南海トラフ「死者数29.8万人」には違和感しかない…1万年に1度の「巨大地震」想定で不安を煽る国のデタラメ
2025年4月16日(水)7時15分 プレジデント社
全国屈指の長さを誇る浜松沿岸の防潮堤 - 写真=静岡県提供
■想定死者数を巡る国と地方自治体の「食い違い」
国は2025年3月、全国で想定死者29万8000人というM(マグニチュード)9の最大クラスの「南海トラフ巨大地震」の新たな被害想定を発表した。
このうち、静岡県は全国最多の死者10万3000人とされてしまった。ほぼ3分の1を占める死者数に関係者は困惑するとともに、強い不満の声を上げている。
前回2012〜13年に示した国の被害想定では、静岡県の想定死者数は10万9000人で、そのうち約9割を占めたのが津波の犠牲者だった。そのため、静岡県は後述する巨大な防潮堤の整備などを進め、いち早く「静岡方式」で地震・津波対策に取り組んできた。
写真=静岡県提供
全国屈指の長さを誇る浜松沿岸の防潮堤 - 写真=静岡県提供
国は2014年の南海トラフ巨大地震対策推進基本計画で「10年間で死者数8割減」を目標とした。
この目標を受けて、静岡県は2023年6月13日、地震・津波対策に取り組んだ結果、死者数を8割減少させたという減災効果を発表した。
■川勝知事「国は自治体の取り組みを評価しろ」
発表当日の記者会見で、川勝平太知事(当時)は「静岡県では地震津波対策アクションプログラムをつくり、死者ゼロを目指している」とした上で、「国のほうでは、南海トラフ巨大地震が起こると、静岡県では10万人強が犠牲になるとまだ言っているようだが、これは10年も前の話ではないか。ちゃんといま作っている被害想定に静岡県の実態を反映してもらう必要がある」と今回の発表の2年前に、10年たってもほぼ変わらない国の被害想定を見越して、静岡県の取り組みをちゃんと評価するよう求めていたのだ。
■川勝知事なら「机上の空論」と批判したはず
静岡県は10年間かけて2023年に死者数を8割減の約2.2万人としただけでなく、2025年度末までに死者数を9割少ない約1万人と見込むところまで来ていた。
浜松沿岸の防潮堤完成後に静岡県が想定した被害想定(画像=静岡県提供)
静岡県や各自治体は、南海トラフ巨大地震による大津波が来ても減災効果を見込んだ防潮堤を建設するなどの津波対策を行ったため、死者数を2割にまで抑えられると見込んだのだ。
それなのに、今回の被害想定は、浜松市などで整備された防潮堤は南海トラフ巨大地震による大津波に耐えられず、破壊されることを前提にしていた。
防潮堤の減災効果は“ゼロ査定”とされ、そのため想定死者数はほとんど減らなかった。つまり、国は静岡県の取り組んできた防災対策をまったく評価しなかったわけである。
川勝知事ならば、「実態をまったく反映しない“机上の空論”」などと今回の被害想定を厳しく批判していたはずである。
■沿岸自治体で進む地震・津波対策
静岡県は沿岸の長さが約506キロにも及ぶ。長大な砂浜と砂防林を有する遠州灘海岸、変化に富んだ入り江などが観光名所となる伊豆半島沿岸など、地域によって事情はまったく違っている。
写真=静岡県提供
浜松沿岸の防潮堤を小学生らが植栽する様子 - 写真=静岡県提供
このため防潮堤整備だけでなく、地域の特性を踏まえて、避難タワーの設置や警戒区域指定などに当たり、被害の最小化を目指してきた。
このハード・ソフトを組み合わせた津波対策を「静岡方式」と呼んでいる。
特に、巨大津波を想定して既存の防災林等の嵩上げ、補強などを行う「静岡モデル防潮堤」の整備を進めている。
全国でも南海トラフ巨大地震を想定した強固な防潮堤整備に取り組んでいるのは、静岡県のみだという。
現在、沿岸21市町のうち、条件等が整った吉田町、牧之原市、袋井市、磐田市などの7市町で「静岡モデル防潮堤」の整備が進められている。
7市町では現在も、工区ごとに順次整備を進めているが、浜松市沿岸だけは全工区でいち早く整備が終わっている。
というのも、2011年3月の東日本大震災を受けて、浜松市を創業の地とするハウスメーカーの「一条工務店グループ」が「一人でも多くの生命を守ってほしい」と同市へ300億円もの寄付を行ったからである。
■330億円かけて全長17.5キロの巨大防潮堤を建設
低地が広がる浜松市では、地震発生から約18分で津波が海岸まで到達し、最大津波高15mが東海道新幹線などを直撃し、JR浜松駅付近まで浸水すると予想された。南海トラフ巨大地震によって、浜松市内では約1万6500人が犠牲になると想定されている。
一条工務店の300億円寄付を受けて、浜松商工会議所が音頭を取って企業、市民らに寄付を募り、浜松市は全市民挙げて津波対策に取り組んできた。これらの寄付を中心に総額330億円で防潮堤が建設されることになった。
2013年7月に着工し、2020年3月に高さ13mから15mを基本とする延長約17.5キロという全国屈指の長さの防潮堤が完成した。
この防潮堤は、南海トラフ巨大地震による大津波が越水したとしても、宅地の浸水面積を約8割減少させ、さらに木造家屋の倒壊の目安とされる浸水深2m以上の区域を98%低減できると見込んでいる。死者数はほぼゼロと試算しているのだ。
防潮堤の内部構造は、ダム技術として開発された「CSG工法」を台形形状で配置し、その両側を土砂や砂等で被覆している。CSGは岩石質の材料にセメントと水を混合したもので、強度が高く浸透破壊や越水による破壊が生じず、連続した地震の揺れや津波などに耐えるとされている。
つまり、国が想定する、南海トラフ巨大地震の津波の来襲によって防潮堤がすべて壊れるとした前提とはまったく違っている。
■防潮堤も、津波避難タワーも「効果ゼロ」判定
今回の国の被害想定では、浜松市の場合、想定より2m高い17mの津波が押し寄せることで、防潮堤すべてが破堤されるという評価を受けた。これをそのまま納得できないこともわかる。
静岡県が2023年6月の発表で「死者を8割減」としたのは、浜松市などの防潮堤に加え、沿岸部に人工の高台(通称「命山」)と津波避難タワーを東日本大震災前の7から137まで増強し、508カ所の指定にとどまっていた津波避難ビルをから1316カ所まで増やすなどの対策に取り組んできたからである。
2013年当時よりも命山、タワーは20倍に、ビルも2.5倍近くに増えているが、国はそれほどの減災効果がないとみなしたようだ。
また、防災拠点となる公共施設や木造住宅の耐震率は高く、震災総合訓練への参加率は10.4%で、全国平均1.3%をはるかに上回る。1976年の東海地震説以来、いまでも県民の防災への意識は極めて高い。
静岡県の取り組みを全く評価しないのでは、いたずらに南海トラフ巨大地震の危機感を煽っているようにしかみえない。
■南海トラフ地震と南海巨大トラフ地震は頻度も規模も別もの
「『千年に一度』の文言がひっそりと消えた…マスコミが報じた死者29.8万人『南海トラフ』被害想定の大問題」で述べたように、南海トラフ地震と違って南海トラフ巨大地震はバブル(不確かなもの)に過ぎず、実際には起きないかもしれないのだ。
国は未曽有の被害をもたらした2011年3月の東日本大震災を受けて、同年10月に東日本大震災の政府対応を検証し、南海トラフ地震でもM9という最大クラスの東日本大震災を教訓とすることになった。
その結果、翌年2012年3月から、M9という「最大クラス」南海トラフ巨大地震対策の検討が始まった。2013年5月に作業部会は南海トラフ巨大地震の被害想定の最終報告をまとめている。
2013年の「南海トラフ巨大地震」報告書には、わざわざ「千年に一度あるいはそれよりももっと発生頻度は低いものである」と複数回の記述があり、100年から150年に起きている「南海トラフ地震」とはまったく別ものであると断っている。
また同報告書には「必ずしも想定通りになるとは限らない」とあり、それだけ不確かであることも認めている。
■過剰な被害想定が生み出す多くのムダ
南海トラフとは、駿河湾から日向灘までの海底にのびる溝状の地形を指している。南海トラフ沿いに、東海地震、東南海地震、南海地震を引き起こす3つの震源域があるとされ、過去には100年から150年の周期でいずれかの地震あるいは連動した地震が起きている。
政府は今後、30年以内に80%程度の確率で南海トラフ地震が起きるとしている。しかし、「南海トラフ巨大地震」の発生確率は極端に低く、地震学者も「1000年から1万年に1回起こるかもしれない」と述べる。過去には一度も起きていないのだ。
この「南海トラフ地震」と「南海トラフ巨大地震」の違いをほとんどの人が理解できていない。
それだけでなく、南海トラフ巨大地震の被害想定が過剰な対応を生み出す恐れもあるのだ。
1978年の東海地震を想定した大規模地震対策特別措置法で、駿河湾などには地震観測網が張り巡らされ、数多くの備蓄倉庫なども整備された。約50年がたったことで無用の長物となったものもあり、多くのムダが生じてしまった。
■22億円の高速フェリーが658万円で「お払い箱」に
その象徴とも言えるのが、いまやスクラップとなり消えてしまった防災船「希望」(総トン数2785トン)である。
スクラップとなった防災船「希望」(写真=静岡県提供)
「希望」は、最高速度約80キロという高速のフェリーで、静岡県が東海地震時の非常時を想定して、1997年3月に約22億円で購入した。旅客定員260人、普通車30台を積載でき、救助活動を目的としたが、出番はなかった。
清水と下田の両港を結ぶフェリーとして代用されたが、ふだんの利用率は非常に低かった。燃費など運用コストが高くついて、約10年間に100億円もの維持費が掛かり、赤字が膨らんだ。このため、2005年10月に運航が休止された。
結局、静岡県は2007年に建造元の三菱重工業に約658万円で売却した。同社はその後、4000万円で産廃処理業者にスクラップとして転売した。
今回の過剰とも言える被害想定が新たなムダを生む可能性もあるのだ。
■国の「机上の空論」を吹き飛ばす絶好の機会
ちょうど1年前、川勝前知事は新規採用職員の訓示で、職業差別とも取られる発言を糾弾されると、辞意を表明、そのまま辞職してしまった。
当時の発言の真意は、「県庁というのは別の言葉で言うと、シンクタンクであり、県庁職員は高い見識でその役割を果たしてもらいたい」だった。
今回の南海トラフ巨大地震報告書は、各地方自治体が地域の状況を踏まえたより詳細な検討をすることを要請している。
国の報告書だけに、今後の地震・津波対策に大きな影響を与えるのは避けられない。静岡県担当者らは800ページ超という報告書を精査した上で独自の新たな被害想定の作成を迫られている。
川勝前知事が言ったように、国の報告書に惑わされずに、「これまでの10年以上の取り組みを踏まえた実態に即した被害想定」を県民にちゃんと提示すべきである。
“机上の空論”とならないよう、県職員の高い見識が試される絶好の機会となるだろう。
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小林 一哉(こばやし・かずや)
ジャーナリスト
ウェブ静岡経済新聞、雑誌静岡人編集長。リニアなど主に静岡県の問題を追っている。著書に『食考 浜名湖の恵み』『静岡県で大往生しよう』『ふじの国の修行僧』(いずれも静岡新聞社)、『世界でいちばん良い医者で出会う「患者学」』(河出書房新社)、『家康、真骨頂 狸おやじのすすめ』(平凡社)、『知事失格 リニアを遅らせた川勝平太「命の水」の嘘』(飛鳥新社)などがある。
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(ジャーナリスト 小林 一哉)