市川染五郎さんが中村橋之助さん、中村鷹之資さんと3人で『徹子の部屋』に登場。 松本幸四郎さんとの親子対談で語った「歌舞伎の未来」
2025年1月8日(水)11時0分 婦人公論.jp
『婦人公論』1月28日号の表紙に登場している松本幸四郎さんと市川染五郎さん(表紙撮影:篠山紀信)
令和2年の新年号(『婦人公論』1月28日号)の表紙を華やかに飾ったのは、十代目松本幸四郎さんと八代目市川染五郎さん。篠山紀信さんが表紙、グラビアともに撮り下ろした。歌舞伎舞踊の『連獅子』は、親獅子は仔獅子を千尋の谷へと蹴り落とし、自らの力で這い上がってきた仔獅子だけを育てるという「獅子の仔落とし伝説」に基づく演目で、白毛の親獅子と赤毛の仔獅子による豪快な「毛振り」が観客の目を奪う。厳しくも情愛深い父、けなげな子を演じる二人の心中は──(構成=篠藤ゆり)
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仔獅子は大きく踊り、親獅子が受け止める
幸四郎 新年明けましておめでとうございます。
染五郎 明けましておめでとうございます。
幸四郎 今回、僕と染五郎の二人、『連獅子』の衣裳で表紙を飾らせていただきました。舞台では、長くて重さもかなりある獅子の毛を左右に振ったり回転させたり打ちつけたりと激しく動くので、絶対に落ちないようにぎゅうぎゅうに頭を締め上げているでしょう。舞台で舞うのは十数分くらいだと思うけど、たぶんそれが限界だね。それ以上続けると、酸欠で倒れると思う。
染五郎 毛振りは目が回らないかと聞かれることが多いですが、それはなくて、それよりも滑らないように踏ん張るのが大変ですね。僕が演じる仔獅子が毛振りをしながら花道から舞台に移動する場面では、かなり腰を落として、脚全体で体を支えています。
幸四郎 体幹がしっかりしていないと踊れないんだよね。僕が初めて父(二代目松本白鸚)と『連獅子』を勤めさせていただいたのは、12歳、小学校6年生の時。稽古中の毛の振り方が悪かったらしく、初日の2日前に、首を痛めてしまって──。
学校にいる時に首が動かなくなってしまい、歌舞伎座に行っても舞台稽古どころじゃない。スポーツマッサージを施してもらい、なんとか治して初日を迎えられたけど、そういう意味でもすごく大きな思い出になっている。いま考えると、『連獅子』前と『連獅子』後と、人生を分けてもいいくらい、大きな、大きな役だった。
染五郎 僕の初舞台は4歳の時、祖父と父と3人で演じた『門出祝寿連獅子』。親獅子、仔獅子に加え、僕が踊れる「孫獅子の精」というお役を新たに作っていただいて。小さかったので、その時の記憶はあまりないけれど、子どもの頃から勘三郎(十八代目)のおじさまの『連獅子』の映像を観ていたし、ずっと憧れていた演目でした。2018年11月、京都の南座の襲名披露で、染五郎として『連獅子』の仔獅子を勤めさせていただいた時は、すごく嬉しかったです。
幸四郎 それ以前、2016年に高知で1日だけ『連獅子』を演じたことがあったね。あの時は、毛が絡まってしまって。
染五郎 あとちょっとで終わるという時に絡まってしまった。1日公演だったので、リベンジできなかったことが悔しくて……。その思いを忘れずに、南座の舞台に立ちました。また、2019年11月に歌舞伎座で『連獅子』を演じた時は、南座でできなかったことをできるようにするのが目標に。舞台が南座よりずっと広いですし、一から考え直しながら勤めました。
幸四郎 親獅子と仔獅子の動きをぴったり合わせるのはなかなか難しい。どうしても間を詰めてしまうところがあるから、「もっとゆったりと」なんてアドバイスしたこともあったかな。体全体に力を入れれば力強い獅子に見えるかというと、そうではないし。
染五郎 その日、その日の舞台を、自分自身でも噛みしめて反省しました。
幸四郎 初めて演じる時の緊張はもちろんあるけれど、実は二度目がすごく難しいんだ。僕も、正直言って、他人事じゃないという気持ちだったよ(笑)。高知での公演を除けば親獅子を演じたのは南座が初めてで、歌舞伎座が二度目だったのだから。
それまでは自分が仔獅子で、親の背中を見る立場だったから、「追いつけ、追い越せ」と勝負を挑む相手が目の前にいたんだ。でも、初めて親獅子を演じて、前に誰もいないことにすごく戸惑いを感じたね。
染五郎 確かに仔獅子は、舞台の上で親獅子の背中を見ることができます。親獅子が一人で踊る間、仔獅子は少し離れたところに座っているから。そこは勉強の時間だと思って見ています。
幸四郎 仔獅子は、とにかく体を使って大きく踊る。それを受け止めるのが親獅子。親獅子は小さく縮まったり大きく伸びたりする踊り方ではないとはいえ、親としての存在感を示すためには小さい動きでも大きく見せなくてはいけない。
それが親の“ゆとり”というものなのだと思っているけれど、どう踊り、どう消化するかを考えた。『連獅子』を“すごいものにする”ということを目標に、「ここで満足してはいけない。明日こそ、明日こそ」と思って勤めた1ヵ月間だったよ。
自分が観たいものは自分で創るしかない
染五郎 高麗屋には、伝統を継承すると同時に、新しいものに挑戦する気質が代々受け継がれているので、僕も、誰もやったことがない新しいことをやってみたいという気持ちがあります。
幸四郎 2019年は、三谷幸喜さんの作・演出で染五郎も出演した『月光露針路日本(つきあかりめざすふるさと) 風雲児たち』や、チャップリンの映画『街の灯』を原作にした『蝙蝠の安さん』を上演するなど、いろいろ実現できた年だった。
染五郎 そばで見ていて、すごいなと思っていました。三谷さんから「こんなふうにやってみて」という提案があると、絶対に「そんなことはできない」とは言わず、必ずそれを形にしていたので。
幸四郎 自分の感覚としては、誰もやったことのないことをやるというより、自分が観たいものがこの世にないから創るという感じかな。自分が観たいものをどこかでやっていれば、観に行くだけですむんだけどね。そのほうが楽だし(笑)。でも、ないなら自分で創るしかない。それが、創ることへのエネルギーになっている気はするね。
染五郎 僕も、自分で歌舞伎にしてみたいものはあります。シルク・ドゥ・ソレイユの『O(オー)』には感動しました。ほかにも影響を受けたものはいっぱいあるけれど、一番好きなのはマイケル・ジャクソン。今回、『婦人公論』さんから好きな言葉を直筆でというご依頼があったので、マイケルの言葉から選んで書きました。
幸四郎 マイケルを好きになったのは、何がきっかけだっけ。
染五郎 吉本新喜劇。
幸四郎 えっ、そうなの? NHKのこども番組『ハッチポッチステーション』で、グッチ裕三さんがマイケルのモノマネをしてマイケル・ハクションっていうのをやっていたじゃない。染五郎はちっちゃい頃、それをずーっと見ていて。それで、曲が体にしみ込んだのかもしれないよ。吉本新喜劇では、芸人のアキさんがマイケルの曲が流れると踊り出すというギャグをやっていたけど、それのこと?
染五郎 それが最初のきっかけです。僕がそれを見ていたら、「これが本物だよ」って、「BAD」という曲のミュージックビデオを見せてくれたでしょう。そこからハマりました。
幸四郎 ああ! そうだったっけ。
染五郎 「ビリー・ジーン」という曲のPVは、男の人が帽子をかぶり、マイケルにスポットライトが当たるところから始まるけれど、衣裳が白と黒だけのモノクロの世界。そのシンプルな感じにすごく惹かれたので、いつか歌舞伎に取り入れてみたいと思っています。
小さい頃に書いた台本から生まれたのが…
幸四郎 「何かアイデアを思いついたら、書いておいてね」とは、いつも言っているよね。将来、必ず発展させて上演する日がくる。そういうふうにつながるものだと思うから、残しておいたほうがいいよ。
染五郎 はい。書くことは好きです。
幸四郎 僕も、「こんなことができたらいいな」「あんなことがあったら面白いな」と想像していたことを形にしてきたようなところがある。じゃあ、実現させるにはどうしたらいいのか。
年齢を重ねるとともに、第三者にいかに理解してもらうか、あるいは説得するかといった、現実的なことを考えるようになる。その時、5年前、10年前に書いたものが、すごく支えになるんだ。実際、染五郎は小さい頃から台本を書いていたね。
染五郎 小さい頃に書いた台本から生まれたのが『ぼん&ボン吉』という、僕が小さい頃から大事にしているぬいぐるみが演じるお芝居。妹と一緒に自宅稽古場で披露して。
幸四郎 劇団「犬丸座」は染五郎が代表で、妹のくんちゃん(薫子さん)が支配人なんだよね。看板役者はぬいぐるみの松本ぼんざえもんと松本ぼんのすけ。
染五郎 いつか一から新しい歌舞伎を創りたいという思いで、今もいろいろとアイデアを書き続けています。
幸四郎 将来それが実現する時には、僕も出してもらえるかなぁ。まぁ、“作家”からの出演依頼があれば、だね。(笑)
海外の方々にも歌舞伎座へ足を運んでほしい
染五郎 わが家では、大晦日に浅草寺さんにご挨拶に行き、お正月の準備もかねて買い出しをするのが恒例行事ですね。
幸四郎 毎年、元日は朝から夕方くらいにかけてご贔屓筋への年始の挨拶回りをして、そのあと父の家に行く。2日からたいてい舞台が始まるので、忙しいというか、バタバタで。それがわが家のお正月だね。「寝正月」というわけにはいかないし、とにかくあわただしい。
染五郎 皆さんは年が明けたら初詣に行かれるのでしょうけど、うちは行かないですし。
幸四郎 今年も、あいかわらず忙しい1年になりそうだ。ひとつひとつの舞台に向かって、しっかりと臨んでいきたいね。1月は大阪松竹座で、8年前に新作として披露した『大當り伏見の富くじ』の再演が。4月は、襲名披露で父とこんぴら歌舞伎の舞台に立たせていただきます。6月には日本舞踊協会の踊りの会の演出をするので、その演出台本も完成させなくてはいけない。これからの日本舞踊の可能性を堂々とお見せできるような作品にしたいんだ。
染五郎 僕は年明け早々、『万葉集』を題材にしたミュージカルで和歌の歌詠みを志す青年を演じるという、自分にとって新しい挑戦からスタートしました。2020年は、できる限りいろいろなものに挑戦させていただければと思っています。
幸四郎 どうやって海外の方に歌舞伎を観ていただくかということは常々考えているけれど、オリンピックイヤーである今年はぜひ、日本にいらした際には歌舞伎座に来ていただきたいね。
染五郎 歌舞伎座に海外からのお客様がいらっしゃると、僕も嬉しい気持ちになります。たくさんの方に来ていただきたいです。
幸四郎 さらに言うならば、我々歌舞伎役者が海外公演に行くのもいいけれど、世界中の人たちに歌舞伎を演じてもらいたいとも思っている。歌舞伎の演出は、世界に通用するものだという自負があるから、世界中の演劇に取り入れてもらいたいんだ。歌舞伎的な演出が、世界の演劇界でのひとつの選択肢になるのが理想だね。
染五郎 お父さんがそうやっていつも歌舞伎の未来を考えているように、僕も何かを観て感動すると、まず歌舞伎に生かせないかな、と考えます。僕は未熟で自分自身が中心になって何かができる存在ではありませんが、本当に歌舞伎が好きです。
幸四郎 いまは勉強との両立も大変だろうけれど、歌舞伎が好きという気持ちをエネルギーにして、一緒に頑張っていこう。
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