獺祭は機械で造っているから嫌い…ホテル出向中にアンチ客と出会った蔵人が、自らの正体を隠し続けた理由

2024年5月13日(月)17時15分 プレジデント社

旭酒造の桜井一宏社長(左)と、京王プラザホテルの若林克昌社長 - 撮影=ミヤジシンゴ

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日本酒「獺祭」で知られる旭酒造と、西新宿の高級ホテルである京王プラザホテルが、従業員を一定期間交換し働かせる「交換留職」を行っている。いったい何のためなのか。ノンフィクション作家の樽谷哲也氏が描く——。
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旭酒造の桜井一宏社長(左)と、京王プラザホテルの若林克昌社長 - 撮影=ミヤジシンゴ

■宿泊客が「蒸発」した名門ホテルがとった打開策


一般に「交換留学」といえば、日本の学校に籍を置いたまま、半年から1年ほどの期間、協定を結んだ海外の大学などに派遣留学し、相手校からも学生を受け入れることを意味する。学問を修めつつ、異なる文化や言語に理解を深める相乗効果が期待される。


社員の相互派遣に取り組み、「交換留“職”」なる制度に発展させた珍しい日本企業の実例がある。東京の西新宿エリアに摩天楼の礎を築いた京王プラザホテルと、純米大吟醸酒「獺祭」が一大ブームとなった山口県に本社を置く旭酒造である。


京王プラザホテルの若林克昌社長。就任早々、難しい舵取りを強いられることになった(撮影=ミヤジシンゴ)

そのきっかけは、私たちの暮らしに深刻なダメージをもたらした2020年に始まるコロナ禍にあった。日本初の超高層ホテルとして誕生した京王プラザホテルとしては、開業50周年を翌年に控える節目の時期に差しかかっているときの悲運でもあった。


第13代社長の若林克昌氏は、奇しくもその20年6月にグループの京王自動車社長から転じて就任したばかりであった。「お客様が蒸発したというくらい激減してしまいました」と振り返るが、およそ80%を海外の宿泊客で占める都心の大ホテルの経営トップとして、歴代の社長たちさえ経験したはずのない試練に直面したことになる。


「経営が非常に厳しくなって、約1000人の社員のうち250人を、あらゆる業種に出向させました。ホテルや飲食店のほか、建設業や不動産業の営業、バスターミナルの職員、警備員などです。なんとかこの苦境を乗り切ろうとがんばっていました」(若林氏)


■インタビュー記事を見て旭酒造の社長に声をかける


旭酒造の桜井一宏社長。若林社長からの要請にすぐさま応じた(撮影=ミヤジシンゴ)

そのような折、旭酒造の立役者である会長の桜井博志氏のインタビュー記事が新聞1面に掲載されていたのを目にする。桜井氏とは、かつて京王プラザホテルで開かれた特別イベントで縁を得て以来、親交がある。


「いま最も苦しんでいるホテルと外食業を少しでも助けたい」と語っていた。ともに親しくしている長男で第4代目蔵元・社長の桜井一宏氏にすぐに連絡をとり、「ぜひともご協力をお願いしたい」と依頼した。


勇にして能ある経営者は即行動に打って出る。


桜井一宏氏は、次のように話す。


「私自身、京王プラザホテルさんのことをたいへん心配していましたので、『私たちこそありがたい』と、コロナ禍が収束したら戻っていただくことを前提にすぐに社員の方の受け入れを決めました」


京王プラザホテルから派遣されたのは、ホテル内の和食レストラン「かがり」で唎酒師(ききざけし)として日本酒のソムリエをしている、坂田圭一氏である。


受け入れる旭酒造にとっても、「ベテラン唎酒師として働いている方に山口の現場まで来て、ともに働きながら学んでいただけるのは、私どもにも、のちのちになって大きな武器になっていくと確信しました」と桜井氏はつづける。


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旭酒造は、京王プラザホテルで働く「唎酒師」を受け入れた。桜井社長は自社へのメリットも大きいと強調する - 撮影=ミヤジシンゴ

■ホテルの唎酒師が酒造りの現場で働き始めた


京王プラザホテルは客室はもちろん、レストランやバックヤードなど、ほとんどのエリアは一年を通して空調が快適に行き届いている。


だが、むろん、日本酒造りの現場はまるで異なる。


麹菌を増やすための蔵では、室温はおおむね40℃から42℃程度、高い場合は45℃ほどに設定し、湿度は50%から60%くらいになるように保たれるといい、己の身一つで仕事をするには難しい環境であると素人でもわかる。


その中で、腰をかがめたりしながら手作業で米を1粒ずつほぐしつづけなければならない。重い物を上げ下げする作業も多く、決して楽な仕事ではない。初心者の多くは、身体のあちこちが筋肉痛になり、熱中症にもなりやすい。


京王プラザホテルから派遣された唎酒師の坂田氏は、東京に戻って、「唎酒師として日本酒の知識があるのと、実際に酒造りを体験するのとでは、まったく違った」と驚きを語った。


■現場で覆された「獺祭=機械化」という固定観念


社長の若林氏も、社員の雇用を守るという急場の目的以上の成果があったと実感する。


「旭酒造さんはオートメーション化が進んでいると思って山口に行ったら、いい意味で裏切られたそうです。データを大切にする一方で、人の触覚や視覚、嗅覚など五感を研ぎ澄まして、厳しく確認していることを身をもって知ることができた。精米から酒造り、最後の瓶詰めや出荷まで全部を実際に経験させていただいて、お酒を造る人の思いや情熱、真剣さに感銘を受けたそうです」


会長の桜井氏の自宅に、旭酒造の社員とともに招かれ、夫人の手作りのカレーライスをはじめ、手厚い家庭料理で和やかにもてなされたこともあった。胃袋と胸に沁みわたる一席であったろうことは想像に難くない。


「旭酒造ファン」と公言するようになった唎酒師の坂田氏は、京王プラザホテルで「獺祭」の伝道者ともなっている。


「いわば他流試合に行くことによって、それぞれが今日まで積み上げてきた価値を強みとして、なお経験を重ねて元の職場に戻ってくる。また違った目で自分の仕事を見られるようにもなると感じました」(若林氏)


■山口の職人が一転、東京のホテルマンに


恩義以上のものを受けたと考えた若林氏は、コロナ禍が落ち着いてきた頃合いを見て、旭酒造社長の桜井氏に「おたくの社員の方もうちへ働きにいらっしゃいませんか」と提案する。啐啄(そったく)同時というところであろう。桜井氏は「ぜひ!」と応じた。


これが「交換留職」の始まりである。


桜井氏の語り口は静かだが熱意が伝わってくる。


「当社は、30〜40名ほどだった会社が急成長したこともあって、社員の平均年齢が29歳くらいと若かった。若いメンバーが多いということは社会経験が必ずしも十分ではないことにもなり得ます。若林社長からお声がけを受けて、うちの社員にとって大きな勉強になるし、非常に面白い試みになると確信して、とんとん拍子に話が進みました」


旭酒造が出向者第1号として選抜したのは、日本酒造りの要である酒蔵の責任者「蔵長」であった。


「蔵長さんがいらっしゃると聞いて、どんなおじさんが来るのかと思っていたら、まだ30代半ばの若い男性でした」(若林氏)


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京王プラザホテルの若林社長(右)の提案で「交換留職」が始まった - 撮影=ミヤジシンゴ

サービス業の経験がほとんどない職人気質(かたぎ)の人であるとしたら、東京のホテルでお客様をお迎えして「いらっしゃいませ」と声に出して挨拶するのは実に勇気のいる第一歩になるであろうと、若林氏は互いの社員にとって有意義な試みになると期待した。以後、旭酒造からは、おおむね2カ月の「留職」期間を目安に、社員を次々と派遣することになった。


■革靴で立ちっぱなし…目配り、気配りで疲労困憊だった


その一人、脇園大輝氏(26歳)は、若手が2人1チームとなって“獺祭の匠”となるべく手造りのように製造する新ブランド酒「獺祭 登龍門」のスタッフであった。将来を嘱望されるエキスパートである。旭酒造に入社する前の大学時代の4年間、イタリアンレストランでアルバイトをしていた経験もあった。


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旭酒造から京王プラザホテルに派遣された脇園大輝さん - 撮影=ミヤジシンゴ

その脇園氏にとっても、ホテルのレストランで革靴を履いて、ほとんど立ち通しで接客するのは経験のないことであり、はじめの2週間ほどはとにかく足が疲れてならなかった。米やもろみなど、目の前にあるものとじっくり向き合う日々とはまるきり変わり、常に360°の目配り、気配りを求められる職場に立つとすれば、疲れるのは足ばかりではあるまい。


脇園氏が旭酒造で担当している仕事に、麹づくりの「製麹(せいきく)」と呼ばれる工程がある。


「毎日、2.4トンもの米を、もろみと合わせながら麹へと育ませていきます。大量の米を水に浸して吸収させる工程では、わずか15秒、30秒といった時間の違いで米の水分含有率が1%単位で変わる。1秒ごとに0.1%単位で調整を図っていって、酒の出来具合を高めています」(脇園氏)


旧来は職人の勘と経験だけに頼っていたそうした高度な技術を、旭酒造では、いわば「見える化」を実現することで、四季を通じて高品質の酒造りが可能なデータを集積し、共有することをめざしてきた。経営の傾きかけた山口の会社を全国屈指の日本酒メーカーに一挙に押し上げた「獺祭」は、その一つの到達点である。


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獺祭。旭酒造を全国屈指の日本酒メーカーに一挙に押し上げた - 撮影=ミヤジシンゴ

■「獺祭は嫌いなんだ」という客に遭遇、そのとき蔵人は…


「交換留職」中であった脇園氏がつづける。


「獺祭は嫌いなんだ」と語る客に出会った時を振り返る脇園さん(撮影=ミヤジシンゴ)

「京王プラザホテル内の和食レストラン『かがり』で、『旭酒造から研修でまいりました』とお話ししたら、すぐに『獺祭は嫌いなんだ』というお客様もいらっしゃいました。お酒は嗜好品ですから、好き嫌いには立ち入らずにお話ししているうちに、『獺祭の〈登龍門〉を一から造っている者です』とお話しすることになりました。機械化を図りながら、〈登龍門〉も自分たち若手が2名1組で一からすべて造っていて、こういうところが大変なんです、とご説明していったんです」


完全オートメーション化でもないし、100パーセントの人海戦術による酒造りでもない。あくまで品質第一で、科学的データを重視しつつ、苦労を伴いながら人の腕と技術によってブラッシュアップを図り、満を持して「獺祭」を送り出していると淡々と話すことになった。


会話や所作の一つひとつに緊張感が伴う。50代とおぼしきその男性客は、「獺祭 登龍門」をボトルでオーダーし、楽し気にひとときを過ごして帰って行った。


■「アンチ的なご意見こそ勉強になる場合が多い」


「そのボトルの最初の1杯を『すごくおいしい』と飲んで、『獺祭好きになってしまうかもしれない』というお声までいただきました。お一人でも多くの獺祭ファンをつくる手助けが私の力でできたのだとしたらと、すごく大きな経験になったと思います。それと、『獺祭が嫌い』というアンチ的なご意見こそ、私たちにとって勉強になる場合が多いと実感するようにもなりました」(脇園氏)


山口の地で手ずから届けようとしている商品が、ダイレクトに目の前の顧客に歓迎されたとき、快哉(かいさい)は決して小さくはなかろう。成功と至福を同時に体験したのであるとして、おそらくそれは個人の到達点にとどまるまい。個々人の体験が成功とそうでない場合とを合わせ、互いの会社で共有されて、企業文化として積み上がってゆく。


やがて、おのおのの持ち場へ立ち返り、その「交換留職」の経験が商品やサービスを通して顧客にゆるやかに伝わっていったとき、個人の成功体験は組織全体の企業文化へと発展するのではなかろうか。


■「交換留職」がもたらした相乗効果


京王プラザホテル企画広報支配人の杉浦陽子氏は、自らも旭酒造の酒蔵をこまかに見学した経験から、「精米所から始まって、どこもかしこも、きれいに磨き上げられていて、本当に驚いて敬服しました」と話す。


「社長と従業員のみなさんの距離が近くて、毎日、朝礼が行われていました」(杉浦氏)


京王プラザホテルともなれば、さすがに社長と社員が顔を合わせる朝礼のような恒例行事はない。


「お一人おひとりが情熱を持って努力を重ねながら働いている。同時に、品質向上のためには機械化も否定せずに進め、あらゆるデータを分析専門のスタッフの方が詳細に見て、その結果をみなさんが見られるように壁などに掲示されていました」(同氏)


コロナ禍の折、京王プラザホテルでも、とくに朝食時間などのコアタイムに、食事を終えた皿を配膳ロボットが自動で運ぶようなDX化を進めている。その一方で、顧客とスタッフとの間の会話やコミュニケーション、サービスについては、決して水準低下を招くことのないよう、社をあげて取り組んできた。


「ご宿泊客の自動チェックイン機能などのDX化を進めることで、おもてなしという本業により注力していこうと取り組んでいます」(同氏)


旭酒造の脇園氏も、京王プラザホテルのその「おもてなしの精神」に学んだと強調する。


「常にこまやかな気遣いをしながら仕事をする場面が多いので、神経をすり減らすような疲れを感じました」(脇園氏)


■ホテルの接客経験が、酒造りの現場で生かされる


旭酒造から京王プラザホテルへ「交換留職」していた濱渦大夢氏(27歳)も、脇園氏と同じような体験を明かした。「接客経験は一切ありませんでした」と笑う。


旭酒造から派遣された濱渦大夢さん。接客経験ゼロでホテルに飛び込んだ(撮影=ミヤジシンゴ)

「獺祭はオートメーションで大量に造られているという先入観をお持ちの方が少なくないようですね。ホテルのレストランでお客様に接するとき、『獺祭を造っている旭酒造から派遣されて来ています』とご挨拶して、ご質問にお答えしていました。私たちはどうしてもこと細かにご説明しがちなので、専門用語などは避けて、わかりやすい会話を心がけているうちに、『そういうことを知ったうえで飲むのと知らずに飲むのとでは全然違うね』と喜んでくださることがありました。対話を通してお客様の認識を目の前で変えられたことが、すごくうれしかったです」(濱渦氏)


自ら試行錯誤する場面もあった。


「お飲み物のお代わりをどのようにお勧めしようかと気後れしたり、コースでは次のお料理をどのタイミングでご提供しようかと迷ったりと、緊張感がすごかったですね」(同氏)


価格に見合った商品とサービスがあると、身をもって知るところとなる。


「この出向がなければこんな高級ホテルで働くということは絶対なかったと思います。常に周りの人に気を配り、いろいろなことを気にかけながら仕事をする。それは、接客だけでなく、酒造りの現場で主任として部下を見るうえでも役に立つ経験になると思います」


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旭酒造の桜井社長と「交換留職」中の社員 - 撮影=ミヤジシンゴ

■同僚のミスのフォローから垣間見た「本当の気配り」


旭酒造社長の桜井氏は、「お客様の側に立った少しずつの積み重ねが価値になっていくと思いますし、うちの社員たちにも、より積極的に経験を重ねることで学んでほしい」と話す。


京王プラザホテル社長の若林氏は、「価格とは最終的にはお客様が決めるものです」という。


「その料理やサービスに対して価格が高いと思えば、お客様はいらっしゃらない。桜井社長がおっしゃるように、手間と努力を惜しまずに物やサービスをつくりあげていくというわれわれの目標は、いつまでも変わらないと思いますね」


自社の精鋭たちを派遣する社長の桜井氏も、山口の本社で安穏としてはいなかった。所用で上京し、ホテルに泊まるのは日常のことだが、都心に来るとあらば、自社の従業員を気にかけずにおかない。たとえば、ご飯茶碗は左に、汁物は右に——という右利きを旨とする日本の食文化ひとつをとっても、ホテルパーソンのこまやかな気配りは実に行き届いている。


桜井氏いわく——。


「うちから留職している社員がお客様にお出しする料理の配置を少し誤って提供してしまった。そのとき、ホテルの方がさりげなくフォローして置き直してくださり、誤った本人が萎縮したりしないように、こまやかに目配りをしながらそっと教えてくださっていました。本当の気配り、おもてなしを体感しました」


撮影=ミヤジシンゴ
酒造りの現場だけでは得られないものがあった - 撮影=ミヤジシンゴ

濱渦氏は、「私はそれまで接客ということを全くしてこなかったので、ほかの人に比べてガチガチになっていたと思います」と語った。


酒造りとはまた別の世界のプロフェッショナルの真髄に、派遣される従業員だけではなく、社長もまた改めて触れることになった。


■悔しさを隠し、アンチ獺祭の客を接客。すると帰り際に…


広報部門の支配人として、交換留職体験者たちのレポートやエピソードを見聞きする京王プラザホテルの杉浦氏は、旭酒造から派遣されていた1人の男性蔵人の例を明かした。


京王プラザホテル内の日本酒バー「天乃川」へ1人で訪れた男性宿泊客が、カウンター越しに接客スタッフに対し、彼が旭酒造から派遣されているとは知らず、「獺祭は機械で造っているから好きじゃないんだよね」と渋い顔をしたことがあった。


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日本酒バー「天乃川」。全国の日本酒がここで楽しめる - 撮影=ミヤジシンゴ

先述の脇園氏が出会った来店客もそうだが、獺祭はまたたく間に日本を代表する高級日本酒ブランドにのし上がったことから、画一的な大量生産がなされているというイメージに結びつき、判官びいきの裏返しにはなりやすい。


ホテルマンに徹した彼は、悔しい思いを表情には出さず、「そうでいらっしゃいましたか」と応じ、獺祭を勧めることを控えた。


獺祭の玄米である山田錦と、精米歩合45%、39%、23%と透明なケースに収めた現物をカウンターに置いてあり、客は手に取って見ることができるようにもなっている。客とスタッフとの会話も弾みやすい。


食事と自分好みの酒を楽しんでいた客は、帰りしな、カウンターの向こう側にいる控えめで気配りの快い若いスタッフとの静かな会話を通して、彼が旭酒造から「留職」している身であると知るに至った。


「ごちそうさま」と一言を残して席を立ったその男性客は、会計カウンターのスタッフに、小声で「バーのカウンターの彼、旭酒造の人なんだね。なんだか悪いことをしちゃった」と詫びた。支払いを終えると、「また明日来て、獺祭を飲むよ」と苦笑いを見せて店をあとにしていった。


撮影=ミヤジシンゴ
カウンターでの接客から新しいファンが生まれた - 撮影=ミヤジシンゴ

■広場のように人が行き交うことで、新しい風土が生まれる


「連泊中のお客様だったようで、本当に次の日もお一人でいらして、獺祭を上機嫌で3合も飲んでいかれたそうです。お客様にだけでなく、私どもにとってもサプライズになったケースだと思います」(杉浦氏)


京王プラザホテルと旭酒造、そのサービス、商品を、足し算から掛け算に変える一つの瞬間になったということであろう。


京王プラザホテル社長の若林氏は、社名の由来から話した。


「『プラザ』とは『広場』という意味です。私どもは創業時から、多くのお客様が集まって、思い思いに過ごしていただける広場をつくりたいという『プラザ思想』というものがあります」


実際、都心の高級ホテルには珍しく、京王プラザには東西南北に出入口が設けられている。


「とにかく、人が最初にいて、人が中心にあるホテルでありたい。交換留職のように、スタッフを含めた人たちも行き交う広場になって、また新たな風土ができると可能性を感じています」(若林氏)


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コロナ禍を契機に始まった「交換留職」。スタッフが行き交うなかで相乗効果が生まれている - 撮影=ミヤジシンゴ

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樽谷 哲也(たるや・てつや)
ノンフィクション作家
1967年、東京都生まれ。総合雑誌編集者を経て、98年独立。大手流通雑誌で13年半にわたり「革命一代 評伝・渥美俊一」を連載。『文藝春秋』で「ニッポンの社長」「ニッポンの100年企業」など連載人物評伝、ルポルタージュを多数執筆。著書に『逆境経営』(文春新書)がある。
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(ノンフィクション作家 樽谷 哲也)

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