戦後最大の脚本家・橋本忍、アカデミー賞初受賞作『羅生門』から数々の傑作を生み出した謎多き映画人の真実

2024年3月21日(木)8時0分 JBpress

先日発表された第96回アカデミー賞では、『君たちはどう生きるか』が長編アニメーション映画賞、『ゴジラ-1.0』が視覚効果賞をそれぞれ受賞する快挙を成し遂げた。日本映画界における記念すべきオスカー初受賞は1952年の『羅生門』(黒澤明監督)だが、その他『七人の侍』『白い巨塔』『日本沈没』『砂の器』『八つ墓村』といった幾多の日本映画の傑作を生みだした脚本家が橋本忍だ。戦後最大の脚本家と呼ばれる不世出の映画人とは?

選・文=温水ゆかり

12年の歳月を費やして浮かびあがらせた、謎多き名脚本家の「真実」

著者:春日太一
出版社:文藝春秋
発売日:2023年11月27日

【ストーリー概要】

“全身脚本家”驚愕の真実!

『羅生門』、『七人の侍』、『私は貝になりたい』、『白い巨塔』、『日本のいちばん長い日』、『日本沈没』、『砂の器』、『八甲田山』、『八つ墓村』、『幻の湖』など、歴史的傑作、怪作のシナリオを生み出した、日本を代表する脚本家・橋本忍の決定版評伝。著者が生前に行った十数時間にわたるインタビューと、関係者への取材、創作ノートをはじめ遺族から譲り受けた膨大な資料をもとに、その破天荒な映画人の「真実」に迫る。全480ページ。

 騒動と呼ぶにはあまりに悲劇的で、事件と言うにはためらいがあるTVドラマ『セクシー田中さん』問題。1月末にこの件が明るみに出て以来、原作と脚本の関係が気になって仕方がなかった。脚本家はどんな回路で原作と対峙しているのだろう? 

 著者の春日太一さんが12年の歳月を費やして完成させた評伝で、2023年の収穫作である『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』を読んでみた。

 橋本忍(1918〜2018年)は、映画が娯楽の王様であった昭和に、黒澤明監督との共同脚本(計7本)や、松本清張原作のシナリオのほか、『白い巨塔』や『日本のいちばん長い日』などリメイクされるたびに原典として参照される作品を手がけた名脚本家である。

 春日さんが橋本忍へのインタビューを開始したのは2012年のこと。橋本は映画史に名を刻む業績を残しながら、まとまった証言といえば黒澤明との関係に特化して書いた自著『複眼の映像』(傑作です!)があるだけで、あとは映画雑誌などに断片的な証言があるだけだった。

 映画史研究家で、日大大学院で芸術学博士号を取得した春日さんはこう考える。橋本忍には謎が多すぎる。残された時間は多くない。だったら自分でやるしかない。春日さんの取材申し込みは快諾された。

 12年前当時、春日さん35歳、橋本忍94歳。ダブルスコア以上の年齢の生きる伝説を前にして、どれほど緊張したことか。インタビューをなりわいとしてきた者として分かるような気がするが、春日さん曰く、「取材中の橋本は、まったく年齢を感じさせないパワフルさ」で語り尽くしたと言う。

 2014年までの2年間で計9回のインタビューを行い、橋本の体調の回復を待って取材は再開されるはずだった。しかし体調は戻らなかった。春日さんは橋本の没後、書斎や物置に入って創作ノートやメモに目を通すことを遺族に許される。

 この『鬼の筆』は、九十路(ここのそじ)の橋本忍が、対面で春日さんに明かした「えーーーっ」とのけぞる事実(私ものけぞりました)、『複眼の映像』における記述、映画雑誌などから採集したコメント、橋本を脚本の師とした山田洋次監督や関係者への取材、春日さんが「古文書のようだった」という創作ノートやメモなどから解読したもの。それらをジグゾーパズルのように組み合わせ、そこから橋本忍という像を浮かび上がらせたものである。


賽の河原で石積みをする日本人の姿を「現代の詩」に

 春日さんはもったいぶらず、巻頭ですぐに橋本ワールドのキーワードを出す。それが「鬼」。備忘録的に書かれた1961年の創作ノートに、「序〜鬼の詩」としてあった。所々はしょって、その詩を孫引きする。

「人間は、生まれて、生きて、死んで行く。その生きて行く間が人生である」/「人生とは何だらう」「「賽の河原の石積のようなものである」/ところが「時々、自分達の力ではどうしようもない鬼(災難その他)がやって来て」「金棒で無慈悲にこの石をうち崩す」

「人間はそのたびに涙を流す」「体全体までが涙で充満する」/そして「また石を積み始める」/人間には「何かとても強い意志」「不思議な程に強い生命力がある」/「人間ほど素朴で、悲しく美しい」「強いものはないように思える」/「その姿を適確に描き出すことが、『現代の詩』を生み出すことではなからうか」

 これを書いたとき橋本忍40代前半。橋本にとって脚本というのは、賽の河原で石積みをする日本人の姿を「現代の詩」にすることだった。いわば日本人の叙事詩だろう。

 この稿の最初に「脚本家はどんな回路で原作と対峙しているのだろう?」と書いたけれど、原作の有無にかかわらず、橋本忍は叙事詩の構えで脚本を書いていた。これだけでも、一つの解答(脚本家の在り方)を見つけた気がする。

 私がここで、シナリオライターの在り方に関する生半可な現状論を繰り広げても仕方がないので、この先は評伝としての『鬼の筆』の面白さ、クールなようなドライなような、それでいて鉄火場の博徒のような激しさと俗気を持ち合わせた橋本忍の実像の紹介に努めていこうと思う。

 橋本は兵庫県神崎郡の鶴居という村に生まれた、女性に間違えられそうな名を男児に付けたのは祖母だったという。生いたちでひどく印象的なのは、この祖母が忍少年にせがまれ、何度も語り聞かせた「生野騒動」の顛末である。

 明治初期、年貢半減を訴え、竹槍で武装した農民達が生野県庁を襲撃する。役人も無傷ではいられない、役人の血で池は赤く染まり、一揆を起こした村人達も次々と斬首の刑に処せられた。

 遠くに飛ぶ生首、目の前に落ちる生首。その光景を村人達が茫然と見守る中、結婚間もない若妻が夫の遺骸もとに駆け寄り、両先端を鋭く尖らせた棒を首と胴に差し入れ、一つに繋ぐ。棺桶に夫を入れると、男達に担がせ立ち去っていったという。

 創作民話ならぬこの実録講談を、祖母は毎回こう締めくくった。「昔は一揆をしたら首を斬られるが、願いの一部は聞いてもらえた。けど明治政府は首を斬るだけで、願いは一切合切聞きやせん。先にいきゃあいくほどムゴうなる、それがこの世じゃ」

 終始血なまぐさいこの顛末を恐ろしい思いで聞きながら、それでも忍少年はしつこく祖母にねだるのをやめられなかった。橋本は春日さんにこう話す。

「生野騒動の最後は一番不条理になるんだよね。普通の話じゃない」「僕の書いてきた脚本も、これすべて異常な事件でしょう。普通の出来事じゃない」「僕が書いてきたのは」五つ、六つのときに刷り込まれたこの不条理劇のバリエーションだ。ハッピーエンドにしたくても「ならんのだよ」。

 九十路に入って歩んできた道を見晴るかせば、遠近法で遠くに集約する一点に、祖母の語り聞かせがあったことに気づかされたということだろう。小料理屋を営んでいた父が、芝居の興行にも乗り出し、楽屋に出入りして化粧する役者達が別人になる様を見ていたのも、橋本が芸能に魅せられたワンダー(驚異)体験だったようだ。


伊丹万作、佐伯清、黒澤明。人と人が繋いだ『羅生門』の誕生

 橋本忍がシナリオライターを目指したのはひょんなことからである。結核で兵隊さんに取られなかった橋本は、結核療養所で療養中、隣の青年が読んでいた雑誌『日本映画』を「よかったらお読みになりますか」と渡される。そこにシナリオがあった。

 生まれて初めて見たシナリオだったが、この程度なら自分のほうがうまく書けると、根拠なき自信をみなぎらせる(ここが実に橋本らしい)。橋本は隣の青年に聞く。「これを書く人で、日本で一番エラい人は誰ですか?」「伊丹万作という人です」。

 こうして京都の伊丹に自分の書いたシナリオを送り、伊丹から返信をもらい、同病で床に伏していた伊丹の通い弟子になってしまう。脚本の弟子を持たなかった伊丹が懇切丁寧に指導したのだから、橋本に才能の片鱗のようなものを見いだしていたに違いない。

 伊丹は敗戦後の翌年、46年9月に死去。橋本は心の支えをなくして書く気力も失うが、椎間板ヘルニアの大けがを負って会社も欠勤せざるを得なくなったとき、暇つぶしに芥川龍之介の『藪の中』をシナリオにしてみようと思いつく。夏目漱石は何度も映画化されているが、芥川はまだ手つかずだった。

 これが黒澤明との縁のきっかけとなる。まず伊丹夫人が夫の一周忌で、助監督時代に伊丹に師事していた佐伯清監督に橋本を紹介する。佐伯は伊丹万作が高く評価していた黒澤と仲がよかった。そこで橋本は佐伯に頼む。黒澤さんに脚本を読んでもらえないだろうか。

 こういった一連の流れを読むと、昔の人達は、なんと力を惜しまず人と人を繋いでいたことかと感心する。現代で規模は小さくとも似たようなことをすると、なにか利害関係があるのではないかと勘ぐられるのがオチである。

 閑話休題——。佐伯監督に脚本を託して半年以上1年未満の頃、ある葉書が舞い込む。あなたのシナリオを黒澤明が次回作として撮ることになりました。ついては打ち合わせの必要があります。なるべく早く上京していただけると幸いです。橋本は「天からのボタ餅のような一大転機だった」と、1964年のキネマ旬報4月号に寄稿している。

 打ち合わせの要があったのは、『藪の中』は一本の映画にするには短すぎたからだった。『羅生門』と組み合わせたらどうだろうと提案したのは、橋本によれば橋本で、黒澤によれば黒澤。まさしく藪の中。しかしこのドラマはまだ続く。

 ヘルニアが悪化して歩行困難になった橋本に替わって、『羅生門』の決定稿を書いたのは黒澤だった。橋本は黒澤が書いたその結末を「破綻」「付け焼き刃」と断じ、意を決して見解の相違をぶつけに行く。黒澤邸で黒澤と“対決”するシーンは、『複眼の映像』の中でも、研ぎに研いだ鋭利な白刃がひときわ光るシーンだ。

 ところが、である。橋本はこの『鬼の筆』で春日さんにアッケラカンとこう語る。「人間というのは錯覚があるのかしら。僕が違うと思った黒澤さんのラストは、すでに僕が第二稿で書いていたんだ。黒澤さんが決定稿で間違えたと思っていたけれど、それは僕がやったことだったんだ」。

 これをのけぞると言わずして何と言う!? 耳を疑った春日さん同様、私もひっくり返ってしまった。ここで検証の詳細は省くが、『複眼の映像』に書いたことは、確かに橋本の錯覚だった。

 春日さんは途方に暮れる。これでは資料価値の高かった『複眼の映像』の信憑性が大きく揺らぐ……。寄る辺ない気持ちで荒野に立たされた春日さんを想像し、つい笑ってしまった(ごめんなさい)。

『羅生門』は1950年国内で公開され、翌1951年ヴェネチア国際映画祭でグランプリ(金獅子賞)を受賞する。さらに、1952年の第24回アカデミー賞で名誉賞(現在の外国語映画賞)も受賞。シナリオデビュー作でこのような栄誉を引き当てる脚本家というのも稀有だろう。ただ「世界のクロサワ」へと飛翔する黒澤の陰で、橋本の名はさほど注目されなかった。

 当時の橋本はスーツを着て髪を七三にわけた関西の中小企業のサラリーマン。『羅生門』の新聞広告を見て「ハシモトシノブってめったにある名前じゃないぞ」といぶかる社長に、まだサラリーマンをやめる決心のついていなかった橋本は「同姓同名ですよ」と誤魔化す。その程度の身内知名度でしかなかった。


黒澤の「シナリオの助手さん」からの脱皮。『真昼の暗黒』『切腹』

 51年秋に単身で上京。黒澤邸の近くに住みながら、黒澤との共同脚本書きに精を出す。「あと七十五日しか生きられない男」というお題から『生きる』(52年)が、「次は時代劇を撮るぞ」との大号令の下で、上映時間約3時間半の超大作『七人の侍』(54年)が生まれる。駆け出しの橋本は期せずして、のちに黒澤明の代表作とされる3本にかかわったことになる。

 橋本忍が率直すぎるほど率直だと思うのは、8ヶ月かかった『七人の侍』のシナリオ完成後、ようやくこれで黒澤から離れられると爽快な解放感を味わったことを隠さないことだ(もちろんこれで縁は切れなかったのだが……)。それほど千本ノックをこなしたということ。そのおかげで、これからはなんでも書けるという自信もつける。

 その自信の裏側には、自分は「選ばれた人だ」という思いがあったと春日さんに語る。自分は伊丹万作のただ一人の脚本の弟子であり、黒澤組で習練する機会にも恵まれた。伊丹万作は亡くなったから、もう誰も教わることができない。だから自分は「選ばれた人だ」と。

 傲慢にも不遜にも思える発言だが、橋本忍という人は、自分をも群衆の中の一人として俯瞰で見るクセがあるように思う。自分を“上げている”わけではなく、群衆一人一人を見分け、個性付けをしていく中に自分もいるのではないか。男性の精神構造のことはよく分からないが……。

「映画は脚本が8割」と言ったのは、三谷幸喜も敬愛する名脚本家にして名監督のビリー・ワイルダー。それに比して、日本では脚本の重要性はさほど認識されていなかった。

 橋本もそこが不満だった。『羅生門』が国際的な賞を獲っても、黒澤の「シナリオの助手さん」というような認識しか持たれていない。黒澤に「日本一の助監督」と言わしめた野村芳太郎ですら、そう思っていたと述懐している。

 一躍橋本忍の名が知れ渡ることになるのは、『七人の侍』から解放されて、初めて自分のために書いた『真昼の暗黒』である。少年4人が被告となったミステリー仕立ての裁判劇で、橋本は係争中であったにもかかわらず、これを冤罪事件として描く。そのため最高裁や映倫から制作中止の圧力がかかったという曰く付きの作品だ(今井正監督)。

 国家の裁判制度という無慈悲な鬼に金棒でぶん殴られ、不条理の底に突き落とされた少年達。橋本のジャーナリスティックな批評精神も社会派として絶賛された。しかし、ここでも橋本翁は春日さんに思いがけないことを打ち明けて唖然とさせる。

「国の裁判制度を批判しようと思って書いたものじゃないんだ」「そりゃあ理屈は言うよ。国家の巨大な歯車に絡まれたらどうしようもないとか」「そう言った方が通りがいいから」。でもね、あれは当時三益愛子さんの母もの映画が当たっていて、そっちを狙ったの。「無実の罪になっている人が四人」「みんな母親や恋人がいる」「つまり四倍泣けます母もの映画」だった、と。

 なんという食わせもの! 橋本の俗気に思わず吹き出してしまった。巨大な「鬼」に虐げられる人々を描く一方で、橋本の中にも茶目っ気の小鬼、俗気の小鬼、ギャンブラーの小鬼などが棲んでいたと、私は見立てる。

 ルキノ・ヴィスコンティの『山猫』とカンヌでパルムドール賞を争った『切腹』(小林正樹監督 63年カンヌで審査員特別賞受賞)を、書けると確信した瞬間を語る話には夢想の小鬼が登場する。

 橋本はそれ以前に訪れたカンヌで『尼僧ヨアンナ』のポスターを目にし、“自分が書いた脚本の映画がカンヌに出品されたらどんなポスターになるんだろう?”とふと思う。そのとき書きあぐねていた滝口康彦の原作の芯が「切腹の座についた侍の恨み節」だと閃いたと春日さんに打ち明ける。

 カンヌ、海辺のベンチ、地中海の陽光、そしてまだ脚本にもシャシンにもなっていない架空のポスターへの夢想。それが現実となってヴィスコンティと争うのだから、名誉のようなものを追い求める小鬼もいい働きをする。

 橋本忍は映画会社がスターで客を呼ぶスターシステムを取る中で、スターありきの「当て書き」もしなかった。演じる人間が決まっていてはつまらない。誰が演じるか分からないから自由に書ける。

 シリーズ作品もダメ。勝新(勝新太郎)から直々に座頭市シリーズへの参加を求められたが、「しんどくて」断った。固定化したイメージが、橋本忍の創作意欲を刺激しなかったようだ。

『七人の侍』以降、自律した活動期を迎えた橋本が映画史に刻んだ作品を、ここで改めて(黒澤映画はあえて除き)ざっと書いておこう。

 映画全盛の50年代は、少年達の冤罪事件を扱った『真昼の暗黒』(56年)、モノクロの初のシネスコワイドで撮られた清張原作の『張込み』(58年)、著作権問題が浮上した『私は貝になりたい』(59年)。この映画では、著作権について猛勉強した橋本は学者並みの学識を身につけ、国の法整備にもアドバイザーとして関わる。

 テレビや多様な娯楽に押されて映画が衰退していく60年代は、サスペンスドラマといえば断崖絶壁というほどロケ地の定番化を招くきっかけとなった松本清張原作の『ゼロの焦点』(61年)、カンヌに出品された滝口康彦原作の『切腹』(62年)、山田洋次監督が唯一他人(橋本忍)のシナリオで撮った松本清張原作の『霧の旗』(65年)、山崎豊子原作の『白い巨塔』(66年)、大宅壮一原作(というのは名義上で、実際は半藤一利作品)の『日本のいちばん長い日』(67年)。

 70年代に入ってからは大作が続く。池田大作の小説を映像化した『人間革命』(73年)、小松左京の大ベストセラーを特撮パニック大作に仕上げた『日本沈没』(73年)、松本清張との14年来の約束を果たすために橋本プロを設立して映画化に乗り出した『砂の器』(74年)、新田次郎原作の『八甲田山』(77年)、横溝正史原作の『八つ墓村』(77年)。

 橋本忍の名を知らない人でも、ああ、あの映画かと思い当たる人も多いのでは? 


松本清張をして「原作を超えた」と言わしめた『砂の器』

 さて、シナリオライターはどこまで原作をいじれるのかという問題に立ち戻れば、『砂の器』にとどめを刺す。

『砂の器』は新聞連載小説で、橋本をして「まことに出来が悪い」「生理的に読めない」と嘆かせた。しかし『張込み』以来の清張さんとの縁。むげに断れない。

 若き日の山田洋次と島根の亀嵩へ取材に行き、父子が歩いたとされる道を歩きながら、橋本は突然山田に話しかける。「そういえばあの小説には“その旅がどのようなものだったのか、彼ら二人しか知らない”という二十字くらいの描写があったよな」。「ありました。憶えています」(山田)。

「それじゃ洋ちゃん、父子の旅だけで映画一本作ろうや。他の所はいらん」。山田が驚いて「できますか?」と尋ねると、橋本は言い切る。「できなくったってそれ以外に方法はないんだよ」。

 帰京してすぐに宿に籠もり、わずか3週間という早さで出来上がったのがあの『砂の器』のシナリオだった。刑事達の捜査行の部分は大胆に縮められ、原作では亡くなっていた父の本浦千代吉がシナリオでは存命する設定になっていた。

 松本清張作品にお世話になった者として、あまり大きな声で言えないが、余分なものがそぎ落とされた映画版は原作よりよほどスッキリしている。原作は電子音楽や、電子音楽スタジオで(周波の働きを利用して?)女性を堕胎させるなど、なんだかとても前衛チックなのだ。

 死者をも蘇らせる大改変。しかしこれが松本清張をして「原作を超えた!」と言わしめる。微かに流れる通奏低音を掘り起こし、前衛に流れた清張の筆を真の節に戻す。これもまた脚本の大いなる働きに違いない。

 外国映画祭で審査員も務めるある高名な映画関係者と『砂の器』の話になったとき、彼女が「あの延々と続く日本の四季の絵葉書みたいなシーンがどうもねえ。大袈裟な音楽も……」と顔をしかめるので、「ええーっ、あれがいいんじゃないですか」と笑って反論したことがある。

 私は泣かせのツボにはまるのをよしとしないひねくれ者ではあるが、『砂の器』のラスト約30分の壮大な叙事詩には素直にノレた。本浦千代吉を演じた加藤嘉が、息子の写真を見せられ、「知らん」とした後、嗚咽するシーン(顔演技)は忘れられない。

 この『砂の器』は橋本忍が興した橋本プロで制作され、松竹で配給された。そうなった駆け引きがまた映画ビジネスの機微をうかがわせて面白い。

 橋本は『砂の器』の映画化を、松竹、東宝、大映とどこにも断られ、最後の手段と橋本プロダクションを設立した(73年)。そのとたん東宝の藤本真澄プロデューサーから呼び出される。「そんなにやりたいんだったら東宝が金を出す。その代わり、東宝の仕事を二、三本やってほしい」。

 橋本は合意した。しかしここで監督問題が持ち上がる。監督を志願していた同志の野村芳太郎は松竹の秘蔵っ子でありながら、橋本プロにも参画。砂の器を撮れなければ、松竹を辞すという覚悟だった。あわてた松竹が連絡してくる。「橋本プロと松竹の共同作品ということではいかがでしょう」

 橋本の怒ること怒ること。冷酷な仕打ちで14年もお蔵入りさせておいて、いまさらそれはないだろう。断固拒否するつもりで松竹に向かっているとき、『砂の器』の父子の旅というテーマから、ふと野村芳太郎の父もまた松竹の監督であったことを思い出す(野村芳亭)。

 橋本には、この映画は絶対当たるという確信があった。「失敗ということは全く考えていなかった」。しかし東宝と組んで父の野村芳亭さんが喜ぶだろうか。松竹でやれるのなら松竹でやってほしいと、きっと思うはず。

「野村(の立場)を不幸にして作品が成功しても本当の成功はありえない」。こうして橋本は怒気を引っ込め松竹の懐柔案に乗る。東宝に対しては、次の橋本プロの作品は東宝と作り、必ずヒットさせると約束して。

 それが大ヒット作『八甲田山』だったのだから、東宝も儲けもの。〈借りを作り・借りを返す〉というビジネスモデルはまだ健在だったのだなあと少し遠い目になる。


客が呼べるエンターテインメントに終着駅はない

 橋本は社会の上位の者を描かず、下位の者への眼差しが強かったため、共産党系の物書きと思われていた。しかし「その時代、時代によって、自分が面白いってものを書いてきたんだよ。だからある時には『真昼の暗黒』みたいな共産党が書いたようなものになるわけだし、それが『白い巨塔』になったら正反対の、権力を求める人間の話になるし」

「でも、本当に『面白い』と思えるところまで、なかなかいけない」「手前のところで止まってしまうんだ」「そこは」「どうしようもない」「それは越えられない」。

 面白さは時代によって違う。客が呼べるエンターテインメントに終着駅はないということだろうか。

 久々にじっくり読まされた評伝だった。正直言って、映画の面白さに目覚めたのはアメリカンニューシネマからで、ここに書かれている邦画の黄金期も、映画が娯楽の王様の座から滑り落ちていく過程も、ある種の世相史として知っているだけで、橋本忍に詳しかったわけではない。

 それでもいきいきと面白く読めたのは、著者の春日さんが証言の違う事象をそれこそ“複眼”で検証しているからだった。映画史研究家の誠実な仕事ここにあり。著作でしか存じあげない方だけれど、春日さんありがとう!

※「ストーリー概要」は出版社公式サイトより抜粋。

筆者:温水 ゆかり

JBpress

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