源義経の家臣への思いやりと驕慢…過度な共感はリーダーの判断を鈍らせる?

2025年2月17日(月)5時50分 JBpress

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います


「思いやりにより、人を導くべき」

 元暦2年(1185)2月16日、源義経は屋島にいる平家を叩くため、摂津国渡辺を船出します。『吾妻鏡』(鎌倉時代後期の歴史書)によると、暴風雨の中の船出だったようです。翌日には、阿波国勝浦に無事に着岸した義経軍(150余騎)。同国の武士・近藤親家を召し寄せ、彼を道案内として、屋島に向かいます。途中、桂浦においては、平家方の桜庭良遠を攻めたとされます。 

 義経軍の攻撃を受けて、良遠は「城」から逃亡したとのこと。阿波から讃岐に入った義経は、同月18日に屋島の平家軍を攻撃します。攻撃の前に、義経軍は高松の民家などを焼き払ったようです(『吾妻鏡』)。

 突然の義経軍の襲来に驚いた平家方は、殆ど戦わないまま、安徳天皇を伴い、海上に逃走しました。義経たちは、それを追い、波打ち際に馳せ向かいます。

 義経軍、平家軍、共に「矢石」の応酬があったようです。そして、平家方の陣営を燃やす義経軍。黒煙は天にたなびき、陽の光を遮るほどでした。平家方の武士にも勇気ある者がいて、船から降りて、義経軍に対抗するものもいました。越中二郎盛継、上総五郎忠光らがそうです。

 この時の合戦により、義経の家人・佐藤継信は討死してしまいます。義経は家臣の死を大いに悲しみ、僧侶に依頼して、継信を埋葬させたそうです。また、自分が大事にしていた名馬(行幸の供奉の際に、後白河院より賜る)を布施として、その僧侶に与えたといいます。亡き家臣の弔いのためでした。この話を知った人々は、それを「美談」と認識したようです。

 義経の家臣に対する温情が分かるエピソードです。リーダーにとって、思いやりの心というものは大切。リーダーは共感ではなく、思いやりにより、人を導くべきだという声もあるほどです(ラスムス・フーガード「リーダーは「共感」ではなく「思いやり」で人を導くべきだ」『ハーバードビジネスレビュー』2022・1・20)。

 部下に共感する必要性が増加するほど、リーダーに過度な負担が生じる。また、共感はリーダーの判断を曇らせ、適切な判断を妨げる。

 そういった状況を避けるためには、思いやりのリーダーシップが必要だと言うのです。義経は、軍事行動においては、他者に共感して進めるということをしていません。摂津国から四国に船出する時も、「副将を先ず、出陣させては」「帰京してはどうか」という提案を蹴っています。自分の感覚や決断を信じて、行動しているのです。

『吾妻鏡』だけでなく軍記物『平家物語』からも、その事は分かります。屋島の平家を攻めるため、渡辺を船出する際、梶原景時らと評定した義経。景時は船に逆櫓を付けたいと主張します。船を後方へも自由に漕ぎ進められるように、櫓を船の前部に取り付けたいというのです。ところが、義経は「最初から逃げる事を考えては戦勝は得られない。義経の船には逆櫓は不要。あなたの船には付けるが良い」と景時の提案を嘲笑、斥けるのでした。


「自分の意見を優先して、頼朝様のお考えを守りません」

 また、壇ノ浦の合戦の前にも、義経と景時は衝突。先陣に立ちたいと主張する義経を、景時が「大将が先陣などいけません。そのようなことを言うとは、将の器ではない」と愚弄、2人は斬り合う寸前までいったと『平家物語』にはあります。

 義経と景時は主従関係にはありませんが、とにかく、前述したように、義経は他者に共感するというよりは、自分の信念や直感というものを信じて、行動しています。しかし、そのような行動は、えてして、人々の憎しみや怒りをかうものです。

 壇ノ浦の合戦後、梶原景時が主君・源頼朝に「義経殿に本心から帰服している者はいないでしょう。彼(義経)の振る舞いを見るたびに、頼朝様のお心に違えているのではと感じ、諫言するのですが、その言葉が仇となり、罰を受けそうになります。義経は、自分の意見を優先して、頼朝様のお考えを守りません。自分の意志に任せて、我儘に行動をします。

 よって、「武士達は皆、恨みに思っております。それは、この景時ばかりではありません」と報告したのは、義経の前述の性格が災いしたものと見受けられます。

 ちなみに、義経は身長150センチないほどの小男だったと言われています。『平家物語』において、平家方の家人が「九郎(義経)は色白で背の低い男だが、前歯が差し出ていて、はっきりわかるというぞ」という場面がありますし、弓を取り落とした義経が「もっと強い弓ならいざ知らず、源氏の大将がこのような弱い弓を使っていることを平氏に知られては、末代までの恥となる」と拾いに行ったという逸話は有名です。

 義経が小男で非力だったとしたならば、それをカバーできるだけのオーラや威厳というものがあったのでしょう。中国の最高指導者となった鄧小平(1904〜1997)も小男でしたが、頭の回転が速く、眼光は鋭かったとされます。おそらく、義経にもそうしたオーラがあったと推測されます。

筆者:濱田 浩一郎

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