近藤長次郎によるユニオン号調達の実態と苦悩、薩長融和のための周旋活動の内容とは?

2025年2月26日(水)6時0分 JBpress

(町田 明広:歴史学者)


桜島条約と近藤長次郎

 長州藩主毛利敬親から直接依頼を受けた近藤長次郎は、何とかして薩摩藩から名義貸しによる軍艦購入の了解を引き出すことに迫られた。そのため、井上馨と下関で「桜島条約」を起草したのだ。その作成日は不分明であるが、慶応元年(1865)の9月から10月にかけてであろう。

 その主な内容は、旗号は島津家のものを借用、乗組員は社中の士官(高松太郎、菅野覚兵衛、新宮馬之助、黒木小太郎、白峯駿馬、沢村惣之丞)と従来からの召連れの水夫や火焚、長州藩からは士官2人が乗船、船中の賞罰は社中士官が実行、諸経費はすべて長州藩が負担、長州藩の使用に空きがある時は薩摩藩が利用可能というもので、薩摩藩に俄然有利な内容であったのだ。

 近藤はこの桜島条約をユニオン号購入の条件として、薩摩藩を説得するために鹿児島に向かった。そして、小松帯刀の許に8日間ほど滞在しながら、実現のために奔走したのだ。その間に、島津久光への拝謁を遂げている。近藤にとって、久光への謁見は2回目となり、薩長融和に尽力する薩摩藩士・近藤長次郎の面目躍如たる瞬間であった。生粋の薩摩藩士でもそうそうなし得ない、短期間での連続謁見であった。


薩摩藩における桜島条約

 なお、桜島条約は、薩摩藩に有利な内容であったにもかかわらず、藩内は多数の異論で沸騰した。禁門の変などを通して、薩長両藩は不俱戴天の敵であり、まだこの段階では、長州藩との過度な連携に対する拒否感が根強くあった。

 つまり、具体的な薩長連携に向けた雰囲気が、必ずしも藩全体には共有されていなかった。しかも、幕府からは嫌疑の目を向けられており、それに対する警戒心の証でもあったのだ。武器とは違って、軍艦は目立つものであり、薩摩藩も慎重にならざるを得なかった。

 そこを突破した小松帯刀の政治手腕にあらためて着目すべきである。確かに、近藤の活躍もさることながら、小松の存在があって初めてユニオン号購入も前進できたことは間違いない。当然ながら、小松の決定を支持した久光の存在も、忘れてはならない。


近藤によるユニオン号調達の実態

 鹿児島で根回しを終えた近藤は、長崎に戻ってグラバーおよび薩摩藩の長崎在番藩士に周旋した結果、10月16日に薩州聞役の汾陽次郎右衛門から長崎奉行にユニオン号購入の申請が行われた。なお、近藤の書簡(井上馨宛、10月18日)によると、井上と下関で談合した桜島条約を薩摩藩側も了解したことによって、近藤が18日にユニオン号を受領したことが分かる。

 その書簡には、一旦ユニオン号を鹿児島に寄港させた上で、下関まで回航させるので安心するようにと続けて書かれていた。この後、ユニオン号事件が勃発することなど夢にも思っていない様子がうかがえる。

 実は、この間の近藤の詳細な動向は、史料上明らかではない。おそらく、長崎・鹿児島間を往復しながら、ユニオン号購入に向けた周旋活動を展開していたことは間違いない。近藤こそ、軍艦購入における無比の存在であったことは疑いがないのだ。


ユニオン号購入における近藤の苦悩

 ユニオン号購入にあたって、近藤は井上宛の同書簡で膨大な諸費用の発生に非常に苦しんでいる様子を訴えている。薩摩藩の役人には遠慮して言い出せず、グラバーからの1000両の借金でようやく賄っているので承知して欲しいと告げ、いずれ必要経費は帳面に明記して請求すると伝達した。

 近藤は薩摩藩士として、薩摩藩を代表して長州藩に対しているのだが、薩摩藩に残る反長州藩的な藩の実情もあり、ぎりぎりの状態の中で、ユニオン号購入の実現を図っていたのだ。そもそも、新参者の近藤に反感を持っていた藩士も少なからずいたであろう。近藤の苦しい立場を察することができる。

 また、近藤は購入費用について、薩摩藩の長崎在番の役人が面倒なことを言い募るので困窮しており、代金は薩摩藩の大坂藩邸まで送金するか、下関で近藤本人が受け取りたいと井上に懇願している。近藤はユニオン号の代金について、自身で様々な手配をせざるを得ない状況にあったことは気の毒でならない。

 その上で、近藤はユニオン号を一旦鹿児島に寄港させ、11月下旬の引き渡しを約束している。ユニオン号の調達はこれまで通説では、龍馬が率いた亀山社中によって成し遂げられたとされてきた。しかし、実際には亀山社中は存在せず、近藤が1人で行っている実態が浮かび上がってくる。


近藤の薩長融和周旋活動

 近藤の薩長融和に向けた周旋活動は、ユニオン号の購入だけに止まらない。先ほどの井上馨宛の書簡には、さらに驚くべき活動内容が含まれている。以下、具体的に見ていこう。

①ガンボート(砲艦の一種、軍艦に比して小型)2艘は、薩摩藩の名義貸しによってグラバーに発注済みなので安心して欲しい。

②ロンドンへの留学生派遣だが、長州藩士を薩摩藩士として派遣することは、もう少し協議する時間が必要である。

③薩摩藩名義によるアームストロング砲の購入は、今回は間に合わなかったものの、12月から1月までに輸入が叶い、下関まで搬入するとグラバーから回答があった。

④薩摩藩での英学および砲術修行について、現在は教授が中止されているので、しばらくは様子見が妥当であろう。

⑤ゲベール銃購入については、グラバーと交渉中であり、いずれ直接話したい。

 このように長州藩の依頼は、軍艦、武器の購入から始まって、ロンドンへの留学生の派遣、鹿児島での英学、砲術修行の斡旋にまで及び、これらの実現には、近藤という希有な偉才の存在が不可欠であったことは自明である。

 また、近藤は小松帯刀・西郷隆盛の昨日の上京(長崎発)および久光の来月初旬での率兵上京を井上に示唆している。さらに、率兵上京の人数が多数になった場合は、大騒動が持ち上がるであろうと、上方での政治変動も予測している。薩摩藩士・近藤の情報を、長州藩に伝達している事実は見逃せない。近藤はさまざまなチャンネルを使用して、薩長融和に貢献していたのだ。

 次回は、薩長融和の雰囲気を壊しかねないユニオン号事件について、その経緯を追いつつ、近藤長次郎が本事件に関して、どのような対応を行い、暫定的な解決にまで至ったのか、その実相に迫りたい。また、近藤の存在がどのような歴史的意義を持っているのかについても言及したい。

筆者:町田 明広

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