大惨事には違いないが、現在の南海トラフ巨大地震の死者に比べてひとケタ以上も死者数が少ないと考えられていた。


その後、日本では1995年の阪神淡路大震災をはじめ新潟、北海道、熊本などでさまざまな大地震が起きた。しかしながら「明日起きても不思議ではない」とされた東海地震はいつまでたっても発生しなかった。


2011年の東日本大震災を契機に、地震予知ができないことが常識となると、東海地震の名称は南海トラフ地震に吸収されて使われなくなった。


■「南海トラフ地震」と「南海トラフ巨大地震」は別物


東海地震にとって代わった南海トラフ巨大地震によって、静岡県では10万3000人が犠牲となる被害想定が伝えられた。


この死者10万3000人について、メディア報道は何の断りもなく、政府発表の被害想定をそのまま伝えた。


その断りとは、従来の「南海トラフ地震」と「南海トラフ巨大地震」とはまったく別のものであるということだ。


政府の作業部会は、「南海トラフ地震」と「南海トラフ巨大地震」を区別しているが、その区別の仕方は非常にわかりにくく、記者たちも正確に理解できていなかった。


そのため、不正確な紙面がつくられ、読者に誤解と不安を与えた。


簡単にその違いを言えば、「南海トラフ地震」とは今後、30年以内に80%程度の確率で起きるとされる地震である。


一方、「南海トラフ巨大地震」とは、その発生確率は極端に低く、もしかしたら、数千年たっても起きない未曽有の大地震を指す。


だから、死者数が全国で29.8万人、静岡県で10.3万人とされたのだ。


つまり、「南海トラフ巨大地震」はバブル(不確実なもの)に過ぎず、実際には起きないかもしれないのだ。


それなのに、「南海トラフ巨大地震」があたかも30年以内に80%の確率で起きる可能性があるように伝えられ、大騒ぎが演出された。


あるいは政府によって、マスコミも大騒ぎの片棒を担がされたのかもしれない。


■南海トラフ地震が100〜150年に1度と言われる根拠


まず「南海トラフ」地震について簡単に説明する。


南海トラフとは、駿河湾から日向灘までの海底にのびる溝状の地形を指している。


南方から移動してきたフィリピン海プレートが大陸プレートのユーラシアプレートに潜り込もうとするとき、ユーラシアプレートも一緒に引きずり込み、蓄積したひずみが限界に達すると、一気にはねあがることで地震が発生、津波を引き起こすとされる。いわゆる「プレート理論」である。


画像=iStock.com/Barks_japan
※画像はイメージです - 画像=iStock.com/Barks_japan

南海トラフには、東海地震、東南海地震、南海地震を引き起こす3つの震源域があるとされ、過去には100年から150年の周期でいずれかの地震あるいは連動した地震が起きている。


1976年の石橋説は、駿河湾では1854年の安政東海地震から100年以上にもわたって大地震が起きていないことから、駿河湾を震源とする東海地震が切迫していることを予測した。しかし、170年以上たったが、東海地震は起きず、その予測は外れた。


結局、東海地震は単独で起こるのではなく、東南海、南海の震源域と連動する可能性があるとして、3つの地震をひっくるめて「南海トラフ地震」と呼ぶことになった。


1944年の昭和東南海地震、1946年の昭和南海地震以後、南海トラフでの大地震は起きていない。100年から150年が周期といわれる海底のひずみが限界に達すれば、M8以上の南海トラフ地震が起きるとされている。それが南海トラフ地震が30年以内に80%の確率で起きるかもしれないという根拠とされる。


■過去の南海トラフ地震の実際の被害


過去の「南海トラフ」地震の死者数をたどってみる。


死者数が何らかの記録に残る大地震は、1498年9月に発生し東海道全般を襲ったM8.6の明応地震が最初である。津波で伊勢大湊にて家屋流出1000棟、死者5000人、鎌倉にて溺死200人などの被害があったとされる。


1611年12月のM7.9の慶長地震では、東海、南海で溺死3800人など5000人の死者が出たとされる。


1707年10月のM8.4の宝永地震では死者4900人を出し、九州南東岸から伊豆まで津波が襲い、土佐では高さ20メートルに達したとされる。


宝永地震から1カ月半後に富士山で宝永噴火が起きている。


1854年12月のM8.4の安政東海地震では、大津波があり、死者1000人が出たとされる。その翌日に発生したM8.4の安政南海地震では3000人が亡くなったとされる。


1944年12月のM7.9の昭和東南海地震では、死者998人とされ、2年後の1946年のM7.9の昭和南海地震では死者は1339人とされる。


過去の時代に地震対策などはなく、人口もまったく違っている。簡単に比較はできないが、東海地震によって、1万人程度とされた死者数の予測はそれほど大きく間違ってはいないようだ。


■南海トラフ巨大地震は「千年に一度」とことわりがあった


それでは、なぜ、東日本大震災の被害をはるかに上回る「南海トラフ巨大地震」の被害想定が登場したのか?


国は2003年から東海、東南海、南海が連動した場合の「南海トラフ地震」の被害想定の策定に乗り出した。


ところが、2011年3月にM9という最大クラスの東日本大震災が起きると、その年の10月に未曽有の被害をもたらした東日本大震災の政府対応を検証し、教訓とすることになった。


その結果、翌年2012年3月から、M9という「最大クラス」の南海トラフ巨大地震対策の検討が始まった。2013年5月に作業部会は南海トラフ巨大地震の被害想定の最終報告をまとめている。


2013年の「南海トラフ巨大地震」報告書では、その「はじめに」の冒頭で、わざわざ「千年に一度あるいはそれよりももっと発生頻度は低いものである」と、100年から150年に起きている「南海トラフ地震」とはまったく別ものであると断っている。


同報告書の「終わりに」にも、あらためて「千年に一度あるいはそれよりももっと頻度の低い最大クラスのものであり、(中略)必ずしも想定通りになるとは限らない」とあまりにも自信なげな様子を伝えている。それだけ、不確かということだった。


■巨大地震を前提に報じるメディア


ところが、3月31日に発表された2025年報告書は「はじめに」の冒頭で、「南海トラフ沿いの大規模地震は、歴史的に見ても繰り返し発生し、そのたびに甚大な被害をもたらしたことが知られている」となってしまった。


ここで「大規模地震」と言っているのは、M9の最大クラスの「巨大地震」を指しているわけではない。


それなのに、この被害想定を翌日の朝刊で伝えた静岡新聞は「被害想定報告書要旨」の【はじめに】で「南海トラフ巨大地震は歴史的に繰り返し発生している」と“誤報”を掲載した。


この言い回しだと、過去にもM9の最大クラスの「巨大地震」が繰り返し発生したことを政府が発表したことになってしまった。


日経新聞は「巨大地震 ひずみ蓄積」「『連動型』の発生、繰り返す」と大見出しをつけた。読者は、そのままM9の最大クラスの巨大地震の発生が繰り返していると勘違いしてしまっただろう。


新聞記事に登場した専門家たちは「南海トラフ地震を避けることはできない」と口々に述べている。その隣の記事では「南海トラフ巨大地震」を説明しているから、まるで「南海トラフ巨大地震が避けることはできない」と論評しているように錯覚してしまっただろう。


このように、「南海トラフ巨大地震」が30年以内に80%の確率で発生するよう勘違いさせる新聞記事が散見された。


■「防災庁」設置の布石か


2025年の報告書の「はじめに」では、「震源域の位置から、強い揺れと短時間で到達する巨大な津波が広域にわたって襲来する」「人的被害・建物被害・経済的被害など、あらゆる分野において極めて甚大な被害が多様な形で発生する」などと危機感を煽っていた。


2013年報告書の「極めてまれに起きるかもしれない」という前提条件はどこにも記されていないのだ。


しかし、そのために、多くの記者は「千年に一度よりももっと発生頻度は低いかもしれない」南海トラフ巨大地震を歴史的に何度も起きてきた南海トラフ地震と混同する記事を読者に提供してしまった。


これで、政府が音頭を取って大騒ぎをした新想定の「南海トラフ巨大地震」が近い将来に起きるかもしれないと国民は信じ込まされ、「国難」とも言える喫緊の課題となった。


29.8万人が死者となる「南海トラフ巨大地震」を錦の御旗に、石破茂首相が唱える「防災庁」の設置に誰も反対できなくなるだろう。


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小林 一哉(こばやし・かずや)
ジャーナリスト
ウェブ静岡経済新聞、雑誌静岡人編集長。リニアなど主に静岡県の問題を追っている。著書に『食考 浜名湖の恵み』『静岡県で大往生しよう』『ふじの国の修行僧』(いずれも静岡新聞社)、『世界でいちばん良い医者で出会う「患者学」』(河出書房新社)、『家康、真骨頂 狸おやじのすすめ』(平凡社)、『知事失格 リニアを遅らせた川勝平太「命の水」の嘘』(飛鳥新社)などがある。
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(ジャーナリスト 小林 一哉)

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