「徳川御三卿」はなぜできた?その由来と公務、御三家との違い、田安家、一橋家、清水家の主な出身者
2025年2月10日(月)6時0分 JBpress
(鷹橋忍:ライター)
大河ドラマ『べらぼう』では、「御三卿」と称される、寺田心が演じる田安賢丸(松平定信)、生田斗真が演じる一橋治済(ひとつばしはるさだ)、落合モトキが演じる清水重好(しみずしげよし)などが登場する。徳川御三家に比べ、御三卿は少し馴染みが薄いのではないだろうか。そこで、今回は御三卿を中心に取り上げたい。
御三家とは
御三卿の前に、まず御三家の復習をしておこう。
御三家は、徳川家康の九男・徳川義直(よしなお)を祖とする「尾張徳川家」。
十男・徳川頼宣(よりのぶ)を祖とする「紀伊徳川家」。
十一男・徳川頼房(よりふさ)を祖とする「水戸徳川家」の三家を指す。
御三家はそれぞれ、尾張家が六十一万九千五百石、紀伊家が五十五万五千石、水戸家が二十八万石の独立した大名である。
将軍継承権を有し、徳川姓を称することが許されていた。
家康は、将軍家に跡継ぎがいなくなった場合の控えとして、御三家を立てたという(歴史読本編集部編『徳川将軍家・御三家・御三卿のすべて』所収 山本博文「Q&A 将軍家・御三家・御三卿の基礎知識」)。
家康の危惧は、現実となる。
七代将軍・徳川家継の死により将軍宗家の血脈が途絶え、紀伊徳川家の徳川吉宗が、御三家からはじめて、将軍の座に就いた。
八代将軍となった吉宗の血筋から、御三卿が生まれることになる。
御三卿の由来は?
御三卿とは、吉宗の次男・宗武(むねたけ)を祖とする「田安家」。
四男・宗尹(むねただ)を祖とする「一橋家」。
九代将軍・徳川家重(吉宗の長男)の次男・重好(しげよし)を祖とする「清水家」のことである。
従三位以上の官位をもつ者を「公卿」と呼ぶが、御三卿の「卿」は、宗武も宗尹も重好も、初叙が従三位であったことに由来するという(大石学編著『図説 江戸幕府』所収 行田健晃「御三卿——柔軟に将軍を支えた「城住み」の徳川一門」)。
御三卿は将軍の一族であり、家格は御三家に次ぐとされるが(教育社編『日本史重要姓氏辞典』)、城持ちではなく、江戸城の郭内に居を構えた。
御三家が独立した大名であるのに対し、御三卿は「将軍家に附属し、養われる存在」で、独立性に乏しかったといわれる。
吉宗が田安家と一橋家を立てた理由は?
次に、御三卿のなりたちをみていきたい。
御三卿の中で最初に創設されたのは、田安家である。
享保16年(1731)、吉宗の次男・宗武が、17歳の時に江戸城の田安門内に屋敷を与えられて居を移し(土岐善麿『田安宗武 第1輯』)、田安家がはじまった。
賢丸は、宗武の七男だ(高澤憲治『松平定信』)。
田安家の次に創設されたのが、一橋家である。
吉宗の四男・宗尹は天文5年(1740)、20歳の時、江戸城の一橋門内に屋敷を与えられた。
翌寛保元年(1741)、宗尹はこの屋敷に移り住み(辻達也編『新稿一橋徳川家記』)、一橋家を称した。
一橋治済は一橋家の祖・宗尹の四男で、一橋家の二代目当主である。つまり賢丸も一橋治済も、八代将軍・徳川吉宗の孫にあたる。
宗武を祖とする田安家と、宗尹を祖とする一橋家は、「御両卿(ごりょうきょう)」と呼ばれ、将軍に後継者がいない時は、これらの家から立てることとなった(笹間良彦『江戸幕府役職集成 改訂増補版』)。
吉宗が田安家と一橋家を立てたのは、将軍家と御三家の血統が希薄になってきたのを補うためとも、御三家を制御するためともいわれる。
だが、将軍の庶子を、すべて大名として独立させていっては際限がないので(財政的余裕がなかった)、吉宗は宗武と宗尹を、部屋住(へやずみ)として将軍家に置いておき、しかるべき大名家へ、養子として送り込もうという意図があったかもしれないと、推測する説もある(辻達也編『新稿一橋徳川家記』)。
御両卿から御三卿へ
吉宗は延享2年(1745)9月に、数え62歳で引退を表明。
田安家と一橋家は、翌延享3年(1746)、九代将軍・家重から十万石の領知が与えられた。
宝暦元年(1751)6月、吉宗は68歳で没するが、御三卿の最後の一つ、清水家は、吉宗の没後に創設される。
九代将軍・家重は亡父・吉宗に倣い、宝暦8年(1758)、次男の重好(当時は万次郎)に、江戸城の清水門内の屋敷に移るように命じた。
翌宝暦9年(1759)、15歳の重好は元服して、清水門内の屋敷に移り住み、清水家がはじまった。
清水重好は、清水家の初代当主なのだ。
清水家の誕生により、御三卿が成立する。
宝暦12年(1762)、清水家も田安家や一橋家と同様の領知十万石を拝領した。
御三卿の公務は?
御三卿は、参勤交代も領知の政務もなく、儀式の参加が主な仕事といえた。
毎月1日、15日、28日に行なわれる月次の儀式や、年始、五節句、八朔などの定例の祝儀や、臨時で行なわれる儀式などで、頻繁に登城している。
8日と24日の「御定日」という登城日には、将軍や大御所の御機嫌伺いをした。
それ以外の日は、他の御三卿を訪問したり、訪問を受けたりするか、下屋敷で遊んだという(以上、茨城県立歴史館『一橋徳川家の名品』所収 辻達也「一橋家の歴史」)。
また公務ではないが、将軍家および、御三家を含む大名家へ、養子を輩出する機能を果たした。
御三卿特有の「明屋形(あきやかた)」とは?
通常、大名家では当主を欠くと、家は廃絶となるが、御三卿は当主不在でも家名が存続する「明屋形」となることもあった。
また、幕臣が出向した「付人(つけびと)」が家臣団の中に存在したことも、御三卿の特徴に挙げられる。
御三卿の出身者
最後に、御三卿から出た著名な人物をご紹介しよう。
まず、田安家は、寛政の改革を主導した老中松平定信(賢丸)が挙げられる。
十五代将軍・徳川慶喜のあと、宗家を継いだ徳川家達(いえさと)も、田安家の出である。
家達は貴族院議長や日本赤十字社社長などを務め、ワシントン軍縮会議にも全権委員として列席している。
一橋家からは、十一代将軍・徳川家斉と、前述の十五代将軍・徳川慶喜が出ている。
水戸家から養子に入った清水家六代当主の徳川昭武(あきたけ)は
今後、一橋治済や田安賢丸が活躍するであろう大河ドラマ。主人公の蔦重とどう絡むのか、注目である。
筆者:鷹橋 忍