株価80分の1、倒産寸前から奇跡の生還 リーマン・ショックに直面したケネディクス社長の「意外な初動」
2024年9月20日(金)5時55分 JBpress
1995年に設立され、日本における不動産ファンドビジネスの先駆者として急成長したケネディクス(旧 ケネディ・ウィルソン・ジャパン)。2004年に東証一部上場を果たし、最盛期には時価総額2000億円を記録した。しかし、2008年のリーマン・ショックを境に株価が急落し、倒産危機に直面する。苦難の2年間をいかにして乗り越え、生還を果たしたのか──。2024年6月、書籍『100兆円の不良債権をビジネスにした男』(プレジデント社)を出版したケネディクス元代表取締役社長の川島敦氏に、不動産ファンド業界に飛び込んだ理由と、経営危機に直面した当時の対応について聞いた。(前編/全2回)
■【前編】株価80分の1、倒産寸前から奇跡の生還 リーマン・ショックに直面したケネディクス社長の「意外な初動」(今回)
■【後編】三井住友銀からの巨額融資140億で危機脱出、ケネディクス元社長・川島敦氏が「有事から得た教訓」
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米国流「不動産ファンドビジネス」に感じた可能性
──著書『100兆円の不良債権をビジネスにした男』では、川島さんがケネディクスの前身であるケネディ・ウィルソン・ジャパンに転職した2000年ごろの出来事が書かれています。三菱商事から安田信託銀行に転職し、さらにケネディ・ウィルソン・ジャパンに移り「未知のビジネス」に挑戦する、その原動力は何だったのでしょうか。
川島敦氏(以下敬称略) 一番の原動力は「好奇心」ですね。安田信託銀行では不動産ビジネスについて一定の経験を積んだつもりでした。しかし、ケネディ・ウィルソン・ジャパンに出向したとき、米国流の不動産ファンドビジネスに新たな可能性を感じたのです。
「米国流の不動産ファンドビジネスが、日本の旧態依然とした不動産業界の慣習を変えるかもしれない」「変わるのならば、それを自分の目で見たい」と思いました。
それまでも、転職の際は得るものと失うものを比較して「得るものが多そうだ」と感じれば、転職を決断していました。仮に失敗したとしても、また元の業界に戻ればいいと思っていましたね。
──米国流のビジネスモデルが日本国内で広まる、という確信はどの程度あったのでしょうか。
川島 成功の確信はありませんでしたが「面白そうだな」と思いました。当時の不動産ファンドビジネスは、アメリカでも良い時期と悪い時期を経験してようやく一つのサイクルが終わった段階です。一方で、日本国内ではほとんど事例がありませんでした。
それでも、三菱商事時代の上司で、ケネディ・ウィルソン・ジャパンのトップを務めていた本間良輔氏の話を聞いた時、「銀行で悠長に仕事をしている場合じゃない」と居ても立ってもいられなくなったのです。
初めのうちこそ安田信託銀行からの出向という形を取りましたが、ケネディ・ウィルソン・ジャパンでの仕事は毎日刺激的で、安田信託銀行に戻る気はすぐになくなりました。
出向契約の満了まで半年を残したところで退職を切り出し、役員と何度も話し合いを重ねて、最終的には「不動産ファンドビジネスで得たノウハウを優先的に安田信託銀行の若手に伝授すること」を条件に顧問契約を締結し、ようやく転職が許されました。
不動産ファンド業界が迎えた「熱狂と興奮の時代」
──日本国内では不動産ファンドの取引事例がほぼないところから始まったとのことですが、業界関係者の理解を得るまでにどのくらいの時間を要したのでしょうか。
川島 3年から4年くらいは大変でしたね。当時の不動産オーナーのほとんどは「土地を持っていれば価値は必ず上がる」と信じていましたし、「外国人に不動産を売るなんてとんでもない」とかたくなでした。
日米間では不動産取引の流れも大きく異なりました。日本国内での不動産売買というと、測量して坪単価を基準に土地の取引額を決めたら、ほとんどがB4サイズの紙2枚で契約締結します。
一方、米国ではデューデリジェンス(適正評価手続き)に力を入れており、100万円以上の費用と何カ月もの時間をかけて不動産を調査・鑑定します。私も銀行員時代はデューデリジェンスという言葉すら知りませんでしたから、不動産オーナーはなおさら理解できなかったでしょう。
さらに、アメリカには日本ではおなじみの「手付け金」を払う習慣もありませんでした。エスクロー(信頼のおける第三者を仲介させて取引の安全性を確保する仕組み)によって、買い主は金融機関などにお金を預けるだけで支払い能力があることを証明できるからです。売り主からの「なぜ、手付け金を受け取れないのか」という声にも説明を重ねました。
このように、日米間では不動産契約の慣習が大きく異なっていたため、日本の不動産オーナーに不動産の売却を説得するのは毎回骨が折れたことを覚えています。しかし、タイミングが味方してくれました。
バブル経済の崩壊後、日本の金融機関は100兆円を超える不良債権を抱えており、不動産オーナーは好むと好まざるとにかかわらず不動産を売らなければならなかったからです。国内で不動産を買ってくれそうな人が他に見当たらない以上、外資が提案する米国流のスキームを受け入れるしかなかった、というわけです。
2000年ごろから不動産ファンドビジネスが一挙にブレイクし、2004年に東証一部上場したケネディクスも過去最高益を更新していきました。当時の不動産ファンド業界はまさに「熱狂と興奮の時代」だったと言えるでしょう。
過去最高益を迎えた直後に「サブプライム危機」が訪れた
──ケネディ・ウィルソン・ジャパンは上場後、社名を「ケネディクス」と改め、2007年には川島さんが社長に就任しています。何かビジョンを持っての社長就任だったのでしょうか。
川島 私はあくまでもディールメーカーを自認していましたから、ファンドマネージャーを続けたい気持ちもありました。しかし、13歳上の本間氏から「社長を代わってほしい」と言われ、心を決めました。
こうした経緯もあり、何らかのビジョンや確固たる経営方針を持っていたわけではありません。前任者のやり方を肯定した承継型のリーダーです。
──社長就任1年目に史上最高の決算を記録しましたが、その翌年、米国のサブプライムローン問題に端を発した世界金融危機に見舞われます。当時、この状況をどのように捉えていたのでしょうか。
川島 サブプライムローン問題に関しては、当時はまさに「対岸の火事」でした。しかし、私が交流のあった同業の経営者仲間2人は異変に気付き、先手を打っていたようです。その2社は外部環境の変化も乗り越えてしっかり生き残りました。一方、ケネディクスは過去最高益を迎えたタイミングだったこともあり、私が状況を楽観して後手に回ったことは否めません。
──著書では、2008年春ごろから不動産・建設関連企業の倒産が相次ぎ、ケネディクスの資金繰りも苦しくなった様子を描いています。経営危機に直面した当時、どのような対応から着手したのでしょうか。
川島 周りの同業他社が次々と倒産していくわけですから、社員の皆さんはかなり不安だったはずです。そこで、社長である私の考えていること、会社の置かれた状況や課題を記した「社内向けレター」を正月明けに全社員に向けて発信しました。今後のケネディクスについて正直に書くことで、経営者と社員の不安をシェアし合い一致団結したい、という思いがあったからです。
メールで状況をつまびらかにしたことで「課題が多すぎて会社の再建は無理」「この状態で給与が滞りなく支払われるのか」と社員の不安が増して怒りの言葉が殺到したり、転職者が出たりすることを覚悟していました。一方、経営状態や課題を正直に語ることで「名案を考えてくれる社員もいるかもしれない」という期待もありました。
会社の窮状を伝えても「誰一人として退職者が出なかった」
──実際の経営状態を全社員に知らせるべきか、経営者によって判断が分かれそうです。社員の皆さんの反応はどうでしたか。
川島 ふたを開けてみるとネガティブな反応はほとんどなく、「少しでもキャッシュを稼ぎます」「僕らもやります」「諦めないでください」と数多くの返信がありました。どのメールにもそれぞれの立場で考えた提案や決意、励ましの言葉が書いてあったのです。みんなが「戦闘ポーズ」をとってくれていたこと、そして、その後にも誰一人として退職者が出なかったことに驚き、胸を打たれました。
特に印象に残っているのは、ある社員からの改善案です。私が社内向けレターの中で「ケネディクスには優秀なコンプライアンス部隊、物言う監査役たち、優秀な財務経理部隊がいて非常にうまく営業部隊と連携しているが、これらは一瞬の油断で無に帰する」と書いたことに対して、「『一瞬の油断で無に帰する』体制はまずい。むしろ多少の穴は開いても船が沈まないようにすることが大切ではないか」と指摘してくれました。
「その通りだな」と、自分の甘さを反省すると共に、社員がケネディクスの危機を経営者目線で捉えてくれていること、何をすべきかと知恵を絞ろうとしている姿に感銘を受けたことを覚えています。
その後、2008年末、2009年明けと事あるごとに全社員にレターを送り、「自社がしてきたこと、今すべきこと」「会社の窮状」などを正確に伝えましたが、皆さんからの返信は前向きでポジティブなものばかりでした。
ここから学んだ教訓は、会社は「ヤバい時」こそ平常時よりも経営の見える化を深化させた方が良い、ということです。会社の置かれている状況、解決すべき課題をなるべく詳細に全社員に伝え、社長・経営陣と社員の距離感を思いっきり縮めることが大事だと思うのです。
2009年3月、ケネディクスの株価はピーク時の80分の1にまで落ち込み、同業他社が次々とつぶれる中では「Xデー」も想定して準備をした時期もありました。しかし、数々のステークホルダー、先輩、後輩に支えられながら生還を果たしました。この生き残り手法はピンチに陥った時に、あらゆる産業に共通して実践できるはずです。
【後編に続く】三井住友銀からの巨額融資140億で危機脱出、ケネディクス元社長・川島敦氏が「有事から得た教訓」
■【前編】株価80分の1、倒産寸前から奇跡の生還 リーマン・ショックに直面したケネディクス社長の「意外な初動」(今回)
■【後編】三井住友銀からの巨額融資140億で危機脱出、ケネディクス元社長・川島敦氏が「有事から得た教訓」
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筆者:三上 佳大