広岡監督をなんとか胴上げして落としたい、それを原動力に連続日本一…田淵幸一さんの「楽」
2025年4月29日(火)6時15分 スポーツ報知
82年、中日との日本シリーズを制し、祝勝会でビールをかけ合う広岡監督(右)と田淵
巨人のライバルだった名選手の連続インタビュー「巨人が恐れた男たち」。第4回は強打の捕手として阪神、西武で通算474本塁打を放った希代のホームラン・アーティスト、田淵幸一さん(78)の登場だ。巨人に憧れを抱きながら、ドラフトで宿敵・阪神に入団。高々と舞い上がる美しい本塁打でファンを魅了し、トレードされた西武で悲願の日本一を手にした。ドラマチックな野球人生の「喜怒哀楽」を振り返る。(取材・構成=太田 倫、湯浅 佳典)
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オレは優勝に飢えていた。1975年に広島が初優勝して、法大で同期の山本浩二に祝福の電話を入れた。「優勝ってええで」という言葉が忘れられない。個人よりみんなで勝ち取った喜びの方が大きいんだよな。
アメとムチっていうけど、広岡さんはムチばっかり。でも、自分たちが変わっていくのが分かった。練習で当たり前のことを当たり前にやる。キャッチボールなら胸に投げる。トスバッティングなら丁寧に相手に返す。「球際に強くなれ」と言われたね。捕れなくても気持ちで捕りに行け、と。やっている間はやりがいじゃなくて、憎しみだよ(笑)。なんとか胴上げして落としたい、とね。
82年と83年に続けて日本一になれた。82年の日本シリーズは中日相手に4勝2敗。名古屋で優勝を決めたとき、東尾が「3回目に落とす?」って聞いてきた。「待て、まだ巨人が残っているじゃないか。もうちょっと我慢しよう」と言った。広岡さんは常に「巨人を倒さないと本当の日本一じゃない」って言っていたから。
83年は巨人に4勝3敗。また東尾が「やってやろうや」と来た。オレはまた言ったよ。「待てよ。給料は上がる、ハワイ旅行にも連れて行ってくれる。その監督にそんなことはできないよ」ってね。「そんなに変わっちゃうの?」って言われたけど、そりゃそうだよ。家族だって喜んでいるしね。
日本一になって、こういう監督じゃないと優勝できないと思った。いざ結果が出たら本当に感謝した。だからオレは毎年2月9日、広岡さんの誕生日に電話するんだ。「お元気ですか」って。
474本のホームランは、王さんを追いかけたからこそ残せた数字。けががなければ500本、600本と打てたかもしれない。「田淵シフト」もあったけど、本当にヒットだけ狙えば3割も打てたと思う。でもそこで右に流すんじゃなくて、中堅から左に打つ。それがホームランバッターとしてのプライドだった。
ホームランの魅力か…。ゆっくりダイヤモンドを回れるでしょう。ファンがその間になんぼでも楽しめる。阪神時代、土下座してホームベースで待っててくれたファンもいた。それだけ感動を与えられるんだ。特にオレの打球は高い放物線だったからね。スタンドに行くまでの楽しみもあった。今、似たようなアーチを架けられる選手は…いないねえ。
【取材後記】
浮世絵師・葛飾北斎の代表作「富嶽三十六景」。その中でも傑作とされる「神奈川沖浪裏」は、優美な富士山と、それに挑みかかるかのように荒れ狂う波を描く。巨人を富士山とするなら、田淵さんの激動のキャリアはその大波のようだった。
もし「富士山」の側だったなら。「ONを超えられるか? それは無理。じゃあ(捕手の)森昌彦さんを抜けるか。(5番打者だった)末次利光さんは? 巨人に行ったからといって『はい、レギュラーで』ってことは分からないわけよ」
自身の夢のひとつはかなわなかったが、そのぶん、空に吸い込まれるような美しいアーチで多くの人々に夢を見せてきた。「幸せだったと言えるでしょうね。ONと、強い相手と戦ったからこそ、今日がある」。富士山と波のように、ライバル同士が互いを際立たせた、どこを切り取っても“絵になる”時代。その主人公のひとりだった。(野球デスク・太田 倫)
◆田淵 幸一(たぶち・こういち)1946年9月24日、東京都生まれ。78歳。法大で通算22本塁打を放ち、当時の東京六大学リーグ記録を樹立。68年ドラフト1位で阪神入り。69年に22本塁打で新人王。75年には本塁打王。78年オフに西武にトレードで移籍し、82、83年の連続日本一に貢献。83年は正力賞を受賞した。84年に現役引退。引退後はダイエー監督、阪神チーフ打撃コーチ、北京五輪日本代表ヘッド兼打撃コーチ、楽天ヘッドコーチを歴任。2020年に野球殿堂入り。