「すぐ役に立つものは、すぐ役に立たなくなる」作家・荒俣宏77歳が教える"好きを仕事にする"唯一の方法

2025年4月26日(土)10時15分 プレジデント社

読破した書籍は生涯数万冊におよぶともいわれる荒俣宏さん。撮影協力=角川武蔵野ミュージアム - 写真撮影=野口博

「損か得か」が常に価値判断の根拠となり、効率・効果を追求し続ける現代社会は息苦しい。新刊『すぐ役に立つものはすぐ役に立たなくなる』が話題の作家・荒俣宏さんは「僕は“人生丸儲け”と思っている。何をやっても、どんな人に会っても、何かしら学ぶことができ、なによりとても楽しいと思えるからだ」という——。(第1回/全4回)

※本稿は、荒俣宏『すぐ役に立つものはすぐ役に立たなくなる』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。


写真撮影=野口博
読破した書籍は生涯数万冊におよぶともいわれる荒俣宏さん。撮影協力=角川武蔵野ミュージアム - 写真撮影=野口博

■人生7勝8敗でいいじゃないか


人生は長距離レースであるが、実際は節目ふしめに決断しなければならない時期がある。場合によっては、そういう時期が若いときに来てしまうこともある。しかし、その決断が間違っていたかどうかの判断だけは、あわてないほうがいい。


たぶん死ぬ直前まではっきりしないし、人生の決算期になったとき振り返って、自分の一生が相撲の星取りにたとえて7勝8敗ならば、誇るべき結果を残したと思うべきだ。星一つの負け越しは、誰かにその星を譲ったことを意味するからだ。


勝ち星を墓場まで持っていくことはできない。せめて1勝でも、生きている後輩に譲っていくことができたら、世代をつないで種の存続を図っていく生物の一員として、かなり上出来だと思う。


死ぬまで自分がしたかったことの1つでもやり抜いていたら、その1つは誇らしい宝となる。


■「使えない木」だから「神木」になれた


中国の名著『荘子』という本に、「櫟社(れきしゃ)の散木(さんぼく)」という教訓話がある。この故事を、わたしは国立民族博物館の初代館長であった、梅棹忠夫さんから聞いた。



荒俣宏『すぐ役に立つものはすぐ役に立たなくなる』(プレジデント社)

で、梅棹さんが教えてくれた教訓話のポイントは、こうだ。


ある一人の棟梁(とうりょう)大工が、弟子を連れて材木を探す旅に出た。すると、ある村で神木として尊ばれている巨木に出会った。


弟子が「この木を使おう」といったが、棟梁は反対した。「あの木は役に立たなかったからこそ巨木になれたのだ」と。


ほかの木は建築に使いやすく、「財(ざい)あるいは材」(材木ということばもここから出ている)になる木だったから、どんどん伐られてしまった。


ところがこの木は曲がっていたりして使いにくい「散木」、つまり使えない木と判断されたので、人に伐られなかった。そのおかげで神木になれたのだよ——と。


■運命はどちらに転ぶかわからない


使える木はすぐに伐られるが、使えないと判断されて放置された散木は、巨木になるまで育って、神木と呼ばれるようになった。さて、あなたはどちらの木がいいと思うだろうか?


大器晩成ということばにも通じ、自分の個性を失わずに伸びた木は、材とはならなかったが、世間的には役に立たなくても世俗の評価を超えた神木になれる可能性があることを、教えてくれた。


そう、材にならなくても、そのおかげで神木になれる可能性があって、運命はどちらに転ぶかわからないのだ。


人材にもなり、神木にもなるという両立なんて、自己矛盾かもしれない。それでわたしも散木をめざしたいと思い、役立った材木のみんなとは違う生き方を選ぶことにした。その道は、いつ役に立つかまったくわからないが、そのかわり曲がりくねった神々しい木にはなれるかもしれないからだ。


まあ、それも5勝10敗の幕下程度だったけれどもね。それでもいいや。


■生きていることそれ自体で成功


さて、今の時代、人が勉強ということばでイメージするのは、「勉強という努力を重ねること」→「成功へと導かれる」というものだ。『荘子』にいう「材木」になることをめざすのだ。


そしてその具体的なゴールは、


①社会的な成功を収めること
②お金持ちになること
③仕事や業績により社会的な評価を得ること

という3つのことにほぼ収斂(しゅうれん)される。


だが、本来の勉強とは、人生を豊かで楽しいものにする血の通った営みのはずだ。仕事も遊びも勉強になるのなら、勉強とは生きることそれ自体でなかば達成されている。


毎日ご飯を食べたりテレビを観たり仕事をしたりすることだって勉強になるような、そういうものだった。


■荒俣宏は「0点主義」


そんな勉強法をわたしは「0点主義の勉強法」と名づけることにした。材木ではなく散木になるための勉強法というわけだ。単なる手段や道具としての「冷たい勉強法」とは違った、なにかゆったりした大河の流れのような可能性を求める方法といえるかもしれない。


ただし、「0点主義の勉強法」では、成功をめざす材木的生き方を排除するわけではない。結果的には、むしろ「冷たい勉強」に集中するよりも大きな成功が得られる可能性もあると思う。


なぜだろう?


まず、「冷たい勉強」は非常に多くの人が参加しているものなので、必然的に競争が激しく、よほど抜きんでないと成功をつかみ取る勝者にはなれない。しかし、「0点主義の勉強法」では、自分がやりたい勉強をしていくので競争相手も少なく、いわば独擅場の世界を築ける。


そして、その独自の視点が定まったら、その視点から世の中を見ればいい。ここに変化の兆しが見つかるかもしれないからだ。


写真=iStock.com/MicroStockHub
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/MicroStockHub

■あなたに「決め球」はあるか


実力は0点でも、「決め球」があれば、自分の人生はかならず開ける。


この「決め球」を見つけ、磨きあげるには、ストライクを投げるだけの練習では意味がない。球を投げることのおもしろさに気づいて、さまざまな変化球を覚えるという別の選択肢が見つかれば、野球、いや、思考や情報を読み解く力は強化されるはずなのだ。


ついでに書いておこう。「好きなことを仕事にできるのは、特別な才能がある人だけだ」という人もいるだろうが、それは違う。好きなことを仕事にして失敗するという、一見するとネガティブな面もあるけれど、ただ1つの覚悟があればよいのだ。


それは、失敗することに時間も経費もおしまないで楽しみにしてしまう、という覚悟だ。


もっとはっきり、失敗は金で買ってでもしろ、といいたい。なぜなら、失敗こそは「成功」の別側面だから。


とくに若いころは、どんな失敗も安く買いたたける(重大な責任を負わされる可能性が少ない)からだ。おそれることはない、若い時期こそは失敗体験のバーゲンセールで買い物ができる。


■人間には失敗する権利がある


おそらく、この失敗する権利はAIには与えられないと思われる。そして、その体験が成功に結びつくためには、長い年月も必要となるだろう。失敗体験が歳を重ねて熟成し、発酵するまでに時間がかかるせいだ。


だが、この体験の化学変化は、思考の量とスピードに特化したAI型思考では達成されないだろう。人間が機械でなく生命であるという事実を忘れないように。


生命は時間軸の中で変化できる存在だ。


現代の進化論では、生物の進化の歴史はDNAを子孫に伝える際に発生するコピーミスにより、はじめて成立することを探りあてた。失敗すなわち変化や差異が生じることこそが進化の原動力だった。


DNAを介する世代交代がいつも成功ばかりだったら、生命は変化することがなかったろう。だからこそ、DNAからmRNAへの遺伝情報の受け渡しという、わざわざコピーミスが起こりやすいプロセスを創出したのではないだろうか。


そうであるなら、人が開発した脳による認識や思考のプロセスにも、オスとメスによるエラー発生装置がしこまれていたはずだ。


オスとメスが遺伝子の交換をおこなって子孫にそのコピーを受け渡すという、ほんとうに面倒くさい繁殖法を採用したのも、エラーが起きる可能性を担保するためだったと考えられるほどに。


■「アマチュア」のすすめ


ところで、好きなことは他人にいわれなくても自発的にせっせとやれるものである。こういう好きなことを自発的にやりつづける人のことを、西洋では「amateur(アマチュア)」と呼ぶ。


学問することを心から喜び、いっさいの利益を期待せず、また自分の挙げた成果を他人とも無償で共有できる人たちだ。いっぽう、学問することで給料を支給され、論文を書くと学位を授与され、学会の権威ともなる専門家を、プロフェッショナルと呼ぶ。


これが「アマ」と「プロ」の本来の意味だったが、日本語ではとらえ方がちょっと違う。


欧米では、どちらが社会的に尊敬されるかと考えると、「アマ」のほうだといえるからだ。日本ならば東大の教授あたりが最高のプロだろうが、西洋で尊敬されるのは、じつは無私の精神で純粋に学問を愛するアマチュアのほうなのだ。


■「へたの横好き」は大きな勘違い


ところが日本人が持つ「アマ」のイメージは、学問でお金を取れない「へたの横好き」、つまり「しろうと」だと思われている。それは違う。


アマチュアは金を稼げないのではなく、稼ごうとしない愛好家のことであり、純粋に好きでものごとに打ちこむ人のことなのだ。


たとえば野球でも、最初は好きでやるからみんなアマチュアだが、その中から特色ある人がお金が取れる職業選手に変わっていく。学問もまったく同じで、博士号があるかどうかが、その人の知識の正しさを絶対に保証するものではない。


だが、もちろんプロになることは悪いことではない。それになることで、好きなことの探究に時間と労力を注げるなら、それは便利なシステムといえる。


わたしたちがまずめざすのは、知のアマチュアになることであって、もっと自由に楽しく、自分の世界や可能性がどんどん広がっていく「幸福」をめざすべきだと思う。学ぶとは、本質的に「ボランティア活動」なのだから。


写真=iStock.com/SbytovaMN
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/SbytovaMN

■「遊び」こそアマチュアの勉強法だ


では、アマチュアをめざす「勉強」とは何なのか? 試験にパスするため? 資格を得るため? それじゃあ「仕事」だ。勉強って、本来はおもしろいからするのではないのか?


これをもっとわかりやすくいえば、「遊び」こそがアマチュアの勉強ということになる。


今、そのようなアマチュアが存在する領域は昆虫などの生物愛好家やスポーツ、ゲームの愛好家の別名として存在している。大人たちのことばにしたがって勉強する世界では、遊びが「人生の無駄遣い」と信じられた時代があったのだから、この両者は対立関係にすらなっているかもしれない。


成功しなければ幸せになれない。そのためには必死で勉強するしかない。そして、努力して能力を開発すれば、成功して豊かになれる。勉強しない者よりも、勉強した者が優位になる——。多くの若者はそう思っているはずだが、それは半分しか正しくない。あとの半分はただの幻想、いや思いこみだと思う。


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荒俣 宏(あらまた・ひろし)
博物学者、小説家
1947年東京都生まれ。博物学者、小説家、翻訳家、妖怪研究家、タレント。慶應義塾大学法学部卒業。大学卒業後は日魯漁業に入社し、コンピュータ・プログラマーとして働きながら、団精二のペンネームで英米の怪奇幻想文学の翻訳・評論活動を始める。80年代に入り『月刊小説王』(角川書店、現KADOKAWA)で連載した、持てるオカルトの叡智を結集した初の小説『帝都物語』が350万部を超え、映画化もされる大ベストセラーとなった。『世界大博物図鑑』(平凡社)、『荒俣宏コレクション』(集英社)など博物学、図像学関係の作品を含め、著書、共著、訳書多数。
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(博物学者、小説家 荒俣 宏)

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