2013年WEC富士、ビル熱で寒さをしのぎつつ見せたレポーターの意地【日本のレース通サム・コリンズの忘れられない1戦】

2020年5月13日(水)18時58分 AUTOSPORT web

 スーパーGTを戦うJAF-GT見たさに来日してしまうほどのレース好きで数多くのレースを取材しているイギリス人モータースポーツジャーナリストのサム・コリンズが、その取材活動のなかで記憶に残ったレースを当時の思い出とともに振り返ります。


 今回も前回に引き続き2013年に行われたWEC世界耐久選手権第6戦富士6時間耐久レース。強雨の影響で複数回赤旗が出され、最終的にわずか16周でレース終了となった1戦は、イギリス出身者にも厳しい寒さと雨だったようで、自身のジャーナリスト史に残る体験だったようです。


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 2013年のWEC世界耐久選手権第6戦富士の決勝日、私は大雨に対する備えができていなかった。しかし、ピットレーンでのコメンテーターを務めていた私は、レースの間ピットレーンを歩き回り、コメンタリーボックスとつねに無線でやり取りできる状態でいなければならず、送信機の付いた長い棒を持ってピットレーンを歩いていた。


 当時、私が着ていたのは真っ白な耐火スーツで、手には長い棒。まるで魔法使いにでもなったような気分だったし、何人かのドライバーには映画『ロード・オブ・ザ・リング』に出てくる魔法使い“ガンダルフ”のコスプレをしているのかと言われるほどだった。


 レースに向けてピットレーンオープンとなるころ、コースは激しい雨に見舞われていた。マシンの多くはスピンし、何台かはグリッドに辿り着く前にクラッシュしていた。そんななか、トヨタの1台(8号車トヨタTS030)はレースに向けて給油するべくピットに戻ってきたが、ピット出口封鎖にわずか5秒届かずピットスタートを余儀なくされた。


 この悪コンディションの影響でレースはセーフティカー先導でスタートされることになり、2番手スタートだった7号車トヨタはオーバーテイクのチャンスである1周目の勝負権を失った。レースで本命と目されていたトヨタ勢に不運が続く状態だったのだ。


 そして、決勝スタートから22分後、赤旗が出され、マシンはグリッド上で停止した。レースが中断されると、必然的に私の仕事が増えることになる。なにか動きがあるのはピットの中だけで、私がコメント取りをする必要があったからだ。


 1時間ほど、各チームやドライバーからコメントをもらおうと奔走していると「今から2時間以上後にレースが再開される」という噂を耳にするようになった。そして、その後レースコントロールから13時30分のレース再開が告げられた。


 単純に計算すると、レース終了予定時刻は17時40分。私は3日連続で帰りの小田急ロマンスカーを逃す羽目になりそうだ……。


 そしてこの時、自分が履いている靴が防水仕様ではないことにも気がついた。足を一歩踏み出すごとに靴から雨水がにじみ出てきて不快だったのを今でも思い出す。ロード・オブ・ザ・リングのガンダルフのようだと言われた真っ白な耐火スーツも雨に濡れて重くなっていたし、その下に着ていた服もやはりびしょ濡れだった。


 そんな状況のなか、私が頻繁に歩みを止めるスポットがあった。富士のピットレーン中央付近にあるガレージ間には排気口があり、ここでビルの排熱が行われているのだ。この時点で服を完全に乾かすことは諦めていたし、気温も下がってきていた。それでも、この排気口周辺は私がわずかでも暖を取れる唯一のスポットだった。


■突如ピットンした1号車アウディは1周だけ“節度”を守らなかった


 レースがリスタートされると、ありがたいことに雨はやんだが、すぐに強雨に見舞われることも分かっていた。さらに悪いことにもうひとつの問題が私たちを待ち受けていた。1コーナーに濃い霧が広がっていたのだ。この霧とマシンが巻き上げる水しぶきが合わさって、視界が完全に奪われてしまった。


 すると突如、ラップリーダーだった1号車アウディR18 e-tronクアトロが突然ピットに戻ってきた。幸い、私はその作業を目にすることができ、それがルーティンではなくイレギュラーなものであることを確認できた。アウディのスタッフたちはエアリストリクター周辺をしきりにチェックしていたのだ。


 その後、チームはピットレーン上でマシンのリヤカウルを取り外して作業を始めた。アウディ陣営のこんな光景はめったに目にすることはない。私はリポーターとして、彼らの作業を事細かに説明した。


 すると、メカニックたちはマシンのエアリストリクターハウジングとエアリストリクターを取り外すと、ボディワークを元に戻して、マシンをコースへ送り出した。あの時、アウディR18はセーフティカーの後ろを走っていたが、そのマシンは完全にレギュレーション違反の状態だったはずなのだ。


 厳格に判断が下されれば、彼らは即座に失格となる状態だったが、FIAのレースオフィシャルはこの状況を無視すると決めたようだった。1周後、アウディR18はピットに戻ると、新品のエアリストリクターとハウジングを装着してコースに戻った。この一件はアウディR18が史上唯一、競技中に“節度”を守らなかったケースだったはずだ。


 22分間に渡るセーフティカーランのあとふたたび強い雨が降り出し、レースは再度赤旗に。この時点で14時にもなっていなかったが、レースディレクターは、何があろうとも17時でレースを終了させると発表した。


 幸か不幸か、私が逃し続けたロマンスカーには間に合う計算だ。そして、この時点で私はロマンスカーに乗ることを心から望んでいた。すでに私はずぶ濡れで寒さにも凍えていたが、また多くのドライバーやチームへ対し、正式にはまだスタートを迎えていないレースについてインタビューしなければならかった。この時点で私の両手足は寒さで感覚を失いつつあった。


 ちなみに私が抱えていた“魔法の杖”、コメンタリーボックスとやり取りする無線機が付いた長い棒にはひとつ問題があった。それはピットガレージ内では動作してくれないということ。仕事をするには屋根のないピットレーンに出なければならず、私は雨宿りすることさえ許されなかった。


 そんな状況のなか、あるチームから一杯の緑茶を振る舞ってもらえたことを今でも覚えている。個人的に緑茶が好きだということに加え、手を暖めることができたから、とてもうれしかった。

2013年WEC第6戦富士表彰台


 永遠に続くとも思える赤旗中断のあと、ようやく15時35分にセーフティカー先導でレースは再開。しかし、それから半周もしないうちに三度赤旗が出ると、そのままレースは終了を迎えた。セーフティカーのもと、合計で16周しかしなかった3時間を経て、レースは終わりをむかえ、7号車トヨタが優勝を手にした。


 私は表彰台に向かうアレクサンダー・ブルツをつかまえてインタビューをした。ブルツはこの状況にあまり満足していなかったが、勝利は勝利として受け入れた。


 これでようやく私は仕事から解放され、ずぶ濡れの状態でメディセンターへと戻った。最悪にも、私は着替えを用意していなかったので、このままの状態で御殿場駅に向かう羽目になった。だが少なくともロマンスカーには乗ることができた。


 駅に向かう道中で、なんとか座席を濡らさない程度には状態もマシになっていた。この日ようやく乗ることができたロマンスカーの車内は暖かく、シートも快適だった。


 車内では偶然、ドライバーのトール・グレイブスと顔を合わせ、彼には六本木でのパーティに誘われたが、私は参加を固辞した。招待を受け入れるにはあまりにも疲れていたし、マシになったとは言え、濡れ鼠のままだったからだ。あの時は、車内で飲むヱビスビールと、新宿で食べる温かいラーメンだけが、私の希望だった。


 寒さと雨という天気に翻弄されたレースだったが、個人的には楽しむことができたと思う。今も多くの人々があのレースとコメンタリーについて話題にしてくれるので、あの状況下でも仕事をまっとうしたことが報われていると感じている。


 ちなみに、2013年のWEC富士は、2012年のシリーズ発足から現在に至るまで、参戦全車がレースを完走できた3戦のうちのひとつだ。


 また富士でのセーフティカーは、WECのルール変更にも直接つながった。ポイントが付与されるには、グリーンフラッグのコンディション下で完全に2周走らなければならないというルールが生まれたのだ。結局、2013年WEC富士はハーフポイントが与えられることで決着した。

2014年のル・マン24時間を戦ったニッサンZEOD RC


 またレースウイーク初日に厳しい船出を迎えたニッサンのZEODプロジェクトは、その後難航した。彼らが目標としていた2014年ル・マン24時間では苦戦を強いられ、周回数はわずか5周。誰もその時は分かっていなかったが、これは2015年に起きたことの“予兆”でもあった。


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サム・コリンズ(Sam Collins)
F1のほかWEC世界耐久選手権、GTカーレース、学生フォーミュラなど、幅広いジャンルをカバーするイギリス出身のモータースポーツジャーナリスト。スーパーGTや全日本スーパーフォーミュラ選手権の情報にも精通しており、英語圏向け放送の解説を務めることも。近年はジャーナリストを務めるかたわら、政界にも進出している。


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