島崎今日子「富岡多惠子の革命」【5】タエコとかずこ

2025年2月1日(土)12時30分 婦人公論.jp


白石かずこ(右)と渋谷のラモで。『婦人公論』1969年3月号グラビア「私のサロン」より

白石かずこと富岡多惠子


 2024年6月、詩人の白石かずこが93歳で逝去した。富岡多惠子が逝って1年2カ月が過ぎていた。その年の11月、白石のひとり娘でロンドンに暮らすアーティスト、白石由子(ゆうこ)の姿が、東京ベイにあるギャラリー、YOKOTA TOKYOにあった。由子は母を看とったあと、いったんロンドンに戻り9月に個展をオープンし、再び日本にやってきて母を偲ぶ会に出て、翌日に日本での個展「枝分かれの庭」を開いた。瞑想空間のような作品を見下ろせる場所で、由子は母の友だちだった富岡の話を聞かせてくれた。
 1956年生まれの由子の作家との最初の記憶は9歳前後、母に連れられて行った富岡と池田満寿夫が暮らす世田谷区松原のアトリエのパーティーからはじまる。そこにはいつも森茉莉、澁澤龍彦、矢川澄子、野中ユリ、加藤郁乎、鍵谷幸信、巖谷國士らがいて、ときに吉岡実や稲垣足穂の顔も見えた。
「うちはベビーシッターがいなかったから、母がどこへでも連れていくんです。当時は、演劇するひとも文学するひとも音楽するひともすべて交ざっていた。あのひとたちは戦争を知っていて、そこから解放されて自由のありがたみを感じていたからあんな熱い日々を送れたんでしょうね。昼間は西脇順三郎先生のところに行って、夜は土方巽さんの暗黒舞踏を観てと、子どもとしては極端でした。母は西脇先生に可愛がられていたんですが、母曰く『西脇先生の奥さんは多惠子のことをとっても気に入っていた』」
 富岡と白石かずこがどこで出会ったのかは定かではないが、恐らく西脇順三郎を通してではないか。富岡より4つ年上、1931年にヴァンクーヴァーで生まれた白石は早稲田大学在学中、20歳のときに第一詩集『卵のふる街』を刊行し、早熟の才を認められていた。富岡が松原に引っ越して西脇と頻繁に交流するようになった63年の夏、親しくなったのだろう。白石が卒業後に結婚した早稲田の同級生で映画監督の篠田正浩と離婚し、やめていた詩作を再開してジャズを伴奏に詩の朗読と、ドラァグクィーンを真似た目のまわりを黒く塗った化粧をはじめた時期。富岡のほうは池田と暮らして3年、マスオが画壇の寵児となっていくころである。

女たちが憧れたふたり


 富岡は、由子と会うといつも最初に髪の匂いを嗅いで、「私、子どもの髪の匂いが好きなんや」と白石に言ったものだ。
「多惠子さんも満寿夫さんも優しくて、うちのファミリーみたいなもの。パーティーでは私がただひとりの子どもなので、絵を描いたり、子ども好きな郁乎さんや吉岡実さんと遊んでもらっていました。私たちは漫画世代でしょ。私が『少女フレンド』を持っていくと、楳図かずおや水野英子を一緒に読んで、『日本語がヘン、この日本語をどう思うかね』と議論が始まるんです。満寿夫さんが画用紙と絵の具を貸してくれると、多惠子さんは決まって『またマスオは由子に高いドイツ製の絵の具を使わせてる』と文句を言いました。
 多惠子さんには『由子、ちゃんとボタンがとまっていない。かずこも髪をとかしなさい』と、母も私もよく叱られた。母の料理はスパゲティミートソースや天麩羅は名人級に美味しいのだけれど、レパートリーが少ないので、母娘で多惠子さんのところで出汁のきいた美味しい和食を食べるのが楽しみでした。『そんなにガツガツ食べるもんやない』と言われるんですが。でも、愛情があることは子どもなりにわかるから大好きでした。母は『“白石クン”ってまるで年上みたいな呼び方をするのよね、あの人は』と言ってました」
 富岡多惠子と白石かずこ。あのころ、時代の風を耳元でビュンビュンならして走るふたりに、女たちは共振した。作風も性格も個性も違えどともに詩壇の人気者で、エッセイを書き、多方面に才能を煌めかせ、自由だった。一緒にミニスカート姿でテレビにも出演する仲であり、年下の富岡のほうがお姉さんのようにふるまった。森茉莉が書く。
〈二人は互ひの偉さを知つてゐる。やさしくてこはい姉さん芸者と、可哀い妹芸者なのだ〉(「詩と私 タエコとかずこ」『群像』1972年5月号)

「私は多惠子についたの」


 タエコがマスオと別れたとき、白石は中学生になったばかりの娘に向かって「多惠子は詩人であることをやめた。彼女はすごく傷ついた。みんな、満寿夫についていったけれど、私は多惠子についたの」と報告し、宣言した。富岡は別離以来、マスオやその友人たちとは関係を絶っていく。
「母はなんでも必ず私に報告したんです。あとで、『時々忘れるのよね、あの人は。私が彼女についたことを』と言ってました。母が一番早かったけれど、澄子さんも澁澤さんと別れたし、あの時期は、みんな、いろいろ起こってたんですね。うちの両親の場合、離婚したときはふたりともそんなに有名じゃなかったけれど、多惠子さんの場合はメディアが盛り上がっていたときだし、別れ方が痛烈だったし、しんどかったんじゃないかな」
 それからは、由子が富岡と会うのはもっぱら母と暮らす西荻のアパートか外になった。
「うちでパーティーするときもしょっちゅう来ていた。詩人の高橋睦郎さん、八木忠栄さんに写真家の沢渡朔さん。パーティーでは多惠子さんがお姉さん役で、一番子どもだったのが森茉莉さん、『由子が茉莉のお刺身とった』とよく責められました。母と多惠子さん、澄子さん、森茉莉さんの4人はいつもつるんでたんです。みんな、お金がなかったけれど、小さなスミレの花束とかガーベラ1本とかプレゼントしあったりして。今ならフェミニズムで語られるだろうけれど、4人ともサバサバして少年っぽい人たちで、気の合うのはわかりました。外国に行くと母はその3人へのお土産をまず考えるんですよ。多惠子さんもどこかへ行くと、『かずこ、これは高いもんやで。プレゼント』と髪飾りなんかを買ってくるわけ。
 ただ音楽の趣味はみな全然違う。母はジャズで、澄子さんはジョン・ケイジや高橋悠治、森茉莉さんはシャンソン、多惠子さんは歌謡曲、演歌でしょ。レコード出したときはものすごく喜んでいて、坂本龍一のお母さんが大学の先輩で、『うちの息子使ったら』と紹介されたとか。多惠子さん、『坂本クンと私の歌いたいもんはちょっと違っていた』と言ってましたけど、それはそうですよね」 
 白石が71年にH氏賞を受賞することになる「聖なる淫者の季節」を論じる鼎談が富岡、白石、合田佐和子の3人で行われている。〈愛がいっぱいだから言うてんのよ〉と厳しく批判し、称賛する富岡。

〈私は白石さんに通俗性が必要だと思った。通俗性というよりも愛想のよさね〉〈私より白石さんのほうがシャープよ、言葉に対する感覚が。私は鈍ですよ〉〈白石さんに較べると、私なんか、いつも俗人だと思って自己批判よ〉(「現代詩手帖」1968年4月号) 

「カッコええやろ」


 そのころの白石のボーイフレンドたちは黒人で、アパートには行き場のないゲイの友人を住まわせていた。85年に『ベッドタイムアイズ』で鮮烈にデビューした山田詠美が、恋人が黒人というだけで激しいバッシングにあったときよりも20年近く前である。
「音楽の趣味の違う多惠子さんはいなかったけど、母が四谷シモンさんや合田さんやコシノジュンコさんらと立川のディスコに通っていた時代です。三島由紀夫さんが一緒だったこともある。当時の私の乳母は、オカマと蔑称で呼ばれていたゲイの人たちでした」
自身を「はぐれもの」「流れ者」と呼んだ富岡は白石のアウトサイダーぶりを愛し、自分にはない奔放さをうらやみもしたろう。ふたりの論者で、文学者の水田宗子が記す。
〈その意識(注・はぐれもの思想)は二人が共有するものであったことは確かである〉
(『白石かずこの世界 性・旅・いのち』2021年)
 水田も同様のことを書いているが、白石かずこ追悼特集でふたりの遊び仲間でもあった高橋睦郎は両者の違いをこう指摘する。
〈多惠子の闘いはどちらかといえば精神に傾くのに対して、かずこの闘いは肉体的。肉化incanateされないと詩にならない〉(「現代詩手帖」2024年10月号)
 作品も佇まいも先駆的なふたりだった。
 由子は笑う。
「ふたりとも、風当たりが強いの、好きでしたね。熱かったですね」
 富岡が75年に「文學界」に発表した短編「昨日の少女」は、マスオと別れたあと、ひとりで暮らした時代に材をとったフィクションである。ここに女ともだちに送り込まれた〈犬よりもものをいわない〉男が登場して、〈じゃあ、結婚するしかない〉と言う。「動物の葬禮」などこの時期の作家の小説には、夫の菅木志雄を彷彿させる男がしばしば登場する。
 由子は、菅を知った日のことも覚えている。富岡が机の上の写真を、「カッコええやろ」と指さしたのだ。
「多惠子さんが選んだのはどちらもアーティストだけれど、満寿夫さんと木志雄さんの作品ってすごく違うから、感覚とかも全部違うと思う。多惠子さんは木志雄さんと一緒になって幸せそうでした。木志雄さんみたいな人に愛されて本当によかったと思う。それは母にも言えることです」
 80歳を超えて認知症の症状がではじめた白石は、40年近くを一緒に暮らしてきた22歳年下の菱沼眞彦と83歳で再婚していた。菱沼の腕のなかで亡くなっている。
「菱沼さんも本当に母を愛してくれています。多惠子さんと母、ふたりの女性は日本の女性を改革したみたいですが、人間的に幸せだったと思います。私は多惠子さんと木志雄さんと一緒に会ったことはあまりなくて、多惠子さんは、満寿夫さんとのことがあったから、プラベートなことは気をつけていたと思う。私は木志雄さんとはアーティスト同士として見つめ合っている感じ。多惠子さんが『カッコええやろ』と言った人がこういう作品を作っていたのか、って」

涙の披露宴


 富岡が、篠田監督と仕事を始めたのは、ちょうど菅と結婚した前後である。68年に「心中天網島」の脚本を共同執筆したのを皮切りに、72年には札幌オリンピック公式記録映画のナレーションのシナリオを担当、 73年「卑弥呼」、74年「桜の森の満開の下」の脚本を共同執筆し、84年「鑓の権三」の脚本を書いた。
 由子にとって、富岡と父・篠田の交流は嬉しいことだった。高校卒業後、カナダへ留学し、ロンドンの美術学校で修士号を得てアーティストしての活動を開始し、83年、27歳でイギリス人と結婚した。そのとき、式に出られない父に婚約者を紹介する席に、富岡もやってきた。
「一緒に文楽を見て、4人で中華を食べたんです。父が頼んだんでしょうけれど、きっとチェックにきたんですね。仕事で会うときでも、多惠子さんは私のこと、父に報告してたんでしょう。寺山修司さんと多惠子さんは、両親が別れたあともずっとふたりの友人でした」
 由子が両親と同じ東伏見稲荷神社で挙式を終え、開いた赤坂プリンスでの披露宴にも、当然の如く作家は夫とともに列席した。ここでの出来事が、いかにも富岡と白石らしい。スピーチに立った富岡は「母らしくない格好をしている」と白石に文句をつけたのだ。事前に「花嫁より着飾ったらあかんよ」と念を押したのに、白石は渋谷のラモで仕立てたベルベットのドレス姿で、脚のつけ根までスリットが入り、誰よりも目立っていた。
「私は緊張していたのでそれくらいしか覚えていません。スピーチのときから多惠子さん、感激してずっと泣いていました。うちの母も祖父母も他に誰も泣いていないのに」
 菅は結婚式に出たことを忘れていたものの、妻が由子へ向ける愛情はよく知っていた。
「由子ちゃんは子どものころは病気がちで、痩せていたから不憫にも思ったでしょうね。アーティストになって喜んでました。僕もずっと作品を見てますが、インテリの作品です。くだらないことしてないんですよ。クールで、すきっとシャープで、いいですよ」


白石かずこと(写真提供:神奈川近代文学館)

創作の苦しみ


 涙の披露宴から2年後の初夏、河野多恵子と旅したロンドンで由子と再会したときのセンチメンタルな気持ちを、富岡が書いている。

〈彼女の親たちよりU子の立場に、わたしはいつも、ひそかに一体化してきた。それは自分に子供がいないために、いまだにコドモだという理由だけではない。自分の親たちが、離婚こそしなかったが、離婚よりももっと悪い状態で暮してきたために、その時の子供の立場を忘れまいとしているところがある〉(『嵐ヶ丘ふたり旅』1986年)

 由子のほうは、そうした富岡の気持ちとは距離を置いてきた。
「子どもって、あまりかき回されたくなくて防御するから、そういう多惠子さんの気持ちはわかって気づかないようにしていたんでしょうね。ロンドンの家に来てくれたとき、私が多惠子さんの好きな和食を作ったら、涙を流して喜んでくれて……。これでちょっとは恩返しができたかなと思いました」
 そのときのロンドンでは、49歳の富岡が「このごろ、絵を描いてる」と創作の苦しみを、28歳の由子に打ち明けている。
「『小説家というのは頭脳にいろんな引き出しがあって、終わりがないから酷い偏頭痛で苦しむ。終わりがないのがつらい。絵はとにかく葉っぱ1枚描けば終わりというシグナルがくるので、絵を描きはじめたんだ』と、私に言いました。アーティストは半分肉体労働のようなものですけど、私もビジュアルなものをやってるときと、文章を書くときとは違う脳を使っているってわかるから、一方の脳だけ使っていたらしんどいことはわかりましたよね。母にそれを言うと『私は本当に小説家でなくてよかった』って言いました。母は素直にポロポロ本音を出すひとですけど、多惠子さんのことは本当に好きでしたね」

可愛い人だった


 富岡と白石の関係は、作家が玉川学園、伊東と東京から離れていくにつれ間遠になっていったが、前述の白石かずこ追悼集で、菱沼がこんなエピーソードを語っている。
〈最後は読売文学賞を受賞した頃(注・2009年)だと思いますね。富岡さんは選考委員だったから、友だちだから渡したと思われるのはとんでもないことだから、かずこさんにしばらく近づかないわよ、みたいなことを言ったらしい〉(「現代詩手帖」2024年10月号)
 疎遠になった時期でさえ、こんなふたりであった。富岡は、白石の病気のことをいつも案じていたと聞く。
 作家と由子の交流は最後まで途切れなかった。富岡はヨーロッパに行くと由子と会い、由子も日本に戻ると富岡へ連絡することを忘れなかった。2007年5月、矢川澄子が黒姫の自宅で自死したときも、電話で話している。
「澄子さん、亡くなる2、3週間前に私の個展に来てくださって、会ってるんですよね。だから亡くなったと聞いたとき、本当にびっくりしました。電話の多惠子さんは怒ってましたね。静かに怒っている感じでした」
 数年前、由子は富岡と最後の電話を交わした。時々電話していた篠田から、「娘に『何かしたら』」と言われたと聞いたようで、すでに筆を置いていた作家は「引退した人に、何かしなさいというのは言っちゃいけない」と由子を諭した。篠田は映画監督を引退し、パーキンソン病で闘病中であった。
「娘とすれば言いますよね。そのときの多惠子さんは、『木志雄の個展をニューヨークでやるので、行くつもり』と言っていて、元気でした」
 2023年4月、ロンドンの由子に友人から富岡の訃報が届く。
「みんな多惠子さんを怖いと言うけれど、私には可愛い人でした。パーマなんかかけると『由子、可愛いやろ? お嬢ちゃんに見えるやろ』って言うの。今、母のこと、書くひとがいないんです。多惠子さんや澄子さんが生きていたら書いてもらえたのに……。みんな、いなくなってしまいました」
 由子と会って数日後、富岡多惠子や白石かずこと同時代を生きた詩人、谷川俊太郎が92歳で没した。

  ※次回は2月15日に公開予定です。

                   (バナー画提供:神奈川近代文学館)

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