本郷和人『べらぼう』<お前は…骨の髄まで女郎だな>妻・瀬以を追い詰める鳥山検校。歴史に名を残す当道座の人々には「誰もが知る京都銘菓」に繋がる人物も…
2025年4月4日(金)12時28分 婦人公論.jp
(イラスト:stock.adobe.com)
日本のメディア産業、ポップカルチャーの礎を築き、時にお上に目を付けられても面白さを追求し続けた人物“蔦重”こと蔦屋重三郎の生涯を描く大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』(NHK総合、日曜午後8時ほか)。ドラマが展開していく中、江戸時代の暮らしや社会について、あらためて関心が集まっています。一方、歴史研究者で東大史料編纂所教授・本郷和人先生がドラマをもとに深く解説するのが本連載。今回は「当道座の人々」について。この連載を読めばドラマがさらに楽しくなること間違いなし!
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「骨の髄まで女郎だな」と瀬以へ詰め寄る鳥山検校だが…
今回のドラマで、妻・瀬以と蔦重との関係を疑い、場合によっては蔦重を「不義密通の罪」で斬る可能性をちらつかせた鳥山。
必死に関係を否定する瀬以の足元に蔦重から贈られた本をばらまくと、「いくら金を積まれようと心は売らぬ…。そういうことであろう? お前は…骨の髄まで女郎だな」と詰め寄るその姿に、身震いを覚えた視聴者の方も多かったのでは。
次回予告を見ると瀬以ともども幕府に捕まるようで、彼らがこの先どうなるか、まったく予断を許さない状況ではありますが…
今回もその鳥山検校の所属する当道座の人々について触れたいと思います。
八つ橋の名の由来
話はやや変わりますが、京都の銘菓といえば、やっぱり八つ橋。だれしも京みやげとして、一度は買ったことがあるのではないでしょうか。
本郷先生のロングセラー!『「失敗」の日本史』(中公新書ラクレ)
では八つ橋の名の由来はご存じですか?ああ、生の八つ橋も美味しいですが、古くからの八つ橋は干菓子の方なんです。この干菓子は湾曲した長方形をしていますが…このかたち、何を模しているでしょう?
答えはお箏。
ちなみに、箏曲の開祖として尊敬されている人が八橋検校(1614〜1685)。
上方文化の花が咲き誇る元禄2年(1689年)、聖護院の森で箏のかたちをした干菓子の販売が始まりました。八橋検校の業績を偲び、お菓子は「八ツ橋」と名付けられた、といいます(ただし、『伊勢物語』に由来するという別の説もあります)。
日本の箏の基礎を作り上げた八橋検校
この連載でも以前に説明しましたが、江戸時代、目の不自由な人は「当道座」という組織に属し、琵琶、平曲、鍼灸、箏曲、三弦などの習得に努めていました。
検校、別当、勾当、座頭の4官、73刻みの位階で構成される当道制度があったそうで、このあたりのことは戦前に活躍された民俗学者・中山太郎(1876〜1947)の『日本盲人史』(1934年)に詳細に記されています。
八橋検校は現在の福島県に生まれ(異説アリ)、名は城談もしくは城秀。寛永年間に摂津において、三味線の技で名を挙げました。
その後、江戸に下り、筑紫の僧・法水という方に師事して筑紫流箏曲を学びました。その後、この箏曲を基に、現在の日本の箏の基礎を作り上げたのです。
各界で活躍した「検校」
箏曲といえば、「宮城検校」と呼ばれた宮城道雄(1894〜1956)の名を忘れるわけにはいきません。
神戸に生まれ、8歳で失明した道雄は生田流の箏を学び、11才で免許皆伝を受けました。14歳で処女作『水の変態』を作曲、伊藤博文に認められました。この後、作曲家、演奏家、さらには随筆家として幅広く活躍し、東京芸大で後進の指導にも当たりました。
お正月に至る所で流れる名曲『春の海』は道雄35歳の時の作品です。
音楽関係以外でも、目の不自由な方は大きな仕事をされています。
まずは杉山検校(1610〜1694。名は和一。伊勢国安濃津(三重県津市)出身の鍼灸師です。
鍼を管に通して打つ施術法である管鍼法を始めました。鍼医として5代将軍徳川綱吉に仕え、その支援を受けて「杉山流鍼治導引稽古所」を開設しました。
この稽古所は鍼・按摩技術の取得を目的とした教育機関で、世界初の視覚障害者のための教育施設とされています。
著者に繋がる国学者も
次に塙検校(1746〜1821)。名前は保己一。国学者であり、歴史学者でもあります。日本各地に散在していた古い書物を集め、『群書類従』『続群書類従』を編纂しました。
書を見ることができないので、人が音読したものを暗記して学問を進めた、といいます。まさに超人というべきでしょう。
あのヘレン・ケラーさんも保己一を尊敬し、来日したときには彼の足跡を訪ねた、といいます。
保己一の活動は、ぼくが在籍している史料編纂所の仕事に繋がっていきます。
その史料編纂所の所長を務められた本郷恵子氏は、かなり後年まで「塙・保己一」先生ではなく「塙保・己一」先生だと認識されておられましたが、これは夫でもあるぼくだけが知るここだけの話です。
様々な分野で歴史に名を残している当道座の人々
最後に米山検校(1702〜1772)。
貧農の生まれで、ほぼ無一文で江戸へ出てきたのですが、奥医師であった石坂家の門前で行き倒れてしまいます。ところが運良く石坂家に救われ、鍼の修業を積むことができました。
やがて鍼医師として大成し、後進の指導にも熱心に取り組みました。また利殖の才にすぐれ、冨を蓄積しました。彼はこの冨を用いて、飢饉の時に積極的に民の救護に従事しています。
米山検校は、1769年(明和6年)に旗本男谷家の株を買いました。そのため、彼の子は100石取りの旗本になりました。幕末の剣豪・男谷信友は検校の孫、勝海舟は曾孫に当たるそうです。
八橋検校、杉山検校については、ドラマの最後に流れる「べらぼう紀行」でも紹介されていましたが、当道座の人々は様々な分野で歴史に名を残しているのです。
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