『べらぼう』御三卿でなければ名君になっていた?一橋治済の生涯と実績、徳川家基の急死は治済と田沼意次の共謀?
2025年4月28日(月)6時0分 JBpress
(鷹橋忍:ライター)
今回は、大河ドラマ『べらぼう』において、生田斗真が演じる一橋治済を取り上げたい。ドラマで描かれているように、様々な事件の黒幕だったのだろうか。
御三卿とは
八代将軍徳川吉宗の次男・宗武(むねたけ)を祖とする「田安家」。
四男・宗尹(むねただ)を祖とする「一橋家」。
九代将軍・徳川家重(吉宗の長男)の次男・落合モトキが演じる重好(しげよし)を祖とする「清水家」。
この徳川将軍家一門の三家を「御三卿」という。
御三卿の家格は、御三家(尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家)に次ぐとされるが(教育社編『日本史重要姓氏辞典』)、城持ちではなく、江戸城の郭内に居を構えた。田安、一橋、清水の呼称は、江戸城内の彼らの屋敷の場所に由来する。
御三卿は正式には徳川を称し、将軍家に跡継ぎがいない場合は養子を出した。
御三家が独立した大名であるのに対し、御三卿は「将軍家に附属し、養われる存在」で、独立性に乏しかったといわれる。
御三卿の筆頭は田安家で、一橋家、清水家の順で続く。
四男だが、家督を相続
一橋治済は一橋家の初代・宗尹の四男で、二代当主である。
治済は幼名を豊之助といい、宝暦元年(1751)に、江戸一橋邸で生まれた。
寛延3年(1750)生まれの蔦屋重三郎より一つ年下となる。
母は、宗尹の側室・おゆかの方(細田氏)だ。
治済は吉宗の孫にあたる。
眞島秀和が演じる十代将軍・徳川家治、寺田心が演じる松平定信(田安家)とは、従兄弟の関係となる。
宗尹の長男・重昌は、延享4年(1747)に福井藩藩主・松平宗矩の養子となるよう幕府から命じられ、二年後に福井藩主を継いだ。
だが、重昌は宝暦8年(1758)に16歳で死去したため、宗尹の三男・重富が重昌の養子とされ、あとを継いでいる。
宗尹の二男はすでに早世しており、四男の治済が、同年に嫡子となった。
明和元年(1764)父・宗尹が没すると、跡を継ぎ、一橋邸の当主となった。治済、14歳の時のことである。
安永2年(1773)10月には、長男・豊千代が誕生している。後の十一代将軍・徳川家斉(いえなり)である。
治済と田沼意次の共謀? 徳川家基の急死
安永8年(1779)、十代将軍・徳川家治の長男・奥智哉が演じる徳川家基が、鷹狩りの帰りに発病し、18歳の若さで急死している。
家治には、2人の娘(千代姫と万寿姫)と、2人の息子(家基と貞治郎)がいたが、娘2人も貞治郎もすでに亡くなっていた。
家基も死去した今、家治に残された子は、養女・種姫(田安家の初代当主・徳川宗武の娘)のみだった。
江戸幕府の規程では、武士は50歳までに、実子、養子を問わず、家督の継承者を定めておくことが望ましかった。
当時、43歳だった家治には、これから跡継ぎとなる男子が誕生する可能性も、まだ残されていた。
しかし、家治は将軍家の安定を優先し、養子を迎える道を選んだ(以上、藤田覚『田沼意次 御不審を蒙ること、身に覚えなし』)。
次期将軍となる養子の選定という大任を託されたのは、渡辺謙が演じる老中・田沼意次である。
御三卿筆頭の田安家は、当主不在のため、対象から外れた。
もし、聡明で知られた松平定信が田安家にいれば、有力な候補だったと思われる。
だが、定信は白河藩主・松平定邦の養子に迎えられ、天明3年(1783)に家督を継いで、白河藩主となっていた。
この松平定信が養子に出されたのは、一橋治済と田沼意次による策謀だったともいわれる(岡崎守恭『遊王 徳川家斉』)。
いずれにせよ、田安家は対象外であり、家治の養子は一橋家か清水家から選ばれることになった。
清水家の当主は、家治の弟にあたる清水重好だった。
本来なら、清水重好が家治の養子にふさわしいはずである。
だが、意次が選んだのは、一橋治済の長男で、9歳の豊千代だった。
意次と一橋家は、意次の弟・田沼意誠(おきのぶ)を通じて、深い繋がりを築いていた。
田沼意誠は、享保17年(1723)に召し出され、治済の父・宗尹の小姓となって以来、一橋家に長く仕え、宝暦9年(1759)には、家老の座に就いている。
意誠は安永2年(1773)に死去したが、意誠の子・意致が跡を継ぎ、安永7年(1778)7月には、亡父・意誠と同じく家老にのぼった。
意次が豊千代を選んだのは、一橋家との関係の深さが一因とも、自分が選定した豊千代が将軍となれば、豊千代の時代も、引き続き権勢を手にできると考えたとも推定されている(安藤優一郎『田沼意次 汚名を着せられた改革者』)。
治済と意次に都合がよい結果のため、二人が共謀し、家基を毒殺したともいわれる。
江戸中期の俳人・随筆家の神沢杜口(かんざわとこう)著の『翁草』には、大奥女中の間で意次による毒殺説が広まっていることが記されているが、真相は定かでない。
松平定信を老中に推挙
天明元年(1781)閏5月、一橋治済の長男・豊千代が家治の養子と公表され、江戸城西丸に入って、12月に家斉と称した。
天明6年(1786)8月25日、十代将軍・徳川家治が急死する。当時、田沼政治から民心は離れており、後ろ盾を失った田沼意次は2日後の27日、老中辞職に追い込まれた。
天明7年(1787)4月、家斉は15歳で十一代将軍に就任し、同年6月、白河藩主となっていた松平定信が、30歳で老中首座を拝命。松平定信政権が誕生したのである。
家斉の治世の安定を願う一橋治済が(横山伊徳『日本近世の歴史5 開国前夜の世界』)、尾張、紀伊、水戸の徳川御三家の当主とともに、従兄弟にあたる松平定信を田沼意次に代わる新しい幕政の主導者として、老中に推挙したという。
そのため、治済は御三家の当主とともに、人事や政策などの重要事項の実施について、定信から意見を求められるようになった。
だが、家斉が治済を大御所(前将軍)として西丸に迎えようとしたこと、および、治済の実兄である福井藩主・松平重豊の官位昇進を反対されたことなどにより、治済と定信の確執は深まっていく。
治済は、老中格の本多忠籌(ほんだただかず)に指示を与えて、定信を老中から解任したという(山本英貴「「大御所時代」の幕藩関係」 荒木裕行・小野将編『日本近世史を見通す3 体制危機の到来——近世後期—』所収)。
寛政11年(1799)正月には、家督を六男・斉敦(なりあつ)に譲って隠居するも、幕政の黒幕的存在として、死去するまで政治力、影響力を持ち続けたとされる。
御三卿でなければ、名君になっていた?
文政10年(1827)2月20日、一橋治済は、77歳で息を引き取った。
あまり芳しくない評判が伝わる治済であるが、腹黒いだけ人物ではなかったようである。
例を挙げると、邸内の倹約に対して、的確で細部にわたる指示を繰り返し、稽古場を設けて武芸を奨励。
領知行政にも細かい配慮をし、代官を諫めることも忘れなかったという(辻達也「一橋家の歴史」 茨城県立歴史館『一橋徳川家の名品』所収)。
もし、独立した大名だったなら、名君となり得る素質は、充分に備えていたとみられている(歴史読本編集部『徳川将軍家・御三家・御三卿のすべて』)。
ドラマの一橋治済も、御三卿の一橋家ではなく、大名の当主に生まれていたのなら、名君と呼ばれていたのかも知れない。
筆者:鷹橋 忍