松平健「芸能生活50年、17歳で上京したとき、母だけが応援してくれた。『暴れん坊将軍』や『マツケンサンバ』でお茶の間に愛されて」

2024年4月28日(日)12時45分 婦人公論.jp


「SNSを通じて認知が意外な方向に広がっていくのを、驚きつつもありがたく受け止めています」(撮影:木村直軌)

〈発売中の『婦人公論』5月号から記事を先出し!〉
ある時は時代劇スターとして、ある時はド派手な衣装に身を包んだエンターテイナーとして、あらゆる世代から愛される松平健さん。視聴者を楽しませ、新しい挑戦を続ける姿勢の原点には、師匠・勝新太郎さんの言葉がありました(構成=上田恵子 撮影=木村直軌)

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初めての時はお客さんが引いていた


今年、芸能生活50年を迎えます。持ち歌の「マツケンサンバII」のおかげで、小さなお子さんや若い人まで私のことを知ってくださっているようです。

先日もバラエティ番組のロケでゆいちゃみさんという方とご一緒した際、「TikTokで見ています!」と言われました(笑)。SNSを通じて認知が意外な方向に広がっていくのを、驚きつつもありがたく受け止めています。

この「マツケンサンバII」は2004年に発売された楽曲です。もともと私の舞台では、第一部は芝居、第二部は歌と踊りのショーをお見せして、フィナーレでお祭り騒ぎのように盛り上がって帰っていただくという演出をしていました。

最初は「松健音頭」「マツケンマンボ」といった曲を披露していたのですが、徐々に「もっとテンポの速い曲をやろう」ということになっていき、ラテン系の「マツケンサンバI」「マツケンサンバII」が誕生したのです。

金のスパンコールのコスチュームは、「サンバだから、リオのカーニバルを着物でやったらどうかな?」と思いついたもの。たまたま訪れたニューヨークの生地専門店でスパンコールの生地を見つけ、「これを衣装にしよう」とひらめいたのです。着物だけキラキラしているのもおかしいから、頭にも金の飾りを付けてね。

それまであんな着物を着た人はいなかったと思うので、初めてその出で立ちで登場した時は、お客さんが引いていましたね(笑)。私はすごく楽しかったです。

2020年には、「マツケンTube」というYouTubeチャンネルを立ち上げました。これはコロナ禍で環境が大きく変わり、あらためて仕事の大切さに気付いて始めたものです。

25年間続いた時代劇『暴れん坊将軍』が終了したのが2003年。ずいぶん経ちましたが、最近は「サンバ」をきっかけに「暴れん坊」に興味をもって、時代劇専門チャンネルなどで見てくださる方も多いのだとか。

『暴れん坊将軍』に出演していた頃は、役のイメージを崩さないように、仕事選びに気を付けていました。が、終了した今は、仕事の範囲を広げると決め、オファーされたものはできるだけお受けする方向でいます。


舞台からスタートしたという、「マツケンサンバ」

男たるもの、冒険しないといけない


私の出身は愛知県豊橋市です。子どもの頃はよく、暗くなるまで缶蹴りや忍者ごっこをして遊んでいました。ひょうきんで、人を笑わせるのが好きでしたね。学校では生徒会長のように目立つ存在ではなく、その横で応援しているタイプでした。

役者を目指すきっかけになったのは、10代の頃に見た石原裕次郎さん主演の映画『太平洋ひとりぼっち』です。確か石原プロモーションの第1回製作映画だったと記憶しています。裕次郎さん演じる主人公が、ヨットに乗って一人で太平洋を横断するというストーリーに衝撃を受け、「男たるもの、冒険しないといけない」と考えるようになりました。

もともと私は、小さい頃から映画館に通っていた映画好き。最初に見たのは小林旭さんの作品で、それ以降、浜田光夫さんと吉永小百合さんの『愛と死をみつめて』、舟木一夫さんが主題歌も担当した『絶唱』など、たくさんの日活映画を見てきました。

と言うのも、大工だった父が日活の映画館の社長さんの家を手入れしていた関係で、よく招待券をもらってきてくれたのです。

17歳で上京して役者になると言った時、兄弟は「お前は何を言っているんだ」と大反対。その頃すでに父は亡くなっていて、母が苦労して家計を支えていました。

そんな中で母だけが、「好きなことをやりなさい」と応援してくれたのです。私の手にお金を握らせ、東京へと送り出してくれた日のことは、生涯忘れることができません。

母は、『暴れん坊将軍』が始まった2年後に亡くなりました。親孝行らしいことは何もできませんでしたが、ドラマへの出演をものすごく喜んでくれて。せめてもの恩返しになったのかなと思っています。

今も生きる勝新太郎師匠の教え


上京して真っ先に向かったのは、石原裕次郎さんのご自宅でした。今では信じられないことですが、昔は著名人の住所が週刊誌で公開されていたのです。それを見て伺ったものの、裕次郎さんには会えず。出て来た方に「石原プロに入りたいのですが」と直訴したところ、「会社に電話してください」。

それならばと石原プロに連絡をするも、「今、役者の募集はしていません」と門前払いされてしまって。考えたあげく、新聞広告の募集で見つけた俳優養成所に入所することにしました。

勝新太郎師匠に出会ったのは4年後、私が21歳の時です。その後、勝プロダクションに入り、師匠の付き人をすることになりました。そして、師匠主演のドラマ『座頭市物語』でデビュー。翌年には、ドラマ『人間の條件』で初の主役を演じました。

師匠からはたくさんのことを学びました。ある時、言われたことがあるんです。「お前は矢だ。俺が放ってやるからどこまでも飛んでいけ。頑張るのをやめたら矢は地面に落ちるが、努力を忘れなければいつまでも飛び続けられる」と。それは今でも私の座右の銘になっています。

とにかく言動のすべてが豪快で、こうした公の場で披露できるエピソードがあまりないのが残念なのですが(笑)、本当に人を驚かせ、楽しませることが大好きな人でした。師匠のその精神は、今の私の舞台にも生きていると思います。

この松平健という芸名は勝プロに入る前から。もう50年以上の付き合いになります。もともとは松本二郎という芸名だったんですけれど、当時のプロデューサーが付けてくれました。

おそらく私が三河出身だということで「松平」になったのでしょうね。その後にまさか、徳川吉宗役を演じることになるとは思いませんでした。今にして思えば、ご縁ですね。

『暴れん坊将軍』への出演が決まったのは、23歳の終わり頃でした。撮影は京都で行われ、2話を11日間で撮るスケジュール。途中でNHKの大河ドラマの仕事が入るなど、かなり忙しかったですね。撮影が終わる11日ごとにスタッフ、キャスト一同で打ち上げをして、大いに飲んだのもいい思い出です。

当初は3ヵ月で終了すると噂に聞いていたので、まさかその後25年にわたって続き、832話を数える大作になるとは思いもしませんでした。やはり大人も子どもも安心して楽しめるところが、お茶の間の皆さんに支持されたのでしょうね。

子どもたちに向けては「悪いことをすると成敗されるよ」という教えもありますし、日本人の好きな人情もたっぷり入っている。そういったところが長く愛された理由なのでしょう。

<後編につづく>

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