湘南の広報、遠藤さちえ氏「Jリーグの歴史と共に」インタビュー前編

2023年5月21日(日)16時0分 FOOTBALL TRIBE

写真提供:湘南ベルマーレ

1993年に開幕したJリーグも、今年で30周年。歴代の選手や監督はもちろんのこと、多くのクラブスタッフの尽力により津々浦々のJクラブが発展してきた。


ここでスポットを当てるのは、1996年ベルマーレ平塚(2000年に湘南ベルマーレに改名)に入社し、現在もJ1湘南ベルマーレの広報として活躍する遠藤さちえ氏。Jリーグの歴史と共に遠藤氏が何を大切にし、ベルマーレに関わる全ての人々と接してきたのか。また、同氏が考えるJクラブとファンの理想の関係性とは。これらについて存分に語ってもらった。


ここでは、インタビューの前編を紹介する(インタビュアー:今﨑新也)。




写真:Getty Images

「マネージャーとしての活動がとても楽しくて」


ー高校生時代に、サッカー部のマネージャーを務めた遠藤さん。幼い頃から、縁の下の力持ちとして周りの人をサポートするのが好きだったのでしょうか?


遠藤氏:スポーツ自体はすごく好きでした。運動音痴でやるのは苦手だったのですが、スポーツに関わったり応援したりというのは好きで。中学生時代はテニス部に入っていたんですけど、すごく下手だったんです(笑)。3年生になってもボール拾いが好きでしたね。普通は1年生や2年生がやるようなことを、3年生になっても好きなこととして続けられた。スポーツの側(そば)にはいたいけど、自分が(選手として)やるよりも、その周辺にいてサポートをするほうが好きなんだと気づきました。高校に入ったら、どこかの部活でマネージャーをやろうと思ったのがきっかけですね。


ー数あるスポーツから、サッカーに惹かれた理由は何ですか?


遠藤氏:兄がサッカーをやっていたので。私自身は全くプレー経験が無いんですけど、幼い頃からサッカーは身近にありましたね。


ー高校生や短大生ながらに感じていた、Jクラブで働くことの魅力を教えて下さい。


遠藤氏:高校1年生の頃あたりの、サッカー部のマネージャーとしての活動がとても楽しくて。学校に行くのが楽しみな毎日、3年間でしたね。強いサッカー部ではありませんでしたが、選手たちが懸命にやる姿を間近で見て、少しでもサポートしたいなと。その延長線上として、Jリーグのクラブで働きたいと思い始めました。高校の部活のマネージャーとプロのそれは違うと思うけど、これを仕事にするという自分の夢を叶えたいと思うようになりました。


でも、どんな仕事があるのか当時は情報がありませんでした。どんな仕事か(ある程度)想像はついても、フロントスタッフがどういう職種なのか、それ以外にどんな業種があるのかが全然分からず。何も知らなかったです。どうすればなれるのか、なるために何が必要なのかも。


ーそんな状況や心境のなかで遠藤さんが目にしたのが、雑誌『ストライカー』でしたね。


遠藤氏:そうです! めっちゃ懐かしい(笑)。先輩の家で読んでいたら「こんな(サッカーの)仕事してます」みたいなコーナーに、当時鹿島アントラーズにいらした高島雄大さん(現アスルクラロ沼津代表取締役社長)の記事が載っていて。何を思ったのか、高島さんに手紙を書きました。厚かましくも「お返事頂きたい」という手紙を返信用封筒を添えてお送りしました(笑)。


そのときの私は、短大への入学が決まっていました。Jクラブで働くために、その2年間でどんな勉強をし、何を学べば良いのか。(手紙に書いたのは)それを教えて下さいという内容でしたね。


ー実社会に出るための準備を、2年でしなければならない。大変でしたね。


遠藤氏:そうそう。短大生の就職活動は、入学してすぐに始まりますからね。私はできることなら高卒で働きたいぐらいの感じでしたが(笑)。




中田英寿(1995-1998、ベルマーレ所属)写真:Getty Images

ベルマーレとの出会い


ーそんな中、なぜベルマーレに惚れ込んだのでしょう?


遠藤氏:実を言うとJリーグのクラブであればどこでも良かったんです(笑)。全クラブに履歴書を送り、連絡もしました。「今から(日本の)北から順に俺の知っている人の名前と所属チームを言うから、メモして。電話番号は自分で調べてね。僕の名前を出してもいいから」と、高島さんが仰って下さって。このなかで実際に会って下さったのが3クラブほどで、そのうちのひとつがベルマーレ平塚であり上田栄治さんでした。


ただ、上田さんからは「人は足りているから、(現状ベルマーレへの入社は)無理だよ」とはっきり言われて。でも、ベルマーレの施設を見せて下さったり、グラウンドを案内して下さったりと、「少しでも何かを経験させてあげよう」と思ってくださったのかもしれません。上田さんのこうした優しさに甘えて、私はしつこく連絡しましたね(笑)。お会いできたクラブが他にもあったのですが、もちろん(入社は)断られて。なんとしてもベルマーレで働きたいと思ったのは、上田さんにお会いしてからですね。


ーそして短大をご卒業される1996年の2月に、確か上田さんから「ポルトガル語できる?」というお電話があったんでしたよね。外国籍選手やその家族のお世話をするスタッフが、ベルマーレに必要になったと。


遠藤氏:そうです。お電話を頂いたとき、(ポルトガル語を喋れますと)嘘をついてはいけないと思ったのは、すごく覚えています。でも「喋れません」と答えたらこの話(入社の話)は終わっちゃうなと。なので「絶対喋れるようになります」と答えました。上田さん、笑っていましたね。でも、私のこの答えで上田さんも「逆にこっちも断れないな」という気持ちになったのかも(笑)。


96年にベルマーレがブラジル人監督(トニーニョ・モウラ氏)を招聘したんです。外国籍のコーチや選手が増えて、急に7家族くらい来日することになって。これは通訳一人では手に負えないよね、誰かいないかという話になって、多分私のことを思い出して下さったんだと。


ーポルトガル語はどのようにお勉強されたのですか?


遠藤氏:辞書を片手に(来日された)選手やスタッフの家族と喋りながらその都度覚えましたね。上田さんからは、「彼らは日本に来て何もわからなくて、きっと寂しい思いをしているだろう。言葉がわからなくても、彼らに会いに行って何か話してあげてね」と。入社してすぐに(語学)学校に通い始めたのですが、すぐに忙しくなって通う時間がなくなってしまいました。単語の羅列であっても、家族と喋ったほうが覚えられるという感じでしたね。


呂比須ワグナー(1997-1998、ベルマーレ所属)写真:Getty Images

外国籍選手や家族のサポート


ー遠藤さんがお世話を担当した外国籍選手との思い出を教えて下さい。


遠藤氏:呂比須ワグナーさん(1997-1998)で言うと、本田技研からベルマーレに来て、ちょうど日本に帰化するタイミングでした。彼自身と彼の家族の人生の分岐点に立ち会えましたね。そのまま日本代表選手として(1998年の)フランスW杯に出場しましたし。そこに一緒に関われたのはすごく良い思い出ですね。


家族の出産にも立ち会いました。日本で妊娠がわかって、そこからずっと産婦人科に通って、日本で出産をする。めちゃくちゃ感動して、奥さんよりも私が泣くことがありましたね(笑)。選手の手術に立ち会ったときは、通訳中にオペ室で私が倒れたりとか(笑)。ブラジル人選手やその家族に、ブラジルに招待してもらったことも良い思い出です。


(短大を卒業したばかりの)私自身が世の中のことを全然わかっていない感じでしたけど、外国語を覚えるのも含めて、どうやって人をサポートすれば良いかを考えるのに必死でした。


ー外国籍選手やその家族にとって、心強い存在だったと思います。選手や家族から言われたことで、印象に残っているものはありますか?


遠藤氏:(遠藤さんは)家族の一員とよく言われましたね。毎日、どこかしらの家で夕食を一緒にとっていたので。3年前位にホン・ミョンボさん(元韓国代表DF。1998年までベルマーレ平塚に在籍)に会いましたけど、彼の奥さんが「さちえは今でも家族のような存在」と言ってくれたみたいです。この言葉はすごく嬉しかったですね。


ただ、サポートしすぎると私無しでは困るという状況が生まれてしまうんです。私無しでも日本での生活が問題なく、楽しく送れるようにしたかったですし、友達も作ってほしかった。「本当に困ったときはすぐに駆けつけるけど、なるべく自分でできるようになったほうが良いよね」。この塩梅を見極めるのに何年かは苦労しました。




2018YBCルヴァン杯 写真提供:湘南ベルマーレ

クラブの生命線「広報」の仕事


ー2000年に湘南ベルマーレに改名、翌年に遠藤さんはクラブ広報に就任されています。「広報はクラブの生命線だと思っている。重要な仕事だけど、できるか?」と眞壁潔さん(現代表取締役会長兼社長)から言われたそうですが、この言葉の重みを今どう感じていらっしゃいますか?


遠藤氏:年々重く感じますね。(クラブの情報が)メディアの方を介して一般の方々に届きますし、広報が皆さんの玄関口にあたるので。広報の仕事をやってみたいという気持ちがあったなかで、「重い仕事だけどやれるか?」と、眞壁さんから最初に言われたのが良かったなと思っています。あれで本当に背筋が伸びました。


ー報道陣に対し口を閉ざしたり、囲み取材等で自分の考えを的確に表現するのが苦手な選手もいたと思います。このような選手にはどう向き合い、どんなアドバイスを送りましたか?


遠藤氏:不得意だからやらないようにするというのは無しにしてますね。(話すのが)得意な選手ばかりを取材してもらう形にはしないようにしていて、不得意な選手こそ積極的に取り組んでもらい、慣れてもらうようなアプローチはしています。


また年齢に関係なく公平であることも大切だと思っています。例えば、若い選手ばかりに指摘するとかじゃなくて、もしベテランの選手でもやるべきことをやっていなかったとしたら同じように言うべきだと思います。人によって対応を変えないようにしています。ただ最近は、若い選手たちも自分の考えを持っていて、それを言葉にする力があると感じています。


ーミックスゾーンで報道陣に呼び止められているのに素通りした選手に、遠藤さんが怒ったこともあるそうで。


遠藤氏:過去にはありましたね。今はそれをする選手はいないですけど。ミックスゾーン(でのメディア対応)は義務ですし、人に呼び止められているのに素通りするのは、人間としてやってはいけないことなので。人前でそれを注意するかは別として、その選手の将来にとっても良くないことなので、スタッフが指摘すべきだと思っていました。




ベルマーレクラブカンファレンス 写真提供:湘南ベルマーレ

オープンなクラブであるためのカンファレンス


ーベルマーレクラブカンファレンス(クラブスタッフとサポーターが一堂に会しての情報開示や意見交換の場)を定期的に実施するようになった経緯や、具体的な理由を教えて下さい。


遠藤氏:これは眞壁さんの発案ですね。眞壁さんが社長に就任した際に「クラブは地域の公共財のような存在。ベルマーレも地域の皆さんのもの。だからベルマーレの将来や、今起きていることについてクラブの中だけで決めるんじゃなくて、サポーターの声を聞いて、クラブの運営に活かしていこう」と。


クラブの存続危機があって、自分たちが生かされたのは地域の皆さんの支えがあったからこそという考えが根底にあります。現在は様々なクラブで実施されていますけど、当時そういったものはなくて。「厳しいことも言われるのに何でそんな会を開くの?」と、眞壁さんは周囲から言われたらしいです。


クラブカンファレンスでは率直な意見や耳の痛い話もたくさん聞くことになるんですけど、皆さんがベルマーレに愛情を持っているからこそですし、私たちにとってはものすごく学びがあります。一方通行ではなくて、両方の意見をお互いが聞ける場。しかもそれが年3回、定期的に開催されている。今58回続いていますけど、積み重ねは大きな財産になっていると思います。


ー明るい話題を提供するのが難しい時期もあったと思います。その際のサポーターへの情報発信や彼らとの関係性作りで、遠藤さんが心がけたことは何ですか。


遠藤氏:どんな状況であってもできるだけオープンなクラブでありたいと思っています。自分たちだけでクラブ運営をしているわけではないですし、皆さんと一緒にクラブをより良くしていこうという思いで日々やってるので。もちろん、様々な要因があるのでタイミングを図ることは大切ですが、クラブの考えを丁寧に伝えていきたいと思っています。


(後編に続く)

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