なぜ、日本外交は弱腰なのか?その最たる「対中外交」の元凶とされる外務省チャイナスクールの実情
2025年5月3日(土)6時0分 JBpress
(山上信吾:前駐豪大使)
外務省の全てを知る前駐豪大使・山上信吾氏が、これまで語られることがなかった日本外交の闇に鋭く言及。アメリカ、中国、ロシアとどう対峙していくべきかを提言する。
※この記事は、『国家衰退を招いた日本外交の闇』(山上信吾著、徳間書店)から一部抜粋・編集しました。
弱腰外交の原因
外務省を退官した今、日本各地で講演をし、メディアのインタビューに応じるたびに必ず聞かれる質問がある。
「なぜ、日本外交はあんなにも弱腰なのですか?」
「なぜ、外務省は毅然と物申さないのですか?」
こう聞かれると、私は三つの要因が合わさっていると答えるようにしている。外務省に大きな問題があるのを否定する気持ちはさらさらないが、同時に、いくつかの要因が絡み合っているだけに、外務省だけを責めても日本外交はなかなか変わらないのではないか、との思いもあるからだ。
第一の要因は、日本人の国民性だ。
「和を似て貴しとなす」が日本人の誰もが親しんだ教えであり、社会の底流にある大きな流れでもある。まず誰もこれに正面から抗おうとはしない。
特に、領土問題、国家の主権や尊厳に関わる問題、歴史認識問題などでは、「同意する」よりも「見解、立場が違う」と言い続けなければいけないことがしばしばだ。しかしながら、日本外交は妥協してはいけない問題で妥協してきた面が多々ある。
第二の要因は、外務官僚の多くが共有している外交観、すなわち妥協癖だ。
こうした外交観に囚われた者と、それに対する批判が顕著に表れた例を挙げよう。
北朝鮮との交渉で作成された「日朝平壌宣言」の文言である。2002年9月に当時の小泉純一郎総理が北朝鮮のピョンヤンを訪れて金正日総書記と首脳会談を行い、拉致問題の存在を口頭で認めさせた。にもかかわらず、両政府間で作成した文書では「日本国民の生命と安全に関わる懸案問題」という抽象的な表現にとどまり、「拉致」という文言を盛り込むことができなかった。当時の関係者の話を踏まえると、5人の拉致被害者の帰国を確保できた以上、拉致問題への文書での言及を粘り強く追求することは諦め、相手を刺激しないような安易な妥協に流れたと言って過言ではないだろう。
平壌宣言の関連部分の記述は、以下の通りだ。
「日本国民の生命と安全に関わる懸案問題については、朝鮮民主主義人民共和国側は、日朝が不正常な関係にある中で生じたこのような遺憾な問題が今後再び生じることがないよう適切な措置をとることを確認した」
その後、北朝鮮は、拉致問題は解決済みと言い続け、残る拉致被害者の帰国を実現できないままに年月が徒過してきた。「拉致」の一言を盛り込めなかったこと自体が、その後の顛末のきっかけを作ってしまったとの批判が絶えない。
弱腰外交の三つ目の要因は、政治家の胆力の欠如である。
「政治主導」の時代と言われて久しい。外務官僚の間に如何に妥協性向が強かろうが、外交交渉について政治的責任を負うべき立場にある総理、外務大臣といった政治家がしっかりとした座標軸をもって臨むのであれば、弱腰に流れることはない。例えば、「交渉がうまくいかなければ席を立って帰ってきてもいい」と言われれば、官僚はむしろシャカリキになって頑張ること請け合いだ。しかしながら、そんな指示を日本の政治家が出すことはまずない。むしろ、「(当初の交渉ポジションから)降りてもいいから、何とかまとめてこい」と言うのが圧倒的だ。
また、多くの政治家自身も外国人の前に出ると借りてきた猫のように小さくなり、共通項、妥協点を見出そうとする。
国内で官僚相手に人事権を振りかざして辣腕の官房長官を演じていた、菅義偉氏のような政治家も例外ではない。総理になって官邸で外国要人を迎えた際には、オドオドと所在なげに振る舞い視線が泳いでいたが、残念ながら、これが日本の多くの政治家の習熟度と外交力を端的に象徴している。
チャイナスクールの問題
国民目線で見れば、日本外交の弱腰の最たるものが対中外交であり、その元凶とされてきたのが外務省内の中国専門家、いわゆるチャイナスクールである。彼らは入省時に中国語を研修するように命じられ、その後、外交官人生の大半にわたって中国関係の業務に従事することとなる。ただし、一言でチャイナスクールといっても十把一からげで括るわけにはいかず、因数分解していくと色々な要素がある。
外務省にあってチャイナスクールこそは、中国語を学び、外交官人生を通じて中国の歴史、政治、社会の勉強をすることを生業としてきた者たちだ。私はアメリカンスクールだが、1990年代半ばに外務省中国課の首席事務官を務め、その後、香港の総領事館で2年間勤務した経験を有する。また、局長時代はインテリジェンス担当の国際情報統括官として、中国問題には最も多大なエネルギーを注いで取り組んできた。その意味では、チャイナスクールの実態をよく知る立場にあった。
90年代の実体験として忘れることができないのは、その頃、チャイナスクールの大御所たちは「いずれ中国は日本を抜き、いったん抜いたら日本なんて見向きもしなくなる」と口をそろえて言っていたことだ。であれば、なぜ円借款を湯水のように中国に注ぎ込み、日本企業には対中進出、投資を働きかけ、中国をここまで大きくしてしまったのか? 経済協力、貿易・投資の増大を通じて中国を経済大国にする大きな手助けをしただけでなく、日本の安全保障上「最大の戦略的挑戦」と日本政府自らが称せざるを得ないような状況を招いた責任はないのか?
その関連で言及しておくべきは、「お人好し」なくらいナイーブだった対中姿勢だ。1989年の天安門事件の後、中国が国際社会の前で露呈した甚だしい人道軽視、人権蹂躙を受けて、日本を含む西側諸国は連携して対中経済制裁措置をとった。ところが、「中国を孤立させてはいけない」とG7諸国に呼びかけるだけでなく、この制裁を真っ先に緩めたのが日本だった。のみならず、その過程では、天皇陛下(今の上皇陛下)の訪中招請に応じて陛下の訪中をお膳立てしてしまったのも外務省だった。当時中国の外相であった銭其琛は、のちに著した回顧録で「日本が対中制裁の最も弱い環だったので、日本から突き崩していった」などと手の内を開陳して自慢しているほどだ。
五十歩譲っていえば、チャイナスクール的存在は、どの主要国の外交当局にもある。米国、英国、豪州、ドイツ、フランス、どこも似たようなものだ。往々にして中国専門家は中国の立場を代弁しているように見られて国内で肩身の狭い思いをしている。ことに、中国の場合はいったん中国に睨まれると徹底的に排除され、ひいては中国関係の事務に携われなくなるという強迫観念が働く。かつて東京外国語大学の中嶋嶺雄教授が中国に行けなくなったような例が代表例だ。
しかるに、日本は対中外交の最前線国家だ。歴史的にも文化的にもつながりが密であり、中国に一番習熟した立場にある。だからこそ、対中認識、姿勢、具体の対応においてリーダーシップをとるべきなのだが、果たして日本のチャイナスクールにそうした意識を持っている者がどれだけいるのか? 日中関係の処理に当たるだけがチャイナスクールの役割ではないのだ。英語も駆使しつつ、日本が有する中国問題についての知見や経験を友好国と共有して国際社会をリードしていくことも、大事な職責である。
筆者:山上 信吾