「お店」と「家庭」のフランス料理は違うモノ?食べごろの素材をまず並べ、鮮度が関係ないものは違った形のベストな状態で食べるのが<フランス料理>
2024年3月29日(金)12時30分 婦人公論.jp
(写真提供:Photo AC)
外務省発表の『海外在留邦人数調査統計』(令和4年度)によれば、フランスには36,104人もの日本人が暮らしているそう。一方、40代半ばを過ぎて、パリ郊外に住む叔母ロズリーヌの家に居候することになったのが小説家・中島たい子さんです。毛玉のついたセーターでもおしゃれで、週に一度の掃除でも居心地のいい部屋、手間をかけないのに美味しい料理……。 とても自由で等身大の“フランス人”である叔母と暮らして見えてきたものとは?
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日本で食べるフレンチは「高級店の形」?
フランスに行って知ることは多い。フレンチ=フルコース、という定番の思い込みがあるけれど、フルコースという食べ方の本来の意味も、今回来てみて、そういうことなんだ、とわかった。
日本だと、子供はお祝いの席などで、フォークとナイフの使い方を教わりつつ、フレンチのフルコースを初体験することが多い。私も子供の頃から、たまにだけどホテルやレストランの厳(おごそ)かなムードの中でフランス料理を食べることがあった。
けれど、小学生で初めてフランスに行ったとき、その日本のフレンチと叔母の料理は、まったくくっつかなかった。日本で食べるフランス料理となぜ違う? と子供ながら思ったものだ。
「レストランで食べるお料理と、家庭のお料理は違うのよ」
私が問うと母は返した。日本で食べるフレンチは「高級店の形」だという。それが本当かどうか確かめたいから、フランスにいるうちに高級店に連れて行って欲しい、と母に頼んだけれど、却下された。
「お店のフランス料理」も「家庭のフランス料理」も同じ
非常に心残りだったので、今回の旅行で、もういい大人だから自腹で確かめてみた。
いとこのソフィーおすすめの、ワイン販売会社が営んでいるというパリの洒落たレストランで、本場のフルコースを初体験。確かに、日本のフレンチレストランと同じように、厳かに料理が運ばれてきて、リッチで、その形態に大きな違いはなかった。
でも、子供の自分に、今私はこう言って訂正したい。「お店のフランス料理」も「家庭のフランス料理」も同じです。大きな違いはありません、と。
なぜそう思ったかというと、ソフィーが子供たち(五歳と八歳の男の子)に食事をさせているのを見ていたら、それがちゃんと「フルコース」になっていたから。
ある日のメニューでは、彼女は子供たちに可愛らしい二十日大根みたいなものを渡して、食べさせるところから食事をスタートさせていた。これはフルコースで言うところのオードブルだ。
二人がそれを食べ終えると、野菜スープを注いだ小さなカップが置かれて、子供たちはゆっくりそれを楽しむ。飲み終わったら次はメイン、魚の切り身をのせた玄米のリゾットのようなもの。そしてデザートに甘いヨーグルトみたいなものを食べて、終わり。
テーブルに着いた男の子たちが、まずは葉付きのちっちゃい大根を握って、生のまま楽しそうにかじるのを見て、「オードブル」というものはフレッシュなものを見て、食べて、食欲を盛り上げていくものなんだなぁ、と今さら知った。
子供のときに体験した「フランスの味」を思い出してみる
叔母が作ってくれる夕食も、庭で穫れた野菜から始まることが多い。だから子供のように勢いよく手が皿にのびてしまう。
生ハムや牡蠣など生で食べるものを買ってくれば、一番初めにそれが出てくる。そしてグラタンや煮込み料理など、火をよく通した方が美味しい食材で作ったメインの料理があり、チーズかフルーツが続いて、最後にデザート。
レストランのフルコースと同様に順番に食べてはいるが、仰々しい雰囲気はなく、とても自然な流れで一つ一つを大事に食べていることに気づく。
高級店では、これでもかと趣向を凝らして作った料理が一品一品、客を驚かそうとばかりに出てくるから、なんとなく「ゴージャスな食事」という印象になるけれど、必ずしもそれはフランス料理の真髄ではない。本場のフルコースは「全ての食材をどうやってベストの形で食べるか」というコンセプトから生まれている。
子供の私が感じた、日本のフレンチと本場のフレンチの違いも、もしかすると、順番に出てくるとか、見た目が凝っているとか、そういうことではなかったのかもしれない。そこで改めて記憶をたどってみようと、子供のときに体験した「フランスの味」というものを、まずは思い出してみることにした。
鮮明に思い出すのは、素材の味
最初によみがえったのは、幻の黄緑色のフルーツ。丸くて小さくて、青い梅みたいなんだけれど、味はメロンのようでもあった。フランスで食べたきり二度と見たことがなくて、未だに正体がわからず、本当にあったのか、想像物なんじゃないかと思うぐらいだ。
熟れていない青い洋梨も、いとこたちの真似をして喉が渇くと水代わりにかじった。叔母がむいてくれたアーティチョークの甘さもおぼえている。パリの中心に遊びに行ったときは、微炭酸にレモンが入っている「シトロン」という飲み物を買ってもらった。蒸かしたじゃがいもに溶かしたチーズをかけて食べるラクレットも大好きで、これは日本のチーズでやっても美味しくないだろう、と子供ながらに思ったものだ。
どれも日本に持って帰りたかったけれど、日本人の子供の口に合わないものもあった。色々な野菜を一緒に焼いたオーブン料理が出されて、今思うとラタトゥイユ的なものではないかと思うが、知らない野菜の苦みが強くて、どうにも食べられなかった(今食べたら、美味しいんだろうなぁ)。表皮が黒い大根にもびっくりしたが、水分がなくてすかすかで美味しいと思わなかった。
「フランスのフレンチは素材の味が強烈で、またそれを引き出すような絶妙な調理の仕方をしているのに、なぜ日本のフレンチはそれをしてないの?」(写真提供:Photo AC)
どちらにしろ鮮明に思い出すのは、素材の味だ。このように記憶を並べてみると、私の中で「日本のフレンチ」と「叔母の料理」がなぜくっつかなかったか、本当の理由が見えてくる。当時はまだ十歳でボキャブラリーがなかったからしかたがないが、もし今だったら、私は母親にこのように投げかけているだろう。
「フランスのフレンチは素材の味が強烈で、またそれを引き出すような絶妙な調理の仕方をしているのに、なぜ日本のフレンチはそれをしてないの?」
日本のフランス料理にダメ出ししているように聞こえたら(聞こえますね)申し訳ないけれど、あくまで四十年近くも前の話なので(最近の日本のフレンチは、本家を超えている店も多いと思います)。自分に味覚のセンスがそこまであるとも思っていない。けれど、子供の舌は敏感だから、ちゃんと素材の味を拾っていたのではないだろうか。
新鮮で食べごろの素材をまずは食卓に並べ、鮮度が関係ないものは、また違った形のベストな状態で食べる。むしろ合理的。それがフランス料理なのだ。
※本稿は、『パリのキッチンで四角いバゲットを焼きながら』(幻冬舎文庫)の一部を再編集したものです。