写植機誕生物語 〈石井茂吉と森澤信夫〉 第63回 【茂吉】写植機、海を渡る
2025年4月1日(火)12時0分 マイナビニュース
フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)
○おなじ轍を踏まぬために
1934年 (昭和9) 1月に満州・奉天省公署印刷局から入った3台の注文で、写真植字機研究所は明るさを取り戻した。工場は活気にあふれ、茂吉も従業員たちに「ひと息つけたよ」と笑顔を見せて、喜びをわかちあった。[注1]
当時の写真植字機製造は手作業が多く、3台は工場の1年間の生産能力台数に匹敵した。ただし、注文のなかった2年あまりの空白で製造を進めてきて、7割方完成している機械がちょうど3台あった。急ぎ、これらの仕上げ作業が進められた。
だが、工場の製造責任者だった信夫はすでにいない。茂吉はみずから工場を見回った。ときには工員の仕事を見ておられず、ヤスリやドライバーを手にして「ちょっと貸してみなさい」と作業をはじめた。凝り性の茂吉は、こうした作業をはじめると、とことんていねいに時間をかける。背広が汚れるのもかまわず没頭する茂吉の横で、工員が手持ちぶさたに突っ立っている風景もしばしば見られた。
茂吉は、1929〜1930年 (昭和4〜5) に共同印刷や凸版印刷、秀英舎といった5大印刷会社に写真植字機を納入したときのように、納めたはいいが性能不足で使われないというようなことは絶対に避けたいとおもっていた。だから少しでもおかしなところがあれば何度でもやり直しをさせ、みずからも手を加えながら、納得のいくまで手直しをした。印字部で実際に写植機を使ってきた経験も、機械の改善に役立った。[注2]
こうして1934年 (昭和9) 5月はじめ、3台の写真植字機は完成し、満州に向けて出荷された。契約からわずか4カ月後のできごとだった。
出荷に先がけて1934年 (昭和9) 4月に刊行された『印刷雑誌』 (印刷雑誌社) は、写真植字機が奉天省公署印刷局に納入されることを報じた。郡山幸男が社主をつとめる同誌は、写真植字機の発明当初から茂吉と信夫を追ってきた。ところが記事には〈本誌が読者の手にわたる頃には、同印刷局で森澤氏が組立て中であるであろう〉と書かれている。茂吉は、信夫が研究所を辞めてしまったことを、すぐは外部に告げなかったのかもしれない。[注3]
○機械を追って満州へ
満州に出荷された3台の写植機は、レンズの本数は10本でそれまでと変わらなかったが、縦の送り量の単位を0.5mmから0.25mm (4分の1mm) へとあらためた。縦組みにおいて活字の規格に近づけ、きめ細かな組版をおこなえるようにするためだった。
いっぽう、文字盤は増やした。茂吉は1933年 (昭和8) 末に、それまでの常用文字5,460字に加え、3,276字の明朝体を完成させていた。これを4級文字盤として12枚におさめて機械につけたのだ。5,460字+3,276字で合計32枚、8,736字。これだけの文字数があれば、日本文より使用漢字数が多い満州文でも、実用上不便がないだろうという判断だった。
茂吉は写植機の出荷に先立って、最終の仕様打ち合わせや先方の事情調査のために、もと凸版印刷の岸寛身 [注4] を満州に行かせていた。しかしいざ機械を出荷すると、「はたして満州ではうまく使えるだろうか」と不安になった。念入りに手入れをし、テストをくりかえした機械だから大丈夫とおもいつつも、不安な気持ちは消えない。出荷数週間後の1934年 (昭和9) 5月下旬、茂吉は責任者格の滝澤喜曽雄と古川姉弟の3人のオペレーターを現地指導要員として連れて、自身も満州に渡った。
関真が局長をつとめる奉天省公署印刷局は、大きな印刷工場だった。同局は同年9月には民営となって興亜印刷局と改称し、やがて1938年 (昭和13) には興亜印刷株式会社と改組するが、茂吉たちがおとずれたときはまだ公署印刷局という奉天省の官営印刷局だった。
4つの印刷工場を併合してつくられただけに、印刷設備は充実していた。写真植字機の印字物を刷るオフセット印刷機だけでなく、50台近くの各種活版印刷機や、活版組版設備、活字母型各サイズ計9万個以上、活字類各種を計120トン以上、活字自動鋳造機8台のほか、グラビア印刷の設備も整えていた。[注5] つまり、まっさらな状態から活字や印刷機などをそろえなくてはならない状況ではなかった。
しかしあたらしい国であらたに立ち上げられた公署印刷局は、関が語っていたとおり、斬新な技術を求めていた。だからであろう、茂吉たちが案内されて工場に行くと、そこでは導入されたばかりの3台の写植機がリズミカルな音を立てて、早くも動かされていた。
関は写真植字機を採用した動機を、つぎのように語っている。
(1) 写真植字では、鉛活字と比べ、はなはだ少ない資本で、大小数種類の文字を自由に準備できること。植字能率が高いなど、その他にも利点を具備すること
(2) 奉天省公署印刷局の事情として、活字の種類が少なく、新しい活字の注文をおこなうためには字母 (筆者注:種字や母型か) や活字、膨大な数の活字を置くための建物と準備するために、数万円の資金が必要となること。鉛活字をもちいる場合、活版印刷機が旧式のものであるため、優秀な印刷をおこなうには活版機を新規購入しなくてはならず、数千円の費用が必要となる。それよりもむしろ、活字や活版印刷機に当てる資金をオフセット印刷機の増設に充てれば、写真植字機の価値をじゅうぶんに発揮できる [注6]
設備のみを見れば、十分な量の活字をもっていたようにもおもわれるが、4社を合併した工場としての事情が背景にあったようだ。
日本国内では、広く普及し職工も数多くいた活版印刷の壁を打ち崩せずにいた。しかし誕生したばかりの満州国において、活版印刷ほどの大規模な設備を必要とせず、1枚の文字盤から大小の文字を印字できる写真植字機は「打ち出の小槌」にたとえられるほどに歓迎された。[注7]
○日本人視察団の来訪
関をはじめとする公署印刷局の幹部たちは、茂吉が3人のオペレーターを連れてみずから満州にやってきたことを大歓迎し、それぞれの自宅に分宿させて、もてなした。[注8]
茂吉は満州に1週間滞在した。その期間内に、茂吉の恩師・加茂正雄が奉天省公署印刷局をたずねてきた。衛生工業協会 (会長:関口八重吉) の満鮮視察で団長をつとめていた加茂は、1934年 (昭和9) 5月8〜26日にかけて視察団24人で貸切バス2台に分乗して各地をまわっていた際、予定外ながら奉天省公署印刷局に立ち寄ったのだ。5月20日の出来事である。
一行が到着すると、茂吉が彼らを案内した。茂吉は、公署印刷局が4つの印刷工場を合併してできたことを説明し、「このように数カ所の印刷所を併合した結果、活字が不統一で用をなしがたいので、現在革新に取り組んでいるのです」と写真植字機が採用された経緯を話した。「現在試用中ですが、現地で認められれば、さかんに進められる予定なのです。公署印刷局は本来、一般官庁用の印刷をおこなうところですが、目下は小学校教科書の改正にともなう印刷に取り組んでいます」と、鋭意操業中であることを語り、写真植字機の性能についても一行に説明した。[注9]
1週間の滞在で、茂吉は自信を得て単身帰国した。写真植字機が活用されている様子を目の当たりにして、いままでの苦労が結実し、花ひらくおもいだった。
○生まれる自信
満州での写植機の成果は上々だった。同年9月には、関は『印刷雑誌』で「菊判教科書、4号ベタ組、総ページ数542ページにおいて、1日約16ページを印字」「菊判日満両文、1ページ1,000字、総ページ数900ページにおいて、1日平均約15ページ、のべ人員60人 (満文があるため能力低下するのはやむをえない)」と報告している。[注10]
機械とともに写真植字機研究所から満州に派遣された滝澤喜曽雄は、満州文の原稿が多いため現地でオペレーターを養成するのにずいぶん骨を折ったとしながらも、「 (写真植字機の活用によって、活版印刷で必要な) 鋳造から文選、植字、解版、返字などの作業が簡単化され、しかもせまい場所で1万字からの満文が植字されていくのだから、ゆかいなものです」と述べた。[注11] 現地で養成したオペレーターは、4カ月の実習を経て、1枚の日本文600字、満州文400字の難易度の高い原稿を1ページ平均約35分で印字できるようになったという。[注12] 心配されていたのは誤字の訂正だったが、これは滝澤とともに満州に派遣された古川が力を発揮したようだ。
「古川さんを見ていますと、人間業とは思えません。修整ペン先が印画紙にちょっと触れたと思った瞬間、所要の文字の一列は巧みに剥かれているのです。まったく神技で、活版の差し換えとちっとも変わりません。(中略) とにかく活版の差し換えに劣らないことが実証されてうれしいです」
滝澤から届いた報告を読み、茂吉は頬をゆるませた。[注13]
こうした成果が自信につながったのだろう。1935年 (昭和10) 5月、印刷雑誌社が主催した「活版及活版印刷動向座談会」に内閣印刷局・矢野道也、東京朝日新聞技術部長・江碕達夫、東京築地活版製造所技師・上原龍之助、三省堂製造部長・今井直一らととも出席した茂吉は、築地活版・上原の「活版印刷では菊判1ページの組版に必要な活字を1貫匁 (筆者注:3.75kg) とすると、菊全判1台の機械に対して16ページ分の30倍以上の重量の活字を持っていないと、いかなる種類の注文でも受けて商売するというわけにいかない」という発言に対し、『印刷雑誌』発行人の郡山幸男から「これは石井さん有利ですねぇ」と水を向けられて、「はあ、そうですよ、ハッハッハッ……」と自信満々に笑っている。ちょっとめずらしい姿だ。[注14]
○写植機の評判、満州から日本へ
日本国内ではなかなか活躍の場が得られなかった写真植字機は、満州で存在価値を認められ、おおいに活用された。興亜印刷局は3台の写真植字機を有効に活用し、B5判約500ページの『満洲国現勢』(満洲国通信社) [注15] や『気象月報』、『時憲書』といった定期刊行物を写真植字で印字して、印刷した。『時憲書』は満州国の暦で、慶事や葬祭はすべてこの暦に従っておこなわれるというもの。A4判100ページ、毎年200万部近く発行という大部数で、これを通じて写真植字を知る人も多かった。[注16]
1937年 (昭和12) から興亜印刷局で働いていた佐藤行雄 (のちにサトウ印書館社長) は、当時の満州での写真植字機のことをこう語っている。
〈興亜印刷局は、満州でも大きい工場だったので、政府の高官や、軍の上層部の人たちが大ぜい見学に来た。部屋に来て、写真植字機を見ると、みなびっくりしていた。内地 (筆者注:日本国内) から来た人でも、こんな機械のあることを満州に来て初めて知ったという人がほとんどだった。満州では、活字が少ないということもあって、活字でやりにくいものは、つとめて写植でやるようにした。私どもオペレーターも写植に携わることに誇りをもち若さにモノを言わせて、活字で一週間以上もかかるものを、なんと写植で三日間でやってのけ、能率のよさを周囲に認めさせた〉[注17]
満州での成果は、写真植字機の効用を日本人に知らせる結果にもなった。このため、興亜印刷で写植の仕事が忙しいときには、茂吉は毎年のようにオペレーターを送り、協力につとめた。写真植字機研究所と興亜印刷との密接な関係は、1940年 (昭和15) ごろに関が退陣するまでつづいた。1936年 (昭和11)ごろから大日本印刷の系列下となった同社は、日本国内の印刷界にも影響を与える存在であった。[注18]
(つづく)
出版社募集
本連載の書籍化に興味をお持ちいただける出版社の方がいらっしゃいましたら、メールにてご連絡ください。どうぞよろしくお願いいたします。
雪 朱里 yukiakari.contact@gmail.com
[注1] 佐々木松栄「先生の人間味」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 p.69
[注2] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.133-136
[注3] 「石井氏の写真植字機は大改良さる」『印刷雑誌』17(4) 昭和9年4月号、印刷雑誌社、1934.4 p.11
[注4] 岸寛身はしばらく奉天省公署印刷局に在籍していたが、やがて写植を離れて満州映画に入社し、撮影監督になった。満州の新京興亜印刷局で写植オペレーターをつとめた佐藤行雄は、岸を〈技術的に優秀な人であった〉と語っている。(株)サトウ印書館社長 佐藤行雄「青春の血を燃やした」印刷時報社 [編]『月刊印刷時報』(476)、印刷時報社、1984-02. p.21、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11434939 (参照 2025-02-02)
[注5] 満洲国通信社 編『満洲国現勢』康徳5年版、満洲国通信社、康徳5/昭和13 (1938) p.286 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1208089 (参照 2025-01-25)、満洲国通信社 編『満洲国現勢』康徳3年版、満洲国通信社、康徳3/昭和11 (1936) p.435なお、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.136には〈奉天公署印刷局は名を興亜印刷局と名を改め (ママ) 、同じ奉天の別の場所に新築移転していた〉とあるが、社名変更および移転時期は前掲書で確認し、この当時はまだ改称も移転も行われていないという同書の記述に沿った。
[注6] 奉天省公署印刷局長 関真「写真植字機の実用経験報告」『印刷雑誌』17 (9) 昭和9年9月号、印刷雑誌社、1934 p.30
[注7] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.136-137
[注8] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.137
[注9] 『衛生工業協会誌』8(9)、衛生工業協会、1934-09 Pp767 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2289475 (参照 2025-01-25)
[注10] 奉天省公署印刷局長 関真「写真植字機の実用経験報告」『印刷雑誌』17 (9) 昭和9年9月号、印刷雑誌社、1934 p.30
[注11] 滝澤喜曽雄「写真植字機使用一年の経験」『印刷雑誌』18(7) 昭和10年7月号、印刷雑誌社、1935 p.37
[注12] 「写真植字機、満州で良成績」『印刷雑誌』18(3) 昭和10年3月号、印刷雑誌社、1935 P.29
[注13] 「写真植字機、満州で良成績」『印刷雑誌』18(3) 昭和10年3月号、印刷雑誌社、1935 p.29
[注14] 「活版及活版印刷動向座談会」『印刷雑誌』18(5) 昭和10年5月号、印刷雑誌社、1935 p.15
[注15] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.140には『満洲国現勢』はA4判とあるが、筆者が実物を確認したところ、B5判であった。
[注16] 「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.29、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.140
[注17] 「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.29
[注18] 本稿は、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.125-136、「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 pp.28-31 をもとに、周辺資料を交えて参照し、執筆した
【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975
『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965
「石井氏の写真植字機は大改良さる」『印刷雑誌』17(4) 昭和9年4月号、印刷雑誌社、1934.4
「写真植字機、満州で良成績」『印刷雑誌』18(3) 昭和10年3月号、印刷雑誌社、1935.3
奉天省公署印刷局長 関真「写真植字機の実用経験報告」『印刷雑誌』17 (9) 昭和9年9月号、印刷雑誌社、1934
滝澤喜曽雄「写真植字機使用一年の経験」『印刷雑誌』18(7) 昭和10年7月号、印刷雑誌社、1935
「写真植字機、満州で良成績」『印刷雑誌』18(3) 昭和10年3月号、印刷雑誌社、1935
「活版及活版印刷動向座談会」『印刷雑誌』18(5) 昭和10年5月号、印刷雑誌社、1935
満洲国通信社 編『満洲国現勢』康徳3年版、満洲国通信社、康徳3/昭和11 (1936)
満洲国通信社 編『満洲国現勢』康徳5年版、満洲国通信社、康徳5/昭和13 (1938)
『衛生工業協会誌』8(9)、衛生工業協会、1934-09
【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影