なぜ藤原道長は関白にならず、「内覧」にとどまったのか…最大のライバル・伊周との決定的な違い

2024年5月12日(日)7時15分 プレジデント社

伊周を演じる三浦翔平。2023年1月19日、フランス・パリで開催されたパリ・ファッションウィーク・メンズウェア2023年秋冬コレクションにて、Alexandre Mattiussi Frontrowに出席した。 - 写真=ABACA PRESS/時事通信フォト

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なぜ藤原道長は32年にわたる長期政権を築くことができたのか。歴史評論家の香原斗志さんは「兄・道隆の遺児であり、最大のライバルとなった伊周が自滅したことが大きい。その後、地道な積み重ねによって政権を固めていった」という——。

■今度こそ自分が関白になると思っていた伊周


当面は続くと思われた関白、藤原道隆(井浦新)の権勢だったが、病のために道隆は、長徳元年(995)4月10日に死去してしまう。その模様が描かれたのはNHK大河ドラマ「光る君へ」の第17回「うつろい」(4月28日放送)だった。


写真=ABACA PRESS/時事通信フォト
伊周を演じる三浦翔平。2023年1月19日、フランス・パリで開催されたパリ・ファッションウィーク・メンズウェア2023年秋冬コレクションにて、Alexandre Mattiussi Frontrowに出席した。 - 写真=ABACA PRESS/時事通信フォト

自分が死ぬ前に関白職を長男の伊周(三浦翔平)に譲っておきたい、というのが道隆の強い願いだったが、妹で一条天皇(塩野瑛久)の母である女院、詮子(吉田羊)の意向で退けられている。第18回「岐路」(5月5日放送)で、道隆の弟の道兼(玉置玲央)を関白にする詔が下された。


その道兼も5月2日、就任御礼を言上する場で倒れ、8日には帰らぬ人になった。疫病の疱瘡(天然痘)は、公卿のあいだにも蔓延していたのである。


この時点で、道隆と道兼の弟である道長(柄本佑)は権大納言だったのに対し、道隆の長男で道長より8歳年下の伊周は、すでに内大臣だった。だから、伊周は今度こそ自分が関白になると思っていたようだ。


ところが、詮子の必死の説得を受けた一条天皇は5月11日、道長を内覧(天皇に奏上する文書を事前に見る役割で、職務は関白に近い)にする宣旨を下した。


■妹に対し「皇子を、産め!」


専横ぶりが目立ち、臆面もなく身内をひいきした道隆と、その結果、異例の昇進を遂げた伊周に対しては、そもそも公卿のあいだに不満が充満していた。そうした様子は、ドラマで秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』からも色濃く伝わる。詮子も道隆父子を苦々しく思っていた一人であった。


じつは一条天皇は、『枕草子』の記述などからも、伊周との関係が良好かつ濃厚だったようで、ことが順当に進めば、寵愛する中宮定子の兄でもある伊周に政権を担当させていたと思われる。


「石山寺縁起絵巻」第3巻第1段より藤原伊周[画像=中央公論社『日本の絵巻16 石山寺縁起』(1983)/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

だが、詮子は、道兼の後継に伊周を立てようとする一条天皇を、いったん兄の道隆から弟の道兼へ権力を継承させた以上、次はその弟の道長を立てるのが筋だと説得。『大鏡』によれば、詮子は清涼殿の上の御局に上がり込み、天皇の寝室に入って、渋る天皇を泣きながら説得したという。


その結果、伊周は最高権力者の座に就くことができなかった。


第18回では、その伊周が中宮で妹の定子のもとに乗り込んで怒りを爆発させ、「帝のご寵愛はいつわりであったのだな。年下の帝のお心なぞどのようにもできるという顔をしておきながら、なにもできていないではないか!」「こうなったらもう、中宮様のお役目は皇子を産むだけだ」「皇子を、産め!」と、無体な要求をする様子が描写された。


この場面は、親の七光りだけを笠に着て横暴に振る舞ってきた伊周の、人間の小ささをうまく描いていた。この男が小者であったことは、後述するように、道長政権が長期化するに至った理由の一つだといえよう。


■ほとんどのライバルは疫病で死に絶えた


さて、官位は年下の伊周に追い越されていた道長だったが、いったん内覧になると、続いて6月19日には右大臣に任じられた。


このとき太政大臣と左大臣は空席で、右大臣が太政官の最上位だった。このため道長は、太政官の首班である「一上」(大臣のトップ)を兼務し、公卿たちの会議を主宰することになった(翌年には左大臣になった)。藤原一族の氏の長者にもなった。


8歳年下の伊周を退けての政権掌握だったので誤解されやすいが、このとき道長は30歳で、その若さで政権トップの座に就くのは異例のことだった。事実、当時の公卿のなかで道長は、伊周と、弟でドラマでは竜星涼が演じている隆家を除けば、いちばん若かったのである。いうまでもないが、これだけ若くして政権を握ったことは、長期政権になる条件の一つだった。


そもそも、道兼の死後、政権の中枢に座るべき候補が伊周と道長に絞られたのは、長徳元年(995)の3月から6月のあいだに、道隆と道兼以外にも、大納言藤原朝光、左大将藤原済時、左大臣源重信、中納言源保光、権大納言藤原道頼らが続々と死去し、伊周と道長より上位の公卿がいなくなったという事情もあった。


道長は若かったため、その後の時間はたっぷりとあった。おまけに、外されて遺恨をもつ伊周と隆家の兄弟を除けば、道長の立場を脅かす人間がいなくなっていたのだ。


■あえて関白にならなかった理由


ところで、道長は2人の兄のように関白の座には就かず、内覧として政権に当たったが、権力を固めるうえでこれが幸いした。権大納言で大臣でもなかった道長を、関白に任じるわけにはいかなかった、という事情もあっただろう。だが、道長は内覧という立場を好都合に感じていたようだ。それは、道長が実を取る人物だったからである。


道長は内覧として、文書を読んでは天皇にアドバイスをすることになった。この職務に関しては、関白とほとんど変わらない。一方、公卿の会議をリードする「一上」は、関白になった場合は兼務できなかった。


道長は関白ではなく内覧の座にとどまったおかげで、天皇に文書を奏上してアドバイスする立場と、公卿の会議をリードする立場の、2つを兼ねることができた。道長はこの立場を気に入って、一条天皇の次に即位した三条天皇から、関白になるように指示されても拒否している。ちなみに、道長はのちに摂政には就任したが、関白には生涯、なることがなかった。


伊周と弟の隆家は道長への敵意をむき出しにしたが、道長自身が会議を主宰する立場を維持していたので、会議の場をとおして彼らに目を光らせることができたのである。


■平安最大のスキャンダル


とはいえ、伊周と隆家は非常にやっかいだった。その模様は藤原実資の『小右記』が伝えている。7月24日には、公卿の会議の場で伊周が道長に激しく楯突き、「闘乱」のようだったという。27日には、隆家と道長の従者同士が七条大路で弓矢による「合戦」を引き起こし、道長の側に犠牲者が出た。


こうして一触即発の状況が続いたのち、年が明けて長徳2年(996)を迎えると、長徳の変が起きた。正月14日、伊周と隆家は故藤原為光の家ですごした際、花山院およびその従者たちと乱闘騒ぎを起こし、法皇の従者2人を殺害してしまったのだ。


花山天皇(画像=月岡芳年/artelino - Japanese Prints - Archive/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

事件について『栄花物語』には、次のように書かれている。伊周は為光の三女のもとに密かに通っていた。一方、花山院は四女に言い寄っていたが、伊周は、花山院が三女に手を出したと勘違いした。そして、弟とともに従者を連れて花山院を待ち伏せし、院に射掛けて袖を矢で貫通させた——。


『栄華物語』の記述が史実かどうかわからないが、兄弟が花山院の従者たちと乱闘騒ぎを起こし、2人を殺したところまでは史料で確認できる。結局、2人は法皇襲撃に加え、詮子を呪詛した嫌疑や、天皇家にしか許されない「太元帥法」を僧に行わせた嫌疑もかけられ、告発される。


その結果、一条天皇は4月24日、内大臣の伊周を太宰権帥、中納言の隆家を出雲権守へ降格のうえ、即刻配流するように命じた。道長にとっては、なにも手を下さずに政敵が自滅してくれたのだから、これほどありがたいことはなかった。


■わがままでこらえ性がない性格


だが、伊周らが見苦しかったのは、その後であった。伊周と隆家は出頭を拒否し、伊周の同母妹である中宮定子の御所に立てこもった。このため検非違使に乗り込まれ、隆家は捕えられたが、伊周は逃亡したのである。


いったんは出家姿で出頭した伊周だったが、太宰府に送られる途中、病気と偽って播磨(兵庫県南西部)にとどまると、ひそかに上京し、ふたたび定子にかくまわれた。だが、見つかったうえに出家もウソだったことが発覚し、やっと太宰府に送られている。


栄華を誇った父、道隆のもとで、実績がないのに分不相応な出世を遂げた伊周と隆家の兄弟。甘やかされすぎて、世の中の理不尽に向き合う耐性が身につかず、人望も得られないまま自滅したものと思われる。道長は最大の政敵を退けることができた。


むろん、この時点で道長の政権が盤石になったわけではない。その後、たびたび病に襲われながら、娘を入内させては生まれた皇子を即位させるなど、地道な積み重ねによって政権を固めていった。だが、若くして政権を掌握し、自分より若い政敵を排除できてこそ、長期政権を樹立できたといえる。


その意味では、身内びいきの専横が目に余った道隆が、わがままでこらえ性がない息子を育ててくれたことも、道長政権の長期化に貢献したといえるだろう。


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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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