天才・柿谷曜一朗はレアルと「契約の話になった」が行けず…徳島への放出は「クソみたいな考えだった」から
2025年4月29日(火)10時0分 読売新聞
スイス・バーゼルへの移籍記者会見に出席した柿谷さん(2014年7月9日、大阪市内で)
セレッソ大阪などで活躍し、今年1月に引退を発表したサッカー元日本代表・柿谷曜一朗さんが、読売新聞ポッドキャスト「ピッチサイド 日本サッカーここだけの話」に出演した。24歳で挑戦した海外移籍の舞台裏。セレッソ大阪から徳島ヴォルティスへ事実上の追放となった「事件」など、番組MCで元日本代表の槙野智章さんに赤裸々に語った。
海外移籍への恐怖
柿谷さんは2014年W杯ブラジル大会後、欧州移籍を決断する。誘いがあったクラブは?
「スイス・バーゼルとフィオレンティーナ(イタリア)、ボルシアMG(ドイツ)。三つの中から、欧州チャンピオンズリーグ(CL)に出場できるバーゼルを選んだ」
それまで、海外クラブでプレーする意欲は必ずしも高かったとは言えないという。
「海外でプレーしたいという夢もありましたが、明確ではなかったです。セレッソの8番をつけてずっとやりたいというのが正直あった。でも、日本代表で話してたら、『絶対、行った方がいい』『行かないと分からないことがある』と言われて興味が出てきて、行くならCLに出られるチームがいいなと思って」
16歳でプロ契約し、才能あふれるプレーでファンを魅了した。24歳での移籍は遅いとも言える。
「海外にアピールするチャンスはいっぱいあって、アーセナルやインテルの(若手の)練習には参加してる。通用したと思ったし、入団の話もあったと思うけど、ホームシックみたいな感じになって、セレッソの居心地がいいっていうのがあったと思うんです。そこで『海外が怖い』ってイメージがついちゃったんですよ」
「19歳でレアル(・マドリード)のBチームの練習に参加して、そこが一番手応えがあった。契約の話になったんですけど、最後はやっぱり『怖い』ってなった」
同じ境遇の子がいたら……
柿谷さんは過去の自分の決断について次のように語った。
「甘えだと思います。自分を厳しい環境に置きたくないっていうメンタルの弱さがもろに出た瞬間」
(槙野さん)「自分でたたき割ってやろうって感じにはなれなかったんだ」
(柿谷さん)「全くなれなかったですね」
(フリーアナウンサー・中川絵美里さん)「そういうタイプに見えそうですけど」
(柿谷さん)「1週間レアルに行って、早く帰りたくてしかなかったです。根本的に貪欲さみたいなのが、僕にはなかったと思うんです」
柿谷さんは自身の経験から、人生における「チャンス」の尊さを説く。
「もし僕と同じ境遇の子がおるんやったら、100%やるべき。周りも契約書を書かせて、無理にでも放り込んだ方がいい」
「僕と同じで怖いとか、不安な気持ちを持つ子もいると思う。だから僕はそういう弱い人間だったと伝えられれば、『じゃあ俺は、強く行くよ』ってなってくれる子もおるかもしれないです。でも、今の子たちは進んで(海外に)行くから」
度重なる遅刻→放出
海外移籍から5年前、19歳の柿谷さんは徳島ヴォルティスに期限付き移籍というかたちでセレッソから放出されている。原因は常習的な「遅刻癖」だった。
「19歳でクラブの寮を出て一人暮らしになってから、半年で10回くらい。全部、寝坊です。2、3回目ぐらいの時は、まだみんな笑ってましたね。でも5回、6回になると、もう誰もしゃべってくれない」
この頃チームでは、香川真司選手(セレッソ大阪)や乾貴士選手(清水エスパルス)が台頭。柿谷さんは出場機会が減っていた。
「正直な話、遅刻したことを悪いと思ってなかった。週末の試合に使われてないから(迷惑をかけてない)って、ほんまにクソみたいな考えだったんですよ」
香川選手や乾選手が代表戦やけがでチームから抜けたタイミングで出場のチャンスが巡ってきた。先発出場したファジアーノ岡山戦で2得点を挙げて勝利に貢献。その日は先輩たちと夜に食事をして、11時頃に帰宅したという。
「忘れもせえへん。(次の日に起きたら、集合時間の)ぴったり10時。でも2点取ったから大丈夫かな、許してもらえるやろぐらい。クラブハウス行ったら、そのまま強化部に呼ばれて、監督から『もう出てってくれ』って言われました」
素直に荷物をまとめてクラブハウスを出た。この騒動から約1週間後、徳島ヴォルティスへの期限付き移籍が発表された。
「恥ずかしいっていうのが一番だった。何回も遅刻したけど、最後は一番恥ずかしかった。やっちゃいけない。ただのアホやん」
プロフィル
柿谷 曜一朗(かきたに・よういちろう)=4歳でセレッソ大阪の下部組織に入り、2006年にクラブ史上最年少の16歳でプロ契約。2013年の東アジア杯でフル代表に初選出、同大会得点王。同年はJリーグベストイレブンにも選出。W杯ブラジル大会に出場。2025年1月に引退表明。1990年生まれ、大阪市出身。