なぜ真逆の勢力が共存できるのか…トランプ劇場のカラクリは「共通の敵」への強い恨みだった
2025年4月11日(金)9時15分 プレジデント社
2025年2月11日、ワシントンDCのホワイトハウスの大統領執務室にいるイーロン・マスク氏(中央)と息子のX氏(左)、ドナルド・トランプ米大統領(右) - 写真提供=Pool/ABACA/共同通信イメージズ
■二つのタイプが混在するトランプ支持者層
トランプを支持する勢力、トランプ運動を構成する勢力を見ると、そこには明らかに矛盾する、二つの傾向が混在していることに気づく。
「アメリカ・ファースト」とか、「MAGA(Make America Great Again アメリカを再び偉大に)」といった標語が示しているように、トランプは外国人嫌いで、ファシストを連想させるナショナリストである。彼は移民の排斥や国外追放を叫び、移民によってアメリカ人の純血が脅かされているかのように主張する。トランプのこうした主張に、右翼的な傾向のあるポピュリストたちが共感し、賛同している。本書のここまでの論述の中で「トランプ支持者」という語で念頭に置いてきたのは、主として、この種のタイプの支持者たちである。
しかし、トランプ支持者の中には、このタイプに含めることがどうしてもできない勢力がある。電気自動車のテスラを起こし、X(旧Twitter)を買収した大富豪の実業家イーロン・マスク。マスクは、大統領選挙で、トランプを熱烈に応援し、巨額の寄付をした。今や、彼はトランプの最側近のひとりであり、政権の要職に就くことも決まっている(2025年2月時点)。マスクに代表されるテクノ・リバタリアンの多くがトランプを支持しているのだ。
■ナショナリストとテクノ・リバタリアンの対立
テクノ・リバタリアンとは、(たいてい)IT関連企業のエリートで、政府による規制や監視を最小化した市場の自由を強く擁護する者たちである。
トランプ自身も、基本的にはリバタリアンである。LGBTQ+やジェンダーへの配慮等の道徳的な規制を外した市場の荒々しい競争は、トランプの好むところである。
マスクは、トランプ政権では、「政府効率化省(DOGE)」を率いることになっている。マスクが政府の効率化に熱心なのは、そしてこのポストが特に政権の要のひとつだとされているのは、彼らが基本的には政府の(市場への)介入が不要だと思っているからである。彼らは、政府の介入なき自由を強く支持しているのだ。
トランプ陣営に二つの勢力が共存している。ポピュリスト的なナショナリストとテクノ・リバタリアン。両者は似ているのか? 全然似ていない。それどころか、両者は正反対を向いていて、完全に対立してさえいる。
たとえばテクノ・リバタリアンは、能力主義者なので、有能な移民や外国人を大いに歓迎している。そもそもイーロン・マスク自身も、南アフリカからの移民である。これはもちろん、移民排斥を望むナショナリストたちにとっては、とうてい受け入れられないことである。実際、両者の対立は、顕在化しつつある。
写真提供=Pool/ABACA/共同通信イメージズ
2025年2月11日、ワシントンDCのホワイトハウスの大統領執務室にいるイーロン・マスク氏(中央)と息子のX氏(左)、ドナルド・トランプ米大統領(右) - 写真提供=Pool/ABACA/共同通信イメージズ
■ナショナリスト系支持者の代表はバノン
マスクは、政権発足前から、H-1Bというタイプのビザの拡大を主張している。H-1Bビザは、技術者などの専門職に就く外国人のためのビザである。マスクとともに、政府効率化省を率いることになっていた起業家ヴィヴェック・ラマスワミも、これに賛同を表明している(*1)。
しかし、ポピュリスト系のナショナリストにとっては、これはとんでもないことである。
テクノ・リバタリアンの代表がマスクだとすると、ナショナリスト系のトランプ支持者の代表は、政治戦略家のスティーブン・バノンだろう。
ミシガン州デトロイトのハンティントン・プレイスで開催された人民大会に出席するスティーブン・バノン(写真=Gage Skidmore/CC-BY-SA-2.0/Wikimedia Commons)
バノンは、第一次トランプ政権の初期にはホワイトハウスの一員で、その後、政権の要職から離れたが、基本的には、トランプ支持者のひとりである(*2)。バノンは、マスクが打ち出そうとしている移民拡大策を厳しく批判し、マスクが南アフリカ生まれであることを口汚く揶揄(やゆ)している。
■トランプのもとで共存する正反対の要求
マスクも負けておらず、なんと、外国人を雇わざるをえないのはアメリカ人がダメだからだ、とアメリカ人批判で応戦している。
ここで疑問に思うことは次のことである。過激なナショナリストとテクノ・リバタリアンは、このように本来は対立し、そのめざすところは正反対だと言ってもよい。
両方の要求を完全に満たすことは、論理的に不可能だ。それなのに両者が、トランプのもとで共存できているのはどうしてなのか? 彼らが、これまでずっと互いの違いに気づかぬほどに——今になってようやく違いを自覚し始めるほどに緊密に——連帯できているのは、どうしてなのか? 考察をもう少し続けよう。
*1 ラマスワミは、トランプ政権発足直前に2026年のオハイオ州知事選挙に立候補することになったため、結局、政府効率化省に参加しなかった。
*2 スティーブン・バノンという人物はたいへん興味深い。通常の分類では、彼は典型的な右翼のポピュリストである。しかし、バノンはレーニン主義者だと自称する。つまり左翼の精神を継承しているというのが、彼の自己認識である。
■既成支配層を敵とする連帯性
どうして、両者はかくも違いに鈍感でいられるのか? なぜ両者は連帯できているのか?
両者は、「同じもの」に反発しているからである。「同じもの」とは何か? 民主党が代表しているリベラルなエリート、既成支配層(エスタブリッシュメント)である。リベラルな既成支配層は、(社会の)多様性を唱える。移民を積極的に受け入れ、LGBTQ+を尊重し、誰にも公平に対応しよう、と主張する。そして多様な他者たちを包摂しよう、と訴える。いわゆるアイデンティティ・ポリティクスに基づく主張である。
それなのに——とトランプ支持者は思うのだ——、「我々」はどうなっているのか?
「我々」は尊重され、包摂されているだろうか? 尊重などされていない。むしろバカにされている。既成支配層が享受している利益や特権や有意義な人生の輪から締め出され、排除されている。
原理的には、この「我々」の位置には誰もが入りうる。が、実際には、このような思いをもちやすい「我々」とは、容易に想像できるように、白人の中産階級の、比較的所得の低い層に属する者たちだろう。仕事がなかったり、あったとしても低賃金の不安定な仕事に過ぎなかったり……。
■「クラウド領主」による「テクノ封建制」
ごく簡単にしか解説しないが、これには、グローバル資本主義に内在する構造的な原因がある。第一に、ブランコ・ミラノヴィッチが発見した「エレファントカーヴ」が示しているように、現在の資本主義——サプライチェーン(ヴァリューチェーン)型のグローバリゼーションに基づく資本主義——は、1990年頃までの資本主義とは異なり、先進国の中産階級だけが所得が伸びない仕組みになっているのだ(*3)。ゆえに、先進国(アメリカ)だけを見れば、格差が急激に拡大する。
1988年から2008年までの世界の所得分布のさまざまなパーセンタイルにおける実質所得の変化(2005年の国際ドルで計算)(写真=Farcaster/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)
第二に、グローバル資本主義の実態は、実はすでに「資本主義」ですらなく、ヤニス・バルファキスが言うところの「テクノ封建制」に変貌しているとしたらどうか(*4)。
テクノ封建制のもとでは、かつてのように労働が重視され、尊重されることはない。主たる価値の源泉はもはや労働ではないからだ。価値を生み出しているのは、アマゾンやグーグルのような巨大プラットフォームの上でのユーザーたちの活動である。そのことで、プラットフォームが、膨大な個人データを蓄積させた肥沃(ひよく)な「封建領土」のようなものになっている。
かくして、プラットフォームの所有者である「クラウド領主」は、プラットフォーム上で商売することを望む多くの業者から「レント(一種の地代)」をとることができる。だから、労働そのものの評価は相対的に低く、賃金も上がりにくい。労働者・生産者であることに誇りをもつことが難しい社会になりつつあるのだ。
*3 ブランコ・ミラノヴィッチ『大不平等 エレファントカーブが予測する未来』(立木勝訳、みすず書房、2017年)
*4 ヤニス・バルファキス『テクノ封建制』(関美和訳、集英社、2025年)
■偽善がないように見えるマスクたち
だが、ここで当然、ただちに疑問に思うだろう。トランプ支持者たちは、リベラルな既成支配層が多様性や包摂を訴えているのに、「我々」が排除され、尊重もされていないことに、怒りや不満を覚えるのだ、と述べたわけだが、そんなことを言うなら、イーロン・マスクなどエリートのテクノ・リバタリアンこそ、さらにトランプ自身も、既成支配層そのものではないか。なぜ、彼らは、トランプ支持者から嫌われないのか?
大澤真幸『西洋近代の罪 自由・平等・民主主義はこのまま敗北するのか』(朝日新書)
マスクらテクノ・リバタリアンがトランプ支持者から拒否されず、逆に歓迎されているのは、彼らには、民主党的・左派的なリベラルとは違って、偽善がない——かのようにトランプ支持者には見えている——からである。マスクたちは、多様性云々などと主張しない。マイノリティの優遇も言わない(優遇する気もない)。
「多様性」や「包摂」を主張しているのに、「我々」を排除しているのは欺瞞的だが、テクノ・リバタリアンは、逆に、政治的公正性(ポリティカル・コレクトネス)(PC)の名のもとに当局が多様性や公正性や包摂を強制することを拒否している。
そう、テクノ・リバタリアンが民主党的なリベラルと敵対しているのは、彼らが、市場の自由に対する政治的介入をできる限り拒否しようとしているからである。
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大澤 真幸(おおさわ・まさち)
社会学者
1958年生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。社会学博士。千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。著書に『ナショナリズムの由来』(講談社、毎日出版文化賞)、『自由という牢獄』(岩波書店、河合隼雄学芸賞)、『三島由紀夫 ふたつの謎』(集英社新書)、『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎との共著、講談社現代新書)など著作多数。
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(社会学者 大澤 真幸)