佐藤栄作首相も読んで話題になった『断絶の時代』ドラッカーが示した“資本主義を超えたところにある風景”とは?

2025年4月18日(金)4時0分 JBpress

「マネジメントの父」と呼ばれ、日本では1956年発行の『現代の経営』以来、数々のベストセラーを生んだピーター・ドラッカー。日本の産業界に多大な影響を与えたと言われる一方、その人物像が語られることは少ない。本稿では『ピーター・ドラッカー ——「マネジメントの父」の実像』(井坂康志著/岩波新書)から内容の一部を抜粋・再編集。没後20年となる現在も熱心な読者が絶えないドラッカーの人生と哲学、代表的な著書が生まれた背景を紹介する。

 時の首相が読み、一般にも話題を呼んだ『断絶の時代』が生まれた背景と、ドラッカーが予見した「知識社会」とは?


『断絶の時代』(1969年)

 何をしているかと人に問われると、「変化を見て、書いている」と答えるのがドラッカーの常だった。

 1960年代後半、時代の転換点に立っていると彼は感じていた。何より痛感されたのは社会の健全性が失われつつあることだった。言い方を変えれば、極端な産業化で社会の生態が破壊されつつあることだった。

 国家も自治体も企業も社会の中にあるのだから、社会の一員であることを否定できるはずがない。社会を意識できないということは、他者への著しい鈍感を生む。1969年の『断絶の時代』はその点を指摘したことによって、数多いドラッカーの著作の中で最高峰をなすものの1つと言ってよいだろう。次のように彼は序で述べている。

「関心は、すでに起こったこと、およびその課題と機会にあった。明日の世界の急所を探した。明らかであるにもかかわらず、まだ知覚されていないものを探した」

 疾風怒濤の1960年代、産業の論理への埋没から社会矛盾が噴出した。公害問題やベトナム反戦運動、公民権運動等が激しく燃え上がった。環境問題への警鐘となったレイチェル・カーソン『沈黙の春』(1962年)は自然環境汚染を鋭く批判し、GMの欠陥車問題と対応の失敗はラルフ・ネーダーによる消費者運動を昂進させた。

 ネーダーは著書『どんなスピードでも自動車は危険だ』(1965年)を通じて排ガス規制のマスキー法成立(1970年)を促した。その数年後、オイルショックに端を発する混乱に世界は見舞われた。

『断絶の時代』が示そうとしたのは、資本主義を超えたところにある1つの風景だった。

「断絶」は戦中戦後における世代間の溝と解釈されることが多かった。確かにそのような見方もできるが、それだけではない。同じ世代でも、異なった生き方・働き方をしてきた人々の間に断絶はある。

 ドラッカーは断絶に否定的含みを持たせたわけでは決してなかった。むしろ断絶は、近代とその宿痾(しゅくあ)をなす合理主義的世界観からの決別だった。

 断絶を説明するのに、情報化、グローバル化等のいくつかの鍵概念を彼は挙げているが、とりわけその真意を端的に表現するのは、知識の変容だった。知識を社会の中で意味ある資源として深めていけるか否かが、1970年から21世紀に向けての社会の「急所」とドラッカーは見ていた。

 そもそも彼によれば、近代合理主義のパラダイムを形成し、政治社会に対する支配的な図式を提供したのは、デカルトに始まり、近代に至って、アダム・スミスの古典派経済学、とりわけJ・ベンサム、カール・マルクスらと、フランス啓蒙主義のルソーの系譜だった。彼はかつて『産業人の未来』(1942年)において、その図式を理性万能主義から全体主義への道として理解し、そのような思想系譜からの決別に意を用いてきた。

 そこでは、「20世紀の三悪人」と名指す同時代人ヒトラー、スターリン、毛沢東による知識の占有と暴力への対抗軸として、人間の自由の復権が目指されている。そのために、労働現場や市井の人々のささやかな営みを認め、相互を生産的かつ創造的に結び付ける知識を必要とした。

 知識は他者との生産的関係なくして意味をなさない。知識は、社会のために用いれば生産的な関わり方が育ってくるし、人と社会を結び合わせる触媒ともなるからだ。

 そのような社会を彼は「知識社会」と名付けた。これを新たな社会形式としてだけ受け取るのでは不十分である。人々の感受性や、精神、共同体文化、すなわち新たな世界観を示す理念として受け取らなければならない。21世紀を目前に新しい社会文化を創造するには、モダンと呼ぶ19世紀的合理主義から、ポストモダンの思考への移行を必要とする。

 日本では、『断絶の時代』は一般でも評判を呼んだ。新聞、雑誌、テレビなどでも「断絶」は流行語になり、日常的に口にされるようになった。また当時の知識人や権力者の間でも、同様であったようで、日本の総理大臣・佐藤栄作が多忙な中『断絶の時代』を通読したと雑誌で語っているのはその1つであろう。


知識——新たな資源

 1955年『ハーパーズ』に発表した長大な論文「オートメーションと新しい社会」で、ドラッカーは戦後のアメリカのベビーブームがやがて大学入学者の激増を生むと見ている。1950年代における復員軍人の大学卒業者数は1960年代の知識労働の需要の急増を意味していた。

 1956年までに、約780万人の復員兵がGI法の教育特典を得て、うち220万人が大学に入学し、残り560万人は何らかの職業訓練プログラムを受講していた。知識とは社会の側のみならず、労働の側の要求でもあった。継続的に知識人を輩出する教育システムが整備されれば、社会の側に受け皿がなければならない。

 すなわち、教育を受けた者にふさわしい職業が提供されなければならない。高等教育を受けた者にしかるべき職業を提供することが、社会への要求となり、知識社会への移行を促したとドラッカーは説明している。それに付随して、組織社会の輪郭もまた『断絶の時代』では描かれている。

 ドラッカーが繰り返し用いた比喩は、オーケストラであった。「組織とは旋律のようなものだ」とドラッカーは語っている。オーケストラの語源は、古代ギリシャのオルケストラ、すなわち舞踏場である。楽譜のように明示的な指示ばかりでなく、暗黙裡に蓄積されている知識も総動員して楽団を動かしてゆく。そこには完成というものがない。端的に次のようにドラッカーは述べている。

「知識とは、電気や通貨に似て、機能する時に初めて存在するという一種のエネルギーである」

 音楽が表現するのはエネルギーの統合の働きである。プロ演奏家たちの優れたところを見つけ出し、引き立て、統合を成し遂げるのが指揮者の役割である。部分の間にある関係の力を最大化する。マネジメントで語られるマネジャーの役割も同様である。

 指揮者が交響曲のスコアを解釈し、演奏するのに似て、ドラッカーの想定する知識には実践と解釈が入ってくる。知識を有用なものとして変換できるかどうかは、専門能力、技能、美意識等に依存してくる。それは成り立ちから言ってプロフェッショナルの仕事である。ゆえに、専門家と一般人との間にはギャップがあることが多く、そのために、知識には重い責任が伴う。

 知識を持つ者の多くは、組織に無条件の忠誠心など持たない。組織への忠誠をドラッカーはほぼ重視していない。それはあってもなくてもよい。むしろ、賃金や待遇をちらつかせて知識ある者を引き止める組織の無能は、折に触れて批判している。知識労働者を惹きつけるのは意味ある貢献だけというのがドラッカーの考えだった。

 近年になってから、専門家集団のマネジメントの要諦は完全に一般化しつつある。たとえばグーグルの会長兼CEOを務めたエリック・シュミットは、ドラッカーの知識観を受け取り直し、「企業が成功するには、最大の競争力要員たる知識労働者を惹きつけることができなければならない」と述べている。

 シュミットの見解は同社の黄金律となったが、グーグルだけでなく、もはやあらゆる知識企業、知識労働者に普遍的に妥当する事実と言ってよい。

<著者フォロー機能のご案内>
●無料会員に登録すれば、本記事の下部にある著者プロフィール欄から著者フォローできます。
●フォローした著者の記事は、マイページから簡単に確認できるようになります。

筆者:井坂 康志

JBpress

「佐藤栄作」をもっと詳しく

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ