母も祖母も忙しく曽祖母に育てられた…三代にわたる料理研究家10人大家族が守る夕飯の"絶対ルール"

2025年4月12日(土)10時16分 プレジデント社

左=堀江ひろ子さん、右=ほりえさわこさん - 撮影=小林久井(近藤スタジオ)

祖母も母も料理研究家の環境で育ち、自身も同じ道を歩んでいる料理研究家のほりえさわこさん。料理の道へと背中を押してくれた母への思いと堀江家の料理の想い出を語る——。
撮影=小林久井(近藤スタジオ)
左=堀江ひろ子さん、右=ほりえさわこさん - 撮影=小林久井(近藤スタジオ)

■言いたいことが素直に言える母でありパートナー


祖母(堀江泰子)も母(堀江ひろ子)も料理研究家という家で生まれ、私も三代目の料理研究家に。母のひろ子とは、一緒に仕事をすることも多く、母であり、パートナーでありボスという存在です。そんな私たちを人は「友だち母娘」と言いますが、私は母を友だち的な存在と思ったことはありません。とはいえ、確かに仲がいい母娘です。母に言えないことはひとつもないですし、お互いに言いたいことが素直に言い合える関係です。


母との関係は、昔から今のような感じだったわけではありません。中学までの私は、今からは想像ができないくらい引っ込み思案で、石橋を叩いても渡らないタイプ。特に中学時代は、母に対してかなり反抗的でした。


小さい頃から母も祖母も仕事で忙しかったので、泰子の母、私にとっては曽祖母にあたる静江おばあちゃんが私の面倒を見てくれていました。わが家では、祖母の泰子を「大ママ」、ひいおばあちゃんを「静江おばあちゃん」と呼んでいたんです。


撮影=小林久井(近藤スタジオ)
中央の写真に映っているのが、左から、母・堀江ひろ子さん、祖母・泰子さん、曾祖母・静江さん。 - 撮影=小林久井(近藤スタジオ)

私は小さい頃の記憶がなぜかほとんどありません。母は仕事でいつも忙しくしていて、学校の参観日も来ないし、PTAをやったこともない。学校のプリントは母ではなく、静江おばあちゃんに渡すといった感じでした。


私が子どもの頃は家族全員で夕方6時半に食卓を囲むのが絶対的なルール。静江おばあちゃんが家族の夕ご飯当番のときは、私も夕飯の支度を手伝うようになり、必然的に門限は5時に。静江おばあちゃんが健在のときは、いとこたちも含めて家族10人、年齢差80歳の4世代分の夕食をつくっていました。しかも、食卓には毎日のように、家族以外の親戚や知り合いの誰かが当たり前のように座っている。そんな賑やかな食卓を毎日囲んできたことは、私の人生の宝物ですね。


中学生になると泰子とひろ子の料理教室に通うようになります。大学生になってからは、母たちのアシスタントとして料理教室や撮影の手伝いをしていました。


■名前呼びして母との距離が縮まった高校時代


中学に入って思春期を迎えると、母や祖母と衝突することが多くなりました。優等生の母は、正論が大好きなんです。何か相談しても、大人の正しい意見しか返ってこない。それがイヤで言い返したり、相談したりすることもなりました。そんなイライラを黙って聞いてくれていたのが父です。父とはよく犬の散歩に一緒に出かけて、私の愚痴を聞いてもらったり、進路を相談したりしていました。


そんな母とのピリピリした関係も、高校に入ると一変。母からも「性格が変わった」と言われるのですが、友だちの影響で積極的に楽しいことを全力で楽しめるようになったんです。友だちはみんな親やきょうだいやと仲がよく、親のことを下の名前で呼ぶのが流行っていました。その影響で私も母を「ひろこさん」父を「すなおくん」と呼ぶようになりました。今では、母のことを「ぴろ」とか「ぴろこ」と呼んでいます。母との距離が縮まったことで、「仲がいいほうが、自分もラクなんだな〜」と気づきました。


撮影=小林久井(近藤スタジオ)
「堀江家の食卓は毎日とにかく賑やかで、いつも大勢の人がいた」と笑顔で語る、料理研究家のほりえさわこさん - 撮影=小林久井(近藤スタジオ)

母には感謝することばかりですが、そのひとつが、老人給食の手伝いに連れて行ってくれたことです。祖母と母が参加していたボランティアで、月に1回35年間通いました。私も小学生から強制参加(笑)。そこでは100人分の大量調理をするので、家の料理とはまた全然違います。年齢層の違う人たちと一緒に料理をしながら、大量調理のスキルも要求されます。このときの経験は、今もすごく役立っていると感じていますね。


■母の強い意向で決めた進学先


周囲からは、生まれたときから私も祖母や母と同じように料理研究家の道に進むと思われていました。でも、私自身は「違うことも経験してみたい」という気持ちがずっとありました。いつかは料理の仕事をしたいなと思いつつ、「若いうちに違う仕事をやってみてからでもいいんじゃないか」と考えていたんです。


大学受験の際も、旅行が好きで、立教大学の観光学部と女子栄養大学(現・日本栄養大学)で迷っていたのですが、母からは「立教に行くなら授業料はおろか、受験料も出さない」と。料理の仕事に役立つことを学んでほしいという、母の強い意向があったんです。高校の大好きな恩師の勧めもあり、私も母がそこまで言うのならばと、女子栄養大学に進学しました。


撮影 =小林久井(近藤スタジオ)
とにかく仲が良い母娘。取材中も終始笑いが絶えない。 - 撮影 =小林久井(近藤スタジオ)

大学時代は暇があってもなくてもバイトを掛け持ちして、お金が貯まったら激安でチケットを取り、バックパックで海外旅行に行くのを繰り返していました。卒業後もせっせと貯めたバイト代で、イタリアへ1年間の料理留学。このときも、母は「料理を学ぶならフランスのほうがいいのでは」と何度も言っていましたね。そういうところも、「正統派」が好きな母らしい(笑)。でも、自分でお金を払うのだからごちゃごちゃ言われたくないと、その時ばかりは自分の意志をとおして大好きなイタリアへ行きました。


イタリアでは「料理研究家堀江泰子の孫でも、堀江ひろ子の娘でもない」ただの「さわこ」でいられたのが、とてもよかったです。良くも悪くも大勢の人が出入りする家庭で育ったので、ホームステイをしながら自分の世界で一から人間関係をつくれることがものすごく楽しかった。そんな自由奔放に行動する私を、母は遠くから黙って見守ってくれていました。言いたいこともあったのかもしれませんが、そこは自由にさせようとぐっと我慢してくれていたのかもしれません。


■120%ポジティブで猪突猛進なのが母の魅力


イタリア滞在中に資金が足りなくなって、母にお金を借りることになってしまいました。「行かせてもらった」わけですが、あくまでも「自分で行きたくて行った」と言いたかったので、お金はしっかり返済したかった。イタリア留学中にイタリア人たちに「なんで来たの? シェフになりたいの?」と聞かれるんです。そこで日本にいるときはなかなか言えなかった「料理が好きで、イタリアのママの味が勉強したい。母や祖母のように家庭料理の先生になりたいんだ」と何度も何度も答えているうちに、何かが吹っ切れた気がします。帰国後は、かなり素直に「アシスタントをやらせてください」と母にお願いすることができました。それから今日まで、母とはずっと一緒に料理の仕事をしています。


私から見た母は猪突猛進の人。家の中でも醤油を取りに行くのに小走りするほど、ずっと走っているんです。仕事もものすごく早くて、「人を待たせたくないから、先を見て行動する」というのが母のポリシー。料理をしていても、手を動かしながら2つ先の指示をポンポン出したり、同時に3人に別々の指示をしたりしています。全体が本当によく見えていて、素直にすごいと思います。


そんな母のペースにアシスタントや生徒さんたちは混乱することもあるのですが、私は母の性格をよくわかっているし、仕事ぶりも熟知していますから大丈夫。しっかりアシストしています。


そんなふうに仕事はとにかく一生懸命な母ですが、決して完璧なわけでもありません。母は一歩仕事を離れると「パナシひろ子」と呼ばれていて、開けっパナシ、やりっパナシ、出しっパナシ(笑)。おかげさまで私は娘としてもアシスタントとしても、片付けスキルがだいぶ上がりました。そんなオンオフがはっきりしているところも母らしくて、憎めないのかもしれません。


撮影=小林久井(近藤スタジオ)
左=子育てがテーマのさわこさんのレシピ本、右=母・ひろ子さんと共著の料理本 - 撮影=小林久井(近藤スタジオ)

母を表すもうひとつの言葉が「120%ポジティブ」です。母は後ろを振り返ることをしない人。いつでも前向きで明るいんです。体力もあって元気で、人にパワーを与えてくれる人ですね。


仕事中心で子育ては静江おばあちゃん任せだった母ですが、おかげでいろいろな人に育ててもらえて私は本当によかったと思っています。そんな母を見習って、私も周りの人の手を借りて子育てをしています。甘えられるところは遠慮なく甘えて「ありがとう!」。その代わり、助けてくれた人、助けが必要な人に少しずつに形を変えて、そのやさしさをお返しして、バトンパスしていきたいと思っています。


■母と一緒にこれからも人を笑顔にする料理を


私にとっての、わが家のハレの日の味は大好きな静江おばあちゃんの「お煮しめ」。お祝いごとがあると、必ず料理上手な静江おばあちゃんが心を込めてつくってくれていました。私も小さい頃から静江おばあちゃんの横で一番乗りで味見をしたり、一緒につくったりしてきた大事な味なので、これからもていねいにつくり続けて、子どもたちにもしっかり伝えていきたいですね。


撮影=小林久井(近藤スタジオ)
左=100年近く使い継いできた鉄鍋は大切に保存されている。右=祖母・泰子さんの手書きのレシピカード。「データ化して数百枚以上捨てましたが、まだまだたくさんある」とさわこさん。 - 撮影=小林久井(近藤スタジオ)

祖母も母も料理研究家という家に生まれて、ずっと暮らしの真ん中に料理(食卓)がある生活をしてきました。母とは一緒に過ごす時間も長く、ストレートに何でも言い合えるぶん、強く言いすぎて反省することも多々ありますが、そんな母と料理をつくり続けていられることは、すごく幸せなことです。これからも、もうちょっとやさしい気持ちで、作り手も食べ手も、誰もが「おいしいね」と笑顔で言い合える食卓と時間を母や子どもたちと一緒に紡いでいきたいですね。


----------
ほりえ さわこ(ほりえ さわこ)
料理研究家
料理研究家の堀江泰子(祖母)、堀江ひろ子(母)のもとで幼少期より料理に親しみ、大学卒業後はイタリアと韓国で家庭料理を学ぶ。企業や広告でのレシピ開発、調理指導のほか、料理研究家ユニット「あすまるさんキッチン」で農家支援プロジェクトを活動中。
----------


(料理研究家 ほりえ さわこ 構成・文=工藤千秋)

プレジデント社

「祖母」をもっと詳しく

「祖母」のニュース

「祖母」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ