朝ドラのモデル・やなせたかしが1999年9月9日9時9分9秒に開催した衝撃イベント…貫いた「面白がる」生き方
2025年5月30日(金)8時15分 プレジデント社
1953年、日本テレビ開局の頃のやなせたかしさん(写真=『やなせ・たかしの世界 増補版』サンリオ、1996年7月25日/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
※本稿は、物江潤『現代人を救うアンパンマンの哲学』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
■大好評だった架空結婚式
年齢を重ねるにつれ、やなせ先生はどんどんと陽気になり、数多くの愉快なイベントを開催するようになります。陰気な少年時代がまるで嘘のように、多くの人々を喜ばせていったのです。
こうした傾向は、80歳になってから拍車がかかります。音楽の知識がないのに作曲を始め、ド派手な衣装を身にまといステージで歌を披露したかと思いきや、84歳になると『ノスタル爺さん』という曲でCDデビューまで果たしてしまいます。
そんな楽しい数々のイベントのなかから、ここで幾つかの具体例を紹介しましょう。
1996年には、漫画家の里中満智子と、架空結婚式というドッキリのようなイベントを開催しています。実際の結婚式同様、事前の打ち合わせまでしてしまう徹底ぶりで、まさに本番さながらの式でした。式が進むにつれ、本当にふたりは結婚するのかと信じた人もいたことでしょう。そして式の最後、やなせ先生による「漫画家は、このくらいの冗談ができなきゃ、いけません」という含蓄のある言葉で締めくくられ、会場では大爆笑が起きたのでした。
この架空結婚式は、特に女性たちから大好評でした。今度は私を花嫁にしてほしいという依頼が殺到します。そしてその依頼に応えるため、アンパンマンミュージアムのオープン前日に、8人の花嫁を引き連れ前夜祭を実施してしまいました。その後も「偽の結婚式」は継続的に実施され、少なくとも合計で4回は行われたようです。よほど好評だったのでしょう。
■自己評価は「精神的には不老少年で未熟」
1999年には世紀末に関するイベントが実施されます。9月9日9時9分9秒に9の文字に別れを告げるという、赤塚不二夫も真っ青のナンセンスな催しでした。やなせ先生が自身について「精神的には不老少年で未熟」と評したように、まるで中学生が考えたかのような企画でもあります。
1953年、日本テレビ開局の頃のやなせたかしさん(写真=『やなせ・たかしの世界 増補版』サンリオ、1996年7月25日/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
しかし、そんな少年の発想のような企画を運営・演出するのは、元祖マルチタレントのやなせ先生なので、中学生の文化祭とはわけが違います。しかも、基本的にいつでも無料で招待してしまうのですから、大盛況にならないわけがありません。なお、世紀末イベントに関しては1999円99銭の会費が生じましたが、5000円相当のお土産がついてきました。
2001年にはミュージカル『涙のデュオ』を上演します。いつものように作詞作曲そして歌手も含め、あらゆる仕事を無償でやってしまいました。
このとき、やなせ先生はインフルエンザに罹患するも策を弄して強硬出演しています。その後、病院に行くと腸閉塞の診断が下り即入院しますが、なんと次の日には同ミュージカルに出演してしまいます。これを82歳でやってしまうというのは無謀な気もしますが、本人が楽しくて仕方がないのですから致し方ありません。聞こえてくる絶賛の声に対し「これがこたえられない」「これがもうメチャクチャうれしい」と喜びの声をあげています。
■「人生は喜ばせごっこ」を信条にマジックショー
一方、こうして楽しくイベントを開催する間も病は進行していき、2005年からの2年間で10回も手術をしました。退院する際、看護師から「また、いらっしゃい」と声をかけられたやなせ先生は「二度と来るか」と応酬するものの、二度どころか幾度となく病院のお世話になることになります。そして入院中、やなせ先生は山のように積みあがった仕事をし続けたのでした。
物江潤『現代人を救うアンパンマンの哲学』(朝日新書)
退院後、全快祝いのパーティーをしたこともありました。ご承知のとおり、全快祝いとはお見舞いのお返しのことですが、「人生は喜ばせごっこ」を信条とするやなせ先生からすれば、形式ばったお返しをしても相手が喜ばないと思ったのでしょう。ここでもやはり、楽しくて仕方のないイベントにしてしまいます。
2001年に実施された全快祝いのテーマは「手術」で、その内容はマジックショーでした。それも、十円玉を移動しますといった素人マジックではなく、わざわざプロのマジシャンまで呼ぶという力の入れようです。
ステージいっぱいに鉄骨が組まれた大掛かりなステージで、マジックショーが始まります。救急車のサイレンとともに、やなせ先生が手術室に運ばれてきました。しかし、手術の最中にやなせ先生は空中に浮遊したうえに、銃声とともに姿を消してしまいます。そうこうするうちに、消えたはずのやなせ先生は白いタキシードとマントを身にまとい、ナースたちと一緒にステージで踊っていたのでした。ここまでくると、もはや個人的なパーティーのレベルを完全に超えています。
■自分の意志に素直に従えばよい
やなせ先生が晩年に見せた、年齢にとらわれない楽しい生き方もまた、「目的の国」がなせる業です。「目的の国」は、本当に自由な国です。「いい年齢をして……と思われないために」といった目的や、恥をかくかもしれないという予想される帰結はかなぐり捨ててしまいます。
ここで浮かび上がってくるものが「意志」です。目的や予想される帰結ではなくて、自分の意志が大切になります。目的や帰結なんかに縛られることなく、意志に従って行動をすればよいということです。
子どもは子どもらしく。男は男らしく。女は女らしく。
世の中には「らしくあれ」という常識があふれています。
でも、「子ども」「男」「女」という枠をはめて、個性を認めようとしない、この「らしく」という言葉が、僕は好きではありません。
老人は老人らしく。いい年をして……。
こういう発想は、高齢者の行動を束縛し、元気を奪うようなもの。
目の前にあるおもしろそうなことを、本当はやってみたいのに、「老人らしく」「いい年をして」という言葉が頭をよぎってやらないとしたら、本当にもったいない。
(やなせたかし著『93歳・現役漫画家。病気だらけをいっそ楽しむ50の長寿法』小学館、2012年)
「目的の国」はとても楽しく、そしてシンプルな場所でもあります。意志が自分に「……せよ」と命じれば(定言命法)、人間(人格)を尊重するといったルールに反しない限り、素直に従えばよいわけです。派手なタキシードを着てコンサートを開いたり、ナンセンスで愉快なイベントを開催したりしても何ら問題ありません。
■「やりはじめると面白くてしかたがない」
こうした日々を送ることで、やなせ先生には次から次へと人と仕事がやってきました。「困ったときのやなせさん」という理由だけでなく、一緒に仕事をするのが楽しかったからです。やなせ先生がつくった「目的の国」に人々は惹かれ、そしてその輪は広がっていきました。
もちろん、そんなスケールの大きな話だけではなくて、ちょっとした日常においても同じことが言えます。やなせ先生が九十三歳の時、深夜の仕事場で「ぬけば無敵のカツブシケン」と歌い踊りながら、『それいけ!アンパンマン』に登場する「かつぶしまん」の歌を作詞作曲していたように、いつだって年齢なんて考えず自分の意志に忠実であればよいわけです。
やなせ先生自身「自分でもいい年して何をやっているんだと思うがやりはじめると面白くてしかたがない、すっかり自分がかつぶしまんになったつもりで跳ね回ってしまう」と述べています(やなせたかし著『これじゃあ死ぬまでやめられない! 続オイドル絵っせい』フレーベル館、2014年)。
■闘病生活を笑い飛ばした漫画家精神
最晩年まで、やなせ先生には「好奇心が強く、知的でユーモラス、物事を面白がるということ」を意味する漫画家精神がありました。
かつぶしまんになりきって作詞作曲をした件はもちろんのこと、そんな漫画家精神は自身の病気にさえ発揮してしまいます。病気だらけの自分を“病気の総合商社”“十病人”“無理若丸”だと呼んで笑い飛ばすことで、苦しいはずの闘病生活にはユーモアが添えられていきました。「人生は喜ばせごっこ」に「漫画家精神」が加われば、毎日が楽しくなるに決まっています。
何事もネガティブにとらえ、たとえ成功を積み重ねても悩みの尽きなかったやなせ先生は、もうどこにもいません。アンパンマンと柳瀬夫人とともに、長い年月をかけて形作っていった思想は、やなせ先生の人生を劇的に変えたのです。
写真=AFP/時事通信フォト
2013年5月1日、東京で開催されたやなせたかし氏の個展にて、漫画家やなせたかし氏と名キャラクター「アンパンマン」(左) - 写真=AFP/時事通信フォト
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物江 潤(ものえ・じゅん)
著述家
1985年福島県生まれ。早稲田大学理工学部卒業後、東北電力に入社。2011年退社。松下政経塾を経て、現在は地元で塾を経営する傍ら、執筆に取り組む。著書に『ネトウヨとパヨク』『デマ・陰謀論・カルト』など。
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(著述家 物江 潤)