阪急線“ナゾの終着駅”「北千里」には何がある?

2025年4月21日(月)7時0分 文春オンライン

 いよいよ、大阪・関西万博がはじまったらしい。東京にいるとあまり実感することはないのだが、大阪ではそれなりに盛り上がっているのだろう。そして、まあ予想通りと言うべきか、あれやこれやと問題も指摘されている。そのひとつが、交通だ。


 なんでも、万博会場に直結する地下鉄中央線の夢洲駅はあまりにお客が集中してしまって入場規制するほどの混雑ぶりだったとか。帰ろうとしたのに駅に入ることもできずに数時間も待たされたら文句のひとつも言いたくなるものだ。


 が、そもそも万博と交通難は切っても切れないニコイチのような関係だ。


 2005年の愛知万博はリニモというおよそ輸送力充分とはいえない新しい交通機関があるだけだったし、1985年のつくば万博は会場に直結する鉄道すら存在しなかった。


 常磐線に「万博中央駅」という臨時駅(現在はひたち野うしく駅になっている)が設けられ、そこからバスで会場に向かうのがメインルート。そんなことを思えば、地下鉄中央線が会場の目の前まで乗り入れているだけでも感謝しなければなるまい。


 さて、ここで半世紀と少し前、1970年の大阪万博である。岡本太郎先生の「太陽の塔」でおなじみのあの万博、半年ほどの開催でなんと約6400万人も来場したという。


 まだ大阪モノレールのない時代、アクセスの主役を担ったのは地下鉄御堂筋線とそこから延伸した形の北大阪急行だった。なんでも、来場者の約3割を運んだという。そして、御堂筋線・北大阪急行とともに活躍したのが阪急千里線だ。



阪急線“ナゾの終着駅”「北千里」には何がある?


阪急線“ナゾの終着駅”「北千里」には何がある?


 千里線は南千里〜北千里間(現在の山田駅付近)に臨時の万国博西口駅を設置して、梅田からはもちろん宝塚・三宮方面からの直通列車も走らせて約900万人を運んでいる。


 北大阪急行の陰に隠れる形ではあるものの、阪急千里線も大阪万博成功の立役者といっていい。


 そんな千里線、もちろんいまでも現役バリバリだ。梅田からの直通列車はほぼ1日を通じて1時間に3本のペースで走り、加えて地下鉄堺筋線天下茶屋駅から直通する列車も加わる。


 地味ながら、北摂の千里ニュータウンと大阪の中心部を直結するルートとして活躍している。今回は、そんな千里線の終点、北千里駅にやってきたのである。


梅田からは30分ほど。淡路駅を過ぎると町並みにも変化が…


 梅田駅から北千里駅までは、各駅停車でざっと30分。もともと梅田が大阪のキタにあるのだから、北摂のニュータウンへの距離も短い。


 淡路駅で阪急京都線から分かれ、ほどなくニュータウンゾーンへ。途中の千里山駅は、1963年に新千里山(現・南千里)駅に延伸するまでの終着駅だった。


 阪急千里線は大正時代に北大阪電気鉄道によって建設されたのがはじまりだ。同時期に千里山駅の西側に当時のニュータウン、千里山住宅地が開発されている。


 千里丘陵における宅地開発の先駆けといったところだろうか。その後の延伸は戦後になってからで、それこそ千里ニュータウンの計画と共に延伸が進められている。


 千里丘陵一帯に広がる千里ニュータウンは1958年に建設が決定、1960年には計画のマスタープランも策定された。


 このとき、中心的な交通機関として白羽の矢が立ったのが阪急千里線だったのだ。1963年には新千里山(南千里)、次いで1967年に北千里まで延伸して現在の形が完成している。


 そして、北千里駅の周辺では駅開業に先立ってニュータウンの入居が始まっている。最初は藤白台と古江台、続けて青山台。


 こうしてこれらのニュータウンの玄関口として北千里駅が開業し、半世紀以上が経った今でも本質的な役割は変わっていない。


高架のホームから階下の改札を抜けると…


 高架の北千里駅ホームから階段を下って階下の改札を抜けると、駅の西側の広場に出る。広場を囲んでいるのは正面のイオンを核としたディオス北千里という商業施設だ。


 千里中央駅におけるセルシー、またせんちゅうパルのようなものなのだろう。ただこちらは比較的新しく、1994年にオープンしている。


 それでも専門店街になっている南側のエリアはどことなくうらぶれている雰囲気だ。空きテナントも目立ち、30年来の年季がむんむんと漂う。


 ただし、これはただ寂れているというわけではないようで、再開発の計画があるらしい。吹田市が中心になって進めているプロジェクトで、数年中に着工。2037年度ぐらいには商業ビルと大型マンションに生まれ変わるという。


 そして、そんな再開発を待つディオス北千里の他はもうまったくのニュータウン、住宅地だ。駅の北西が青山台、南西が古江台、そして東側には藤白台。


 どこも巨大な集合住宅が駅の近くにどーんと建ち聳え、その周囲には実に昔ながらの団地らしい建物群が広がっている。


ニュータウンの合間を抜けて歩いていると…


 その合間を抜けてゆくと、それぞれのエリアの中心に小学校、そして「近隣センター」などと呼ばれる商店や郵便局、クリニックなどが集まった一角がある。


 千里ニュータウンは12の住区から構成されており、それぞれの住区は外縁を戸建て住宅ゾーンが取り囲み、その内側に府営住宅や公団住宅といった団地群や企業の社宅などが集まり、さらに中心には小学校や近隣センターが置かれる……という構造が基本になっていた。藤白台・古江台・青山台もその例に漏れない。


 ただ画一的な団地から構成されているのではなく、さまざまなバリエーションの住宅が集まっているのが、千里ニュータウンの特徴なのだ。集合住宅の中には半世紀以上が経って建て替えられたものもちらほらと。


 建て替え後は従来よりも大きな規模のマンションに生まれ変わっていて、古い団地から戸建て、真新しいマンションまでさながら日本の住宅見本市。そういう目線で千里ニュータウンを歩いて見るのもおもしろいのかもしれない。


 そうはいっても、訪れたのは平日の真っ昼間。働く人や学校に通っている人はほとんどニュータウンにいなくなる時間帯だ。だから北千里の町中を歩いていても、人通りはほとんどない。


 ときおりすれ違う人がいても、だいたいすでに現役を退いているようなお年寄りばかりだ。きっと、千里ニュータウンが開発された当初から暮らしているのだろう。


 ところが、北千里の駅前から藤白台の中央を東に抜ける並木道には、妙に多くの若い人たちが連なって歩いていた。


生い茂る竹林の向こうにやたらイカツいビル群。これは…


 彼らは藤白台の東端に抜けると、開発以前の千里丘陵の面影を留めているような竹林が茂る公園の中を通ってゆく。その先にあるのは、大阪大学の吹田キャンパスだ。


 かつての大阪大学は学部ごとにキャンパスが大阪府内に点在していた。それを集約する形でニュータウンの開発に合わせて北摂地域の豊中と吹田にキャンパスが設けられた。


 吹田キャンパスはそのひとつで、主に理工系の学部や研究機関が集まっているようだ。北千里駅前から連なって歩く若者たちは、きっと大阪大学や大学院の学生さん。北千里駅前は、大阪大学の“学生街”という側面も持っているのである。


 が、およそ学生街らしい空気感は存在しない。それはキャンパスが理工系だからなのか、梅田あたりまで繰り出してしまうからなのか。いずれにしても、昼間の北千里駅周辺、意外と若者たちの姿も見かけるのであった。


切っても切れない関係…「北千里」が歩んだ「大阪万博」以後の50年


 そして、北千里駅から東側に広がる大阪大学吹田キャンパスの南には万博記念公園が広がっている。いうまでもなく、1970年の大阪万博の会場だ。


 藤白台をはじめとする北千里周辺の開発と駅の開業が1960年代半ばのこと。その最中の1965年には万博の開催が決定し、翌1966年には昭和天皇と香淳皇后が視察に訪れている。


 現在の南千里駅周辺の南地区センターを視察後、車に乗って藤白台や古江台なども回っている。そして、千里中央公園に設けられた展望台に登り、新生間もないニュータウンとまだ工事の始まっていない万博の会場予定地を眺めたという。


 1970年に開催された大阪万博と、その直前に開発された千里ニュータウンは、まさに当時にあっては夢そのものだったのだろう。


 少し頑張れば手が届く現実的な夢としてのニュータウン、そしてそれよりはもっと遠いけれども人類の可能性を感じさせてくれる夢としての万国博覧会。開業当時の北千里駅は、当時の人々の抱いた夢のるつぼの中心にあった駅といっていい。


 そんな夢の時代から50年以上の歳月を経て、ニュータウンは高齢化や人口減少に悩んだ時代も経験した。が、最近では地域の人々の試行錯誤もあって持ち直してきているという。いずれにしても、およそ平坦とは言えないような歴史が北千里駅前の風景に凝縮されている。


 そして、埋立地・夢洲で開催されている令和の万博。閉会後にはカジノになるだのなんだのと喧しい。果たして、半世紀後の夢洲はどうなっているのだろうか。昭和の万博会場に近いニュータウンを歩くと、どうしてもそういうことを考えてしまうのである。


写真=鼠入昌史


(鼠入 昌史)

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